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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前の話はここら



島津常子には成人しただけでも実に上下合わせて14人もの兄弟がいました。今じゃ考えられない数ですね。
もちろん、この時代のことですから、お母さんは同じではなく
9人:妾 山崎須磨子
5人:妾 菱刈久
となっています。てゆーか、9人でも多いぞヾ(^^;)

薩摩藩が明治維新時に勝者の側に立ったお陰かどうか、女性はそこそこ良いところに嫁がれています
…といっても、常子みたいにずるずる行き遅れて諦めたころ?に宮家から話が来たと言うことも割とあったようですが(^^;)
余りにも家柄が良すぎても、今度は相手を選ぶので、意外に華族のお姫様の婚家探しは大変だったようです。

前回のお話で紹介した『幕末300藩 古写真で見る最後の姫君達』では、常子が2人の妹と一緒に撮影した写真が出ています。常子がようやくヾ(^^;)結婚がきまった明治35年に撮られた記念写真です。

一番左の洋服姿の女性が常子で、真ん中で立っているのが正子、右で椅子に座っている一人年少の女の子が為子 というのは前回で紹介済みか。
正子に関しては同じ本の「近衛泰子」の項目の方で詳しく登場しています。

この二人の妹も興味深い生涯を送ってられます。
ついでに(ヲイ)紹介してしまおう。
※興味のある方は「つづきはこちら」をクリックぷりーず
※この記事で紹介する写真は1枚を除き『幕末300藩 古写真で見る最後の姫君達』から引用した物です



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先日、本屋でちらっと立ち読みした本関連でネットで検索し、今頃になってトランプ大統領の黒幕?と言われる人物「スティーブン・バノン」という名前を知ったわけだが(汗)
このバノンという人物、ある歴史観を“信仰”しているらしい。その歴史観というのが「フォースターニング」論と言われる物で、国の命運は4つのステージをぐるぐるぐるぐると繰り返している…というもの。これだけでは何が問題なのか分かりにくいが、この論では個人主義が最高潮に達し狂信的な投機が賞賛された(→今の時代に似てますね)後には、一転して国家権力が強化され市民が集団に動員されるという最後のステージが待っている…というもの。この「フォースターニング」論を主張した人は「森は定期的な山火事を必要としているし、川にも洪水が必要だ。社会も同じであり、新たな黄金時代を迎えるためにわれわれには支払わなければならない代償がある」と言う比喩ではあるが、社会制度が硬直したときには戦争をも含めた破壊行動も全然否定してないというかむしろ推奨してるような雰囲気があるのがコワイ

とここまで読んで、これどこかで見たことあるな~と思ったわけです。
これって、石原莞爾の「最終戦争論」そっくりじゃないか?、と。
最も「最終戦争論」は大戦争の後には恒久的な平和が来る=歴史はループしてない、という点で「フォースターニング」論と違う点もありますが。

ともかく、こういうテロや紛争多発の似たような時代に、似たような思想がじわじわ支持を得ているところがコワイ。
石原莞爾自身もそうだった(と私は考えている)ように、自分の信念に基づいて火に油付けて自ら戦争の火種を巻いてしまう場合もありますしね。

ちなみにこの「フォースターニング」論は翻訳本が出たそうです。訳者自身もトンデモ本と思ってられる節がありますが(苦笑)



では気を取り直して本題。

最後の鹿児島藩主であり、明治に公爵となった島津忠義の娘からは2人も皇族妃になった人が出ました。
一人が前回紹介した三女(実際は四女)・常子です

もう一人の宮妃の方が有名かも知れない。
ちうのも、その人は今の天皇陛下の曽祖母になるからです。

ただ、かえってこういう背景があるためからか、有名人の割りにはその生活ぶりとかを伝える資料とか本をほとんど見たことがない。
今回『闘う皇族』(浅見雅男)と『少年皇族が見た戦争』(久邇邦昭 ちなみに今回のネタの孫になる)
を参考に書いてみる。
ただこの二冊の本でも、記述はかなり乏しいのが現状ですが…。

今回のネタは 久邇宮邦彦王妃・倶子(ちかこ) です。
※なおこの記事中に掲載した写真は上記2本及び『近代皇族の記憶-山階宮家三代』から引用した物です



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悲報 阿闍梨餅減産のお知らせ
(T∀T)
京都土産でお手軽でおいしいの代名詞だったのですが…原料不足じゃ仕方ないか

では気を取り直して本題
幕末三百藩 古写真で見る最後の姫君達
と言う、いかにもミーハーな本を借りてきました(^^;)
その本に一人だけ、島津家のお姫様がネタにされていました。
 島津常子
最後の薩摩藩主・島津忠義の娘の一人です。
ちなみにこのコラム執筆の担当は尚古集成館学芸員の寺尾美保氏。肩書きにもうひとつ「東京大学大学院博士課程在籍中」とあったのでちょっとビックリ。鹿児島から飛行機通学でしょうかねヾ(^^;)

では本題にもどって、島津常子がどういう生涯を送ったのかと言うことについて、上記の本に書かれた寺尾氏のコラムなどを元にして紹介してみる
気になる方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ
※以下記事中に出てくる写真は上掲本、または『近代皇族の記憶-山階宮家三代-』より引用した物です。



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先日金正男氏が暗殺されたという話は拙ブログでもネタにしましたが、
早速「マレーシアで死んだ金正男はニセモノ!私こそ本物なんだが、実はお金に困ってて(以下略)」…といういかにもな手でお金をだまし取る寸借詐欺師が登場してるらしい(^^;)

まあ、金正男氏については正真正銘の本物がお亡くなりに為られたのはマレーシアの当局も確認している様なんで確実でしょうが、何しろ金正男氏の父・金正日といえば自分の影武者を何人も抱えていたのは有名な話で、「お父さんが影武者大魔王だったから息子だって」と思われても仕方ない節もありますな。



ここまでは前置き。

世界史でも、当然日本史でも、死んだはずなのに「実は生きている!」と言う話が絶えない人がいます。
この手の話で日本史上で一番有名なのは
 源義経
でしょう。義経が自害に追い込まれたのは旧暦の4月(新暦では6月)なのですが、何しろ交通不便の12世紀末、義経の首の運搬には43日もかかった(『吾妻鏡』)とのことで、当時最先端の保存処理(酒に漬けられていたらしい)を施されていたとはいえ、到着時には(※書けないので自粛)という状態に…。首実検も十分にできるわけが無く、その辺から「あの首は替え玉」→「本物の義経は実は生き延びている」という伝承に繋がっていったようです。

また、去年の大河『真田丸』の後半の重要キャラだった豊臣秀頼(+主人公の真田信繁(幸村))も「実は(略)」伝説で有名な一人でしょう。
秀頼の生存伝説には、拙ブログの舞台でもある薩摩が非常に関わっていまして(^^;)、秀頼生存伝説で最も有名なのが
「大坂城の裏手には実は薩摩藩の船がいて、大坂城落城の時に豊臣秀頼や真田幸村を乗せて薩摩まで落ち延びさせた、そして秀頼主従は薩摩の谷山で余生を過ごした」
というもの。
島津家はこの大坂の陣で豊臣家から加勢するよう要請されていますがきっぱり断っていますし、秀吉時代に豊臣政権にかなり痛めつけられてますので、実際は豊臣家によい感情を持ってない家臣が多かったと思われます。なのに、何でこんな話が出て来たのか?それにはいくつかの背景が考えられます。
(1)関ヶ原の合戦時、西軍の宇喜多秀家をかくまっていた
(2)豊臣秀頼は大坂城で自爆するという最後を選んだため、遺体が残らなかった
先述の源義経同様、確認しようにもまともな証拠がないため「生存していたのでは」という憶測を産み、更に島津家には敗軍の将/宇喜多秀家をかくまっていたと言う前例があったため「豊臣秀頼をかくまっているのでは?」という話が広まった物と思われます。
実はこの噂話は大坂の陣直後には登場していたらしく_(。_゜)/、当時の在平戸イギリス商館長のリチャード・コックスが日記に
「秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず」「皇帝(徳川家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際に城を脱出せし輩を捜索せしめたり。因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり。」(元和元年(1615)6月5日の日記)
「秀頼は薩摩か琉球に逃げのびた」(元和元年(1615)7月の日記)
と書いています。

実際の所は、秀頼の幼少の息子(国松)等も捕らえられて処刑されているので、大人の秀頼が逃げ延びるのは非常に困難だったと思われます。現に長宗我部盛親も潜伏した物の捕らえられて死罪になっています。
しかし、
・権力に敵対した若い人物が
・非業の死を遂げ
・しかも死体が見つからない
と言う条件が揃うと、この手の「不死鳥伝説」が発生しやすくなるようです。
あ、正男氏は余り若くはないかも知れないし、「不死」なんて言ってしまうと鳥に対して失礼うわ何をヾ(--;)



ところで、豊臣秀頼をかくまった疑惑がかかった当の島津家にも不死鳥伝説が存在したようなのですよ。
長くなるかと思いますので、項を変えて別の機会に。
<(_ _)>

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yahoo!の「あなたへのオススメリンク」でこんなのが表示されていた。
時代の転換期はこうして乗り切れ!薩摩藩、島津義久に学ぶ経営術

皆さんは島津義久(しまづよしひさ)という人物をご存知ですか?戦国時代、薩摩(現在の鹿児島県)・大隅(現在の鹿児島県)・日向(現在の宮崎県)の三州の守護職を務めた武将です。


島津義久には戦国最強と謳われる3人の弟(義弘・歳久・家久)がいました。幼少期、いずれも勇猛果敢で優秀な弟に比べ、義久は大人しく目立たない子供でした。


しかし、祖父の忠良から叱咤激励を受けた義久は九州を席巻しやがて鎌倉時代から続く名門島津家の最強にして最高の政治家へと変貌を遂げました。


そんな島津義久は時代が大きく変化した戦国時代をどのように生き抜いたのでしょうか?めまぐるしく時代が変化する現代を生きる経営者の皆様に島津義久の経営術を紹介します。
(後略)
http://www.tenpo.biz/tentsu/entry/2015/12/14/090000?utm_source=ycd&utm_medium=yahoojp-topics
詳しい内容は、リンク先を見てもらうとして

この記事自体がupされたのは2015年12月14日のようだ。何で今頃こんな古い記事が「おすすめ」に表示されたのか不思議ではある。

さて、この記事では義久をこんな風に評価している。
戦においては部下を適材適所に配置した後は部下のやり方に任せ、自ら動かずして勝利を収めていた義久
兵力を温存しておいたお蔭で、関ヶ原の合戦で疲弊していた徳川軍は島津藩を攻め切る事ができず、最終的に義久は義弘を差し出すことなく守り通し、所領も削減される事はありませんでした。この事により『この人(義久)の為なら何でもやる』という部下が増え島津家の団結をより一層強固なものにしたと言われています。
何かえらい肯定的評価だなおい(^^;)
戦を弟たちに振っていたのは見ように依れば「部下を適材適所に配置した後は部下に任せて」とも見える訳かヾ(^^;)

しかしこの記事
島津藩
など、余り歴史用語としては使わない表記がちらほら…
でも一番がっくりしたのは、リンク元の画像の表記が島津義弘のあの有名な肖像画だったことだが_| ̄|○

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