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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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この本の著者の伊藤隆氏は、今田新太郎関連でいくつか紹介した「○○△△氏談話速記録」関連の企画に深く関わった人です。
この本はあとがきによると80歳を迎えるにあたって遺言的な意味を持って作られた物のようで、つまり「オーラルヒストリーの第一人者が語るオーラルヒストリー」という…なんだかややこしい(^^;)
談話速記録の裏話もいろいろ載っていて興味深い内容でした。

今田新太郎に直接関わるネタは皆無だったので、カテゴリーは「感想」でまいる。
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『昭和初期政治史研究』の「あとがき」で、私はこんな事を書いています。

 本書で述べた”革新”派こそが昭和の政治史の推進力であった。昭和10年代に入ってこの”革新”派がどのように定型化されるのかを、昭和13年の近衞新党の問題を通じて追求してみようというのが次の仮題である。

ここでは「革新」派の「その後」だけを追うつもりであるかのように書いていますが、実際は「その前」の、「革新」がどのように誕生したかについても追求していました。
「革新」とは何だったのか。戦後の「革新」対「保守」と言う言葉のイメージからすると、「革新」=左翼となりますが、そもそも大正年間(1912~26)の使われ方は異なる物でした。
(中略)
北一輝の『日本改造法案大綱』も、マルクス主義者の革命綱領も、共通の位置を持っていたのです。このように「革新」と言う言葉の内容は一変したかのようですが、興味深いのは、左右両「革新」派が、意外に人間的につながりがあることでした。
p.63~65
戦前の“革新”というのと、”右”と”左”の親近性について興味深い記述だったので抜粋。
『上原勇作関係文書』には後日談があります。私も駆け出しだったので、上原家に連絡をせずに活字にしてしまい、それを目にしたお孫さんの尚作さんが、研究室に怒鳴り込んでくると言う「事件」があったのです。「申し訳ない」と平謝りして、話し合いの末に何とか収まったのですが、その時、尚作さんがちらりと、「自宅には日記もある」と口を滑らせます。是非にとお願いしたのですが、そんな事情でしたので、尚作さんもその時は、日記を見せては下さいませんでした。
それから30年近く、毎年年賀状で「日記は如何ですか」と書き続けました。すると平成12(2000)年になって突然尚作さんから、「ちょっとお話ししたいことが」とお電話をいただき、すかさず「日記を見せていただけるのですか?それでしたら話し合いより先ず実物を見せて下さいよ」と言いましたら、持ってきて下さいました。
p.71~72
30年(爆)うっかりには気をつけましょう(汗)ちなみに尚作氏はこの後この日記の翻刻に携わる羽目になったそうです。
『大蔵公望日記』といえば、矢次一夫氏(1899~1983)のことが思い出されます。
(中略)
ある時、国策研究会設立時の話になり、矢次氏は「それはなんだな…」としゃべりだしました。私は聞きながら「ちょっと違うぞ」と思って、こう尋ねました。
「さっき、お話の中で大蔵公望という人が出て来て、ずいぶん頼りにしていたとおっしゃいました。」それはおそらく、この人の言っていることは信じられると言うことだと思いますが、大蔵の日記を見てみますと、あなたが今お話になったこととはかなり違いますが」
すると矢辻氏の怒ること怒ること。
「お前みたいな机上の学問をやっている奴とは違うんだ。俺は現場でやってきたんだ。」
私もひるまず、たたみかけます。
「でもね、あなたが絶対に信頼できるといった人が、その時に書いていた日記にこうあるんです。やはり大蔵さんの日記を信頼すべきではないでしょうか」
矢辻氏はしばらく黙っていましたが、最期には日記に記述を認めました。残念ながらできあがった原稿に、矢辻氏の激昂は残っていません。
インタビューが終わると矢辻氏は、秘書で後に国策研究会事務局長となる吉田弘さんに当たり散らしていました。だいたい、右翼の連中は、自分の子分を怒鳴って相手を威嚇するものです。
p.72~74
矢辻一夫氏に関しては拙ブログのこの辺とか。
なお、何故か矢辻はこの後伊藤隆のことが気に入ったのかどうか、数年後にあの岸信介のインタビューを持ちかけたのはこの矢辻だそうである(p.74)。
昭和46(1971)年、東大の国史研究室助教授になりました。
当時の手帳を見ると、毎日何かの史料研究会、誰それのインタビューばかりしていたことが分かります。講義や演習はもちろんやっていますが、大学のいろいろな役職は、「済みません。僕はできません」、「実は持病が(嘘)」と断り続けている内に、伊藤は役に立たないという事になって何もまわってこなくなりました。ですから学部長も何も経験していません。教授会で発言したことすらないという伝説まであるようですが、だいたいは本当です。
p.79
_(。_゜)/
『年報・近代日本研究』は、私と佐藤誠三郎君、三谷太一郎君、中村隆英さん、坂野潤治君が初代の編集委員となりました。
(中略)
この頃、研究の最初期からの仲間だった坂野潤治君は、少しずつ研究の方向を転換していました。それに対して私は、かなり強い批判を持っていたので、彼の「脱亜論」との関連で疑問を呈する形になりました。
p.100~101
この本のamazon書評でも御厨貢との確執(p.272~274)についてはよく取り上げられているが、坂野潤治との確執については触れてるものがないんで。御厨氏とのケンカの原因は伊藤氏曰く「御厨が立つ鳥後を濁しまくったから」と言うことのようですが、坂野氏との対立は学説による物のようです。
坂野潤治氏の「脱亜論」の概要についてはwikipediaが参考になるかも。
近衛文麿という人物は、軍部や官僚、右翼、左翼の「復古-革新」派から最高指導者として待望されましたが、本当は何をしたかったのか、これがまず見えてきません。
(中略)
近衞新党問題が起きた昭和13年のころには、既に支那事変は泥沼化し、政友会や民政党への国民の信頼はなく、政治は混迷を極めていました。新党結成が期待される世の中がどういう状態かは、昨今のいくつかの例からも理解できます。
政治の混迷の発端は1930年代初頭の、ロンドン海軍軍縮条約締結の時期に遡ります。軍縮問題や世界恐慌に端を発する深刻な経済恐慌など、それまでとは異なる世界的な危機に対して、政党内閣は有効に対処できず、この時20年代に成立した「革新-復古」派が政治における影響力を増大させたのです。ただ「革新」派は、強力な政府を樹立することを主張してはいましたが、新体制運動のような「一国一党」支配という考え方はまだ見られません。「革新」派の中で、こうした考え方が一般化するのは昭和10年代に入ってからで、ドイツのナチ党やイタリアのファッショ党、ソヴィエトなどがめざましく発展した時期にあたっています。
「革新」派で期待を集めたのが社会大衆党で、麻生久-亀井貫一郎がリードする子の党こそが体系的な一国一党論を転回します。彼らが近衞文麿に接近することによって、新党を目指す動きは加速していきました。
p.107~108
拙ブログの近衞文麿に関する記述はこの辺とかこの辺とか。「本当は何をしたかったのかが見えてこない」と言う指摘に苦笑。
なお亀井貫一郎はこの後に登場するが(p。109~110)「物事を誇大に言うという」傾向があった人物らしい(^^;)
世間的なイメージとは違って、岸氏の話し方は、表情豊かで聞き取りやすく外連味のない物で、聞く人に必ず好感を持たせる物でした。たとえば、近衞文麿から人を介して商工大臣を打診され、「自分は次官でいい」と断った時のことです。岸氏は近衞のいる荻外荘に呼ばれ、大臣は財界人の小林一三にしたけれど、「自分の心持ちから言えば、君が大臣だと思っている」と激励されます。その後日談は次のように語られています。

岸「ところが小林さんというのは面白い人で、私が大臣室に挨拶に行くと、いきなり岸君、世間では小林と岸とは似たような性格だから、必ず喧嘩をやるといっている。しかし僕は若い時から喧嘩の名人で、喧嘩をやって負けたことはない。また負けるような喧嘩はやらないんだ。第一君と僕が喧嘩して勝ってみたところで、あんな小僧と大臣が喧嘩したと言われるだけで、ちっとも分がない。負けることはないけれど、勝ってみたところで得がない喧嘩はやらないよ。これが次官を読んでの大臣就任の初対面の挨拶だった(笑)。(中略)
それで、いよいよ小林さんから次官を辞めろと言う話があった時、いや、私は辞めても良いけれど、相談すべき人があるからすぐには駄目だと答えて、かつて激励を受けた手前、近衞さんに断らずに辞めるのも悪いと思い、近衞さんにお目にかかりたいというと、総理は会ってくれない。電話で話をしたわけです。実はこういう事で小林さんからやめろといわれた。しかし組閣の時に総理のお言葉もあったし、ご意見を聞かないで勝手に辞めるわけにもいかないと思う。すると近衞さんは、荘ですね、やはり大臣と次官が喧嘩をしてもらっては困りますから、そういう場合には次官に辞めて貰うほかないでしょう(笑)。それで、かしこまりました、と言う事で辞表を出したのですよ。政治家というのはこういう物か、俺はやはり若いのだなとしみじみ感じたことがある。」
p.173~174
岸信介の回想に出てくるいかにも近衞文麿なエピソード。
この小林一三(阪急電鉄創始者)との喧嘩の話は先日のNHKドラマ『経世済民の男』には登場したんだろうか。ドラマを途中までしか見てなかったので不明…。
岸信介関連では、御殿場の邸宅にサウジアラビアのファイサル国王(当時)が来て「これぞ思っていた日本だ!」と感動した話(p.174)とか、「佐藤栄作日記」の一部を処分した疑惑(p.183)等も興味深い。サウジの王様が岸邸に来たのは、中谷武世関連でしょうな。
(前略)『近衞新体制-大政翼賛会への道』で、昭和13年と15年における近衞新体制運動を紹介し、大政翼賛会の発足と落日までを分析した物です。この本の「あとがき」に私は次のように書いています。

 「近衞新体制」運動-大政翼賛会の成立は多く日本ファシズムの確立として評価されてきた。私は本書においてファシズムという言葉を使っていない。ただ「ファシズム」を、党による国家の支配、政治による経済の支配を中核とする新しい体制を目指す、別な言葉で言えば全体主義を意味するとするならば、それに最も近い物を目指したのは新体制運動を推進した「革新」派であったと言ってよい。近衞を始めとして、軍内の「革新」派、新官僚の多く、そして風見章、有馬頼寧、中野正剛、尾崎秀実、社会大衆党の多く、更に転向した共産党員の多く(この大半が戦後再転向して日本共産党を構成する)がそうだという事になるが、多くの論者が彼らを必ずしも「ファシスト」と呼んでいるわけではないのは一体どういう訳であろうか。
(後略)
p.117
そういえば石原莞爾も憲兵に「アカ」呼ばわりされてたような。拙ブログではこの辺。戦前の共産主義者認定基準ってよく分からん。
いろいろな党の議員の話を聞きましたが、やはり自民党系の議員の話が圧倒的に面白かった。社会党議員の率直さも印象的で、先行きの無さを余りにも正直に話すのには驚かされました。共産党と公明党は口が堅くて、内容が紋切り型。それでも、共産党の人は、意地悪く聞いていくとボロを出す。(中略)こんな調子ですが、公明党の議員にはそれもない。
p.143
さすが公明党ですね(棒読み)
インタビューもいろいろやりましたが、ここで一つだけ挙げるとすれば、昭和53(1978)年に行った平泉澄(ひらいずみきよし)氏(1895~1984)のインタビューです。
(中略)
平泉氏は、とにかく権威主義で閉口しました。
(中略)
平泉氏は昭和5(1930)年、助教授の時にヨーロッパに在外研究に行きますが、2年後、彼の地で世界情勢風雲急なりと途中で切り上げて帰国する。そして、昭和天皇へのご進講を機に時代の寵児のような存在になります。その時の話を「これから私が日本を指導した時代についてお話しします」と始めたのには、さすがにちょっと鼻白みました。
(中略)
昭和9年に陸軍士官学校で講義をしたときの話では、檀上で「陸軍よ、この刀のごとくにあれ」とすらりと日本刀を抜いた、と言う。その日本刀を、あらかじめ夫人に用意させておいて、実際に私たちの前で抜いてみせる。私なんかはすっかりあきれてしまったのですが、若い酒井君(ばんない注 酒井豊)などはおもしろがって、「先生ちょっとそのまま」とか言って、写真を撮る。平泉氏もポーズを取る。なんだか信じられない光景でした。
二日間の「お話」が終わってお茶になったとき、夫人が話してくれました。
「うちの主人は血圧が高いのに、テレビのプロレスが好きで困ります」
「プロレスのどこがお好きなんですか」と、平泉氏に尋ねました。
「それはね、隠忍に隠忍を重ねて、最後にパッと相手を倒す。これは日本精神に通じる」
大まじめに言う物だから、苦笑いせざるを得ませんでした。平泉澄というと、神様のように言う人もあるくらいですが、その稚気には驚かされました。
p.152~155
この時の平泉インタビューについては拙ブログのこの辺この辺
ちなみにこの話を収録した『東京大学史紀要』第6号には、この時の平泉の写真とかも一切載ってない模様。ツマラン!実にツマラン!!!ヾ(--;)
岸信介元首相のインタビューをすることになったのは、矢次一夫氏から指名されたことがきっかけです。
(中略)
速記ができて整理した上で岸氏に見ていただきましたが、削除されることはほとんどありませんでした。
p.170~172
中曽根さんのインタビューのきっかけになったのは、『中央公論』平成7(1995)年1月号の「戦後50周年特集/aの戦争とは何だったのか」という佐藤誠三郎君と私との対談でした。
(中略)
インタビューはのちに、『天地有情』(文藝春秋)という、いかにも中曽根さんらしいタイトルの本になりますが、お話の後に日記を挿入する、どちらを信じるかは読者に任せる、と言う方式をとりました。
p.217~219
最初の頃のオーラル・ヒストリーとしては、官房長官だった後藤田正晴さん(1914~2005)のものが、やはり大きな仕事と言えるでしょう。御厨君が独自に、建設官僚の下河辺淳さんのオーラル・ヒストリーを薦めていて、彼の紹介で辿りつきました。
(中略)
後藤田さんは初めのうち、「何で君たちは俺の話を聞くのか」と何度も尋ねたりして、突っかかってくるような感じだったのですが、3回ぐらい終わったところで、やっと納得して下さったらしく、その後は段々と親密に成り、最後には「何でも聞いて下さい。何でもしゃべりましょう」という感じでした。
(中略)
出版の打ち上げをしたときには、「君たちには悪かったが、密かに身元調査をさせてもらいました」とあかされました。岸信介さんとは対称的で、後藤田さんはハト派だけど基本的には警察だな、と思った物です。
p.220~222
講談社の豊田さん(ばんない注 豊田利男)が速記をまとめ、平成13年に講談社から『政治とは何か-竹下登回顧録』と言う本になりました。内藤さん(ばんない注 内藤武宣、竹下登の娘婿にして秘書、DAIGOの父)の強い要請で、音声テープも速記録もすべて竹下家に返却、新たに史料をいただくどころか、本しか残らないという結末でした。
p.231
松野さん(ばんない注 松野頼三)へのインタビューは、平成12(2000)年度から始めました
(中略)
冊子にしたときも、修正や削除はほとんどありませんでした。
p.233-235

労働運動関係のインタビューで抜群に面白かったのが宝樹文彦さんです。
(中略)
平成11(1999)年から3年、計17回にわたって、梅崎修氏、手塚和彰氏、有馬学君と、いわば第2次のインタビューを行いました。宝樹さんは、第1次に輪を掛けて「危ない」話をしゃべりまくりました。一例を挙げれば、全逓の選挙マニュアルというか、選挙違反マニュアルです。
(中略)
宝樹さんは同時期に、雑誌『進歩と改革』に戦後の回顧録を書いていて、『証言戦後労働運動史』と言う本になりましたが、これは表向きのことだけで、インタビューとはちょうど表裏になっています。インタビューが終わってから「これは本にしますか、それとも市販はしない冊子だけにしますか」と聞いたら、「これは冊子にしてください」と言いました。それはそうだな、と思いました。
p.255-257
沖縄の副知事だった吉元政矩氏のインタビューは、佐道明広君がはじめたもので、彼が一緒にやってくれと頼みに来るまでは、全くやる気がありませんでした。
吉元氏は大田昌秀知事時代に副知事をしていた人で、私は沖縄の人は政治的にも正反対の方も多いし、「困るな」と思っていたのですが、会った瞬間「あ、これはいける」という感じがしました。平成11(1999)年から17年にかけて、全部で8回のインタビューをしました。吉元氏はかなり克明な、深い話をしてくれました。
この間に大田昌秀氏にもインタビューをしましたが、正直言って、これはつまらなかった。ある程度引き出したと思った話も、冊子にする前の著者校正の段階で全部書き直されてしまいましたから。私は、あの人は本当のことを話してないと思います。
p.265-266
政治家とオーラルヒストリーの関係を偲ばせるネタを集めてみました。
中曽根さんのところが意外だった。後藤田さんコワイ。大田昌秀さんは確かにこれはつまらないというか、何の目的でわざわざインタビューに応じたのか意味不明。「本当のことしゃべってない」と断定されても仕方ないかと。
岸信介のインタビューは矢次のしゃべりが多くて誰にインタビューしたのか分からないくらいだったとか(p.177)、宝樹文彦はブランド物のスーツを無理矢理自分の身長(かなり低かったらしい)にあわせて着ていたのでポケットが変なところに付いていたとか(p.258)引用から割愛しましたが、雑談話もかなり面白い物が多いです。
本を読んだ限りでは、伊藤隆のお気に入りは松野頼三っぽい。
林先生(ばんない注 林茂東大教授(当時) 伊藤はこの当時林の部下だったが、その後酷い目に会わされ縁を切った話もこの本に出てくる)の手元にはその頃、小学館から2.26事件関係の資料が持ち込まれていました。2.26事件において一時逮捕拘禁された森伝が収集し、遺族が保管していた物で(中略)どうも松本清張氏と小学館が同じ史料を取り合って、結果的に小学館がお金で買った物のようで、(中略)
この史料が『2.26事件秘録』全4巻として、昭和46(1971)年から刊行されると、松本清張氏が悔しがり、新聞に悪口を書いたりしました。もともと狙っていた史料を取られたと言う事で、小学館ではなく、私が悪いような話になっていました。
松本清張氏には、それから随分経ってから、担当編集者の藤井康栄さんを通じて一度だけ会いました。彼女は間を取り持とうとしたのかも知れませんが、何を話したか、よく覚えていません。
p.49~50
戦前・戦中・戦後の連続性というと思い出されるのが、昭和61(1986)年に『中央公論』で行い、そのままお蔵入りになってしまった司馬遼太郎さんとの対談です。
(中略)
三人(ばんない注 当時矢野暢、芳賀徹と伊藤の3人が編集委員となって『日本の近代』と言う全集の企画が進んでいた)のなかで私だけが司馬さんと面識がなかったので、中央公論社の社長嶋中鵬二さんが紹介かたがた対談をやろうと発案したのです。
私は司馬さんの愛読者ではないけれど、『坂の上の雲』は面白いと思っていました。その日も「雲を求めて、坂を上ってきた日本は、その歴史をどう見通すことができるか」と言う話ができればと考えていました。
ところが司馬さんが、
「結局、雲はなかった。バルチック艦隊の最後の軍艦が沈んだ時から日本は悪くなった」
「日露戦争までの日本史は理解できるが、昭和に入ってからの20年間の歴史ハ他の時代とは全く違い、断絶している、非連続だ」
と言うに及んで、反論のスイッチが入りました。
坂を上っていって、雲をつかめたかどうかは分からないけれど、かつて夢にまで見た、西欧的な産業国家になったのは事実です。司馬さんのような見方は、西欧コンプレックスそのものだし、東京裁判の図式と変わらないではないか、といつもの調子で言い募ってしまったのです。
2,3日して嶋中さんが、
「非常に面白い対談になったけれど、司馬さんは我が社にとって貴重な財産です。司馬さんは大変なショックを受けてしまいましたから、雑誌に載せるのはやめにしましょう。『日本の近代』の企画もしばらく凍結しましょう」
と言ってきて、司馬さんとはそれきりになりました。
(後略)
p.134~136
伊藤と作家2題。特に後半の司馬遼太郎との絡みが酷い(爆)ちなみにお蔵入りになったはずの『日本の近代』は司馬の死後直ぐに企画再開されたらしい(p.136)
昭和天皇の崩御を受けて、未発表だった史料がいくつか公開されました。中でも人々の注目を集め、問題になったのが、いわゆる「昭和天皇独白録」です。実はこれを日本で一番最初に見たのは私なのです。
平成元(1989)年11月、南カリフォルニア大学教授となっていたゴードン・m・バーガー君から一通の手紙が届きました。寺崎英成の娘マリコ・テラサキ・ミラーの息子のコール・ミラー氏から、寺崎の日記と回想録を含む資料を見せられた、その史料の適切な評価者として私を推薦したので、そのうちにコピーが届くだろう、と書いてありました。
(中略)
ミラー氏からは、私の最初の評価に対する感謝の手紙があり、続いて2日後、再び手紙が来ました。文言は何と「ただちに一切のコピーを返却せよ」とあるだけでした。私は航空便ですぐに返却しましたが、前の手紙とは全く異なり、謝意もなく高飛車なやり方に対して、バーガー君を通じて抗議し、今後一切関係を持たないと伝えました。ただこの時、バーガー君に、これを活字にするなら文藝春秋以外にないよ、とも伝えました。中央公論社では、風流夢譚事件と思想の科学事件があった以上、天皇関係の資料は出せないだろうと考えたのと、お金も文藝春秋のほうがあるだろうと思ったからです。ミラー氏とのやりとりで、彼らが欲しいのはお金だと分かりましたから。
(中略)
『文藝春秋』では次号(ばんない注 1991年1月号)で座談会催され、児島襄、秦郁彦の両氏、文春の担当者半藤一利氏とともに私も参加しましたが、問題となったのは、天皇のこの回想がどういう目的で行われたのかということでした。秦さんは、GHQに提出するための物と主張し、私はこれをGHQに提出したら自ら戦争犯罪人だと立証するような物だからそれはあり得ない(中略)当時の側近達が天皇の考えを内々に伺っておこうというものだと主張しました。この中で私は、「秦さんの言う英文が出て来たら兜を脱ぎますがね」と発言しています。GHQに提出する物であれば、どこかに必ず英文の物が存在するはずだからです。それは現在の所、まだ見つかっていません。英文版が存在するという人もいますが、私はそれは「独白録」とは性格の違う物だと考えています。
p.190~193
あの有名すぎる「昭和天皇独白録」発見の経緯についての回想。何か発表にあたっては相当のお金が動いてみたいで、「あー、あのドラマの『マリコ』にはこんなドロドロがあったのね」と知ってしまってうんざり。
ところで後半で「独白録の英語版」についての話が出ているのだが、wikipediaによるとどうもそれらしい物が見つかったという話もあるのだが、それについては伊藤氏は存じないのか、それとも上記にあるように「独白録とは違う物」と考えているのか。
あと上記の引用からは省略したのだが、この「独白録」の内容が、昭和42(1967)年に行われた「木戸幸一談話速記録」の内容と酷似していることを伊藤氏は注目されているようです。昭和天皇が木戸幸一に感化されていたことについてはある石原莞爾の解説本でも批判的に指摘されていたのを以前読んでいたので興味深い。
昭和天皇関連では、満州事変直後の田中義一(当時首相)に対する反応が『牧野伸顕日記』と『西園寺公と政局』(西園寺の秘書・原田熊雄回想録)とこの「独白録」とでびみょーに違うことも指摘されている(p.197)
亜細亜大学で2年ほど経つ内に、何と学長の衛藤さんが追い出されてしまいました。追い出したのは瀬島龍三氏だという噂で、大学の中に怪文書が流れたりして、かなり騒然とした雰囲気になります。
p.215
「学長の衛藤さん」というのは衛藤瀋吉のこと。衛藤については拙ブログではこの辺辺りでお世話になりました。
ここで暗躍したという噂のあった瀬島龍三について、当の衛藤自身は後に『プレジデント』で全く反対の回想を書いているので興味深かったり。
朝日新聞社は、名誉にかけてやる(ばんない注 『佐藤栄作日記』出版のこと)、と言う事で人も出したし、お金も出しました。けれど、第一回配本が出るときになって、トラブルが起きます。
四月半ば、山下氏(ばんない注 朝日新聞の山下靖典)と第一回配本にあわせて、朝日新聞の紙面でどのような報道をするかについて相談しました。その時私は、歴史資料としての重要性を中心に報道してもらうようくれぐれもお願いしました。
(中略)
ところが、それからしばらく経った5月4日、翌朝掲載されるという第一面の記事がファクシミリで送られてきました。見ると、
「沖縄返還めぐる『核密約』示唆」「佐藤元首相の日記で明らかに」「克明に交渉の裏面」
と、センセーショナルに見出しが躍り、小さく「近く刊行」となっている。
(中略)
話が違う、と私は激昂し、山下氏に電話しました。
「一杯食わせたな、弁解無用、以後一切手を引く。私の名前は出すな、私は朝日と全面的に戦うからそのつもりでいてくれ」
そういって、ガチャンと切り、机の上に詰んであった進行中のゲラもすべて片付けました。
(中略)
山下氏らの話によれば、出稿した原稿は、連休中に休暇をとっているあいだに、政治部の中でどんどん政治問題に傾斜していき、彼らが知ったときにはすでにあのかたちになっていた、
(中略)
説明を受け、納得せざるを得ないと考え、今回の問題のあらましを書いた文書をもらうという条件付きで仕事を続けることにしました。
p.180~182
NHKのディレクター片島紀男氏に協力したのが「東條内閣極秘記録~密室の太平洋戦争~」という番組です。
片島氏は東條内閣についての番組の取材をしていて(中略)私に協力を求めてきたのですが、余りに興味深かったこともあり、のめり込んでしまいました。
(中略)
当初からNHKは、悪名高い東條を取り上げる企画に躊躇していました。客観的に作ったのですが、放映時間を圧縮されるなど、片島氏は苦労の連続で、直前まで本当に放映できるかどうか自信が持てない状況でした。遂に放映できたときは嬉しい気持ちで一杯でした。視聴率は15パーセントもとり、評判になったので再放送もされました。
p.200
マスコミと歴史研究の関係を偲ばせるネタ2題。個人的に前半の朝日新聞の話が特に興味深い。文芸関係の記事に政治部が口出しするんだ、とか。NHKは、まあこんなもんでしょう(ヲイ)ちなみに片島氏は早くに亡くなられたようです…。
マスコミ関連では、あのナベツネこと渡辺恒雄にインタビューした話も登場(p.250~252)。これは上のようなうっとうしい話はなくて、「日記は見せられない、理由はラブレターが一杯貼ってあるからだ」ちう、ちょっと信じがたい話が面白かった。
実はこの頃(ばんない注 竹下登へのインタビューを開始した平成9年)、佐藤君(ばんない注 佐藤誠三郎)との中曽根元首相とのインタビューも進行中だったこともあり、政策研究大学院大学の開学式典では大変なことになりました。吉村融学長が、式典に竹下さんを呼びたいというので、竹下さんの家に吉村さんを案内して了承を得たのですが、一方で佐藤君は、中曽根さんを呼びたいというので、仕方なく中曽根さんに手紙を書いて承諾を得ました。メインゲストが二人という面倒なことになったのです。
お二人に失礼がないように、まず竹下さんに話をしていただき、それが終わるころに中曽根さんに会場に入っていただくという段取りにしました。ところが、当日中曽根さんは早く到着してしまい、竹下さんの挨拶にみんな拍手喝采している間、控え室で「早くしろ、早くしろ」と待ちかねていたのです。
p.229
政策研究大学院大学の式典のかなり恥ずかしい裏話。
なおこれの後日談もこの本には書いてあり、後日この時の文部大臣だった藤波孝生にインタビューしたときに「折角のアカデミックな雰囲気が俗物が来てぶちこわしに」みたいなことを言われたそうです(p.238)
新体制運動の研究では企画院出身者にも話を聞きましたが、連続性という意味で特に思いで深いのは、勝間田清一さん(1908~89)と和田耕作さん(1907~2006)です。
(中略)
和田耕作さんには、随分長くおつきあい戴き、ホスピスまで行ってインタビューをしました。亡くなる数日前に「ありがとう。これでもうこの世、おさらば」という手紙を下さいました。
p.136~137
この他のプロジェクトでは、政治家では有馬元治、奥野誠亮、椎名素夫、竹本孫一の諸氏、防衛関係では大賀良平、大蔵官僚では小田村四郎、長岡實、経済企画庁関係では宮崎勇、変わったところでは渋沢栄一の曾孫に当たる渋沢雅英、海軍軍人扇一登の諸氏のインタビューを行いました。
(中略)
この中で印象深い物としては、扇一登氏を思い出します。
(中略)
こうしたご縁でオーラルヒストリーを行うことになったわけです。聞き手には影山好一郎・高橋久志両氏に加わっていただきました。
第一回は平成12年11月で、扇氏は既に99歳でした。多少記憶の混乱はありましたが、翌年の6月の第7回まで進んだところで、お宅に残されてあった史料を出していただき、黒澤良君、高橋初恵さんに手伝ってもらって大雑把な整理をし、それをもとに10月に最終回を行いました。速記録のチェックをお願いした時には満100歳になっておられました。
p.260~262
最後はこのネタで。元共産運動家と元海軍軍人という一見共通点がないこの2人の共通点は超高齢で史料作成に関わったと言う事。和田耕作は99歳で亡くなり、扇一登に到ってはインタビュー開始したのが99歳(○。○)
ちなみにこの本の著者である伊藤隆氏も現在83歳ですが、90過ぎてから今度はインタビューされる側に回りそうな予感がヾ(--;)


近現代史とか、日本の政治の裏面とかに興味のある人にはとっても面白い内容の一冊だと思います。











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