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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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『NMBとまなぶくん』と言う深夜番組を偶然見ていたら
東大史料編纂所教授の本郷和人氏が出演していて、最後に好きなNMBのメンバーまで明言してお帰りになられた件。

日本の周りはきな臭いはずだが、日本は平和であるヾ(^^;)
てゆーか、東大史料編纂所もずいぶんとライトになりましたね~。



では本題。
以前島津常子のことを調べていたときに、関連して検索していたら
 かなり吹っ飛ぶような人物だったヾ(^^;)
ので驚いてしまった。
ある意味(ヲイ)スゴイ人物なのに、余り知られてないような。
今回関連で紹介してしまおう。
しかし、こんなすごい?ネタは津野田さんとか別府小吉以来のようなヾ(--;)
では気になる方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。

※この記事に出てくる写真は『宮家三代の秘蔵写真』か『伯爵鹿島萩麿』からの引用になります。
※上記の文でお察しの方も多いかと思いますが、未成年にお見せしづらいネタが絡んできますので、その手の話が苦手な方はスルーでお願いします



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島津常子が、山階宮菊麿王との間に3人の男子を産んだのは以前も書きましたが
今回のネタはその真ん中(菊麿王から見たら3男)のこのお方。

一般的には改名後の 鹿島萩麿 で知られています。
宮様の王子なのになんで「殿下」がついてないのとか、何で「鹿島」なんて名字がついてんのという疑問については後述。

常子は明治39年(1906年)4月21日、宮邸で2人目の子供を産みます。生まれたのは男子で、6日後に正式に「萩麿」と命名されます。
右にちらっと見えているのが母の常子妃殿下
生まれたときは山階宮家の皇子だったので「萩麿王殿下」と呼ばれていました。
 てゆーか乳児でこのレベルかよヾ(^^;)
上に3人の異母兄姉と1人の同母兄がいました。この後もう一人同母弟(後の葛城茂麿)が産まれますが、兄弟仲はかなり良かったようです。特にすぐ上の兄(後の筑波藤麿)とは親しく、晩年は家が近くだったこともありしょっちゅう御飯を食べに行ったりしていたようです(『伯爵鹿島萩麿』p.295~、他)
明治天皇の大喪の礼の時に撮影された山階宮家の子供達 真ん中で目をつぶってしまってるのが萩麿王
やや成長してから母・常子を囲んで取られた一枚 左から茂麿王、藤麿王、萩麿王

3歳の時、父/菊麿王が急逝。

明治43年(1912年)には皇族の定例コースである学習院の初等科に入学。

萩麿王の同級にあの西園寺公一(西園寺公望の孫)がいましたが、公一の回想録『過ぎ去りし、昭和』によると萩麿王は相当ないたずら坊主だったらしい。この時のトラブル(公一は萩麿王にいたずらされたことに反撃し、校長に説教される羽目になった)が遠因となったのか、公一は中学からは学習院に進まず東京高等師範学校附属中学(現在の筑波大学附属中学・高校)に進学します。
一方の萩麿王はそのまま学習院附属中学に進学します。

この時からの友人に島津久大(島津久光の孫)がいます。
が、大正11年(1922年)3月31日に中学を退学します。これは素行不良が原因!…ではなくてヾ(--;)、これまた皇族の定例コースで軍人になるためでした。萩麿王が選んだのは父/菊麿王も在籍していた海軍。江田島の海軍兵学校に入学します。この時の1年上に高松宮宣仁親王がいたのです
 が
この出会いが、萩麿王の人生を狂わせてしまうことになったと思われます…多分。

大正12年9月30日、萩麿王は伏見宮博信王(後の華頂博信侯爵)と一緒に高松宮の部屋を訪問します(『高松宮日記』)。
10月7日には萩麿王の良くない話が高松宮の耳にも入ってきます(『高松宮日記』) 。「萩麿王はお友達が良くない、原田とか土田とか感心しない」と言うようなことを高松宮は日記に書いています。学習院時代のいたずら気分が抜けなかったのでしょうか。
(※なお、原田、土田についてはそれぞれ原田種寿、土山広端と推測される。2人とも麻布中出身 参照こちらのHP)
しかし、兵学校でしごかれたのが良い方向に働いたのかどうか、4年後(大正15年1月6日)には「(最近の)萩麿王様は堀井(三千雄)辺りと親しくされているそうだ(中略)探偵小説をよく読まれているのもその影響かも」と高松宮が日記に書いています。
(※堀井三千雄は萩麿王と兵学校同期で、最終軍歴は大佐(濠北(753空飛行長))。もしかしたら同じ濠北にいた今田閣下も名前ぐらいは聞いたことがあったかも知れない。)

と、高松宮が老婆心?でこんな事をつらつら書いていたその翌日に「事件」は起こった。
「萩麿王が「これを読んでくれ」とどかっとなんか置いていった
 見たら日記じゃねーか
 …
 萩麿王が人間関係に問題があるのはセックスに問題があるんじゃないだろうか
 もしその推測が当たっていたとしたら、その片寄りは問題があると思う
 私についても何か誤解してるんじゃないだろうか
 何でそう思うかって言うと、私のことを日記で礼賛しまくってられるのである
 私のためにこの身をどうしようか、なんてことまで書いてあるよ
 ホントにどうしようかこの皇子様(呆)」(以上ばんない意訳)
なんと萩麿王、自分の切々たる思いを延々と書き連ねた日記をラブレター代わりに高松宮に押しつけて帰って行ったらしい…⊂(。Д。⊂⌒`つ

高松宮、こんな重すぎる荷物を預けられて、流石に考え込んでしまったらしく
「この件については堀井(三千雄)に一筆書こうかと思っている」(大正15年1月9日)
と書きましたが、3日後には
「“純な気持ち”という物があることに気が付いた。性欲の研究を始めようか。そしたら私の心持ちも純な物になるかも知れない。そして清い(私の気持ちが)友達になれるかも知れない。」(大正15年1月12日)
となにやら妖しげな雰囲気に…
が、その数行後に
「“純な気持ち”が恋愛になることもあるわけだ。これは萩麿王の日記を見て苦しんで気が付いたことだ。ホット息をつく。そして萩麿王には私を対象にしないように言おう。理屈も何も言うことはない。これで堀井に手紙を書く必要もなくなった。」
と、やっぱり「振る」ことを決意します。
が、その続きに
「でも私の不純な気持ちから(手紙を)出してみたいような気もする」
_(。_゜)/なんて書いております。ううむ、宮様ワルじゃのうヾ(^^;)
※ちなみに、高松宮自体はこの当時同性愛に興味津々(○。○)だったらしく、大正10年頃には当番兵だった西村さんという人に、大正12年頃には佃さんという人にかなり熱を上げていたようです。嘘だって言われても困るだって本人が日記に書いてるんだもん(→開き直り)。

そして、年が明けて大正15年1月29日、高松宮は萩麿王に日記を返却します。特に手紙や感想は添えなかったようです。これで高松宮が萩麿王をきっぱり振ったことは明らかでした。
が、日記を渡されてから返却までに22日もかかっています。高松宮が多忙だったためか(※大正15年は高松宮の父・大正天皇の病状が悪化し、亡くなった年)、高松宮・萩麿王ともに軍務の関係で返却する日を逃しただけなのかも知れませんが。

もしこの日記が残っていたら『高松宮日記』とあわせ読んでウハウハできる(ヲイ)んです
 が、
萩麿王はこれらの日記をある時(時期は不明)自ら焼却処分してしまいます!(『伯爵鹿島萩麿』p.293)アアモッタイナイヾ(--;)
ただ、高松宮とはその後も親密な関係だったようで、萩麿が伯爵として独立した際に邸宅用地を提供したのは高松宮でした(『伯爵鹿島萩麿』p.294)。しかし『高松宮日記』にはこの後殆ど登場しなくなり、昭和2年10月20日に伏見宮博義王らと共に食事、翌3年2月19日に兄・藤麿王(後の筑波藤麿)と帝国ホテルで食事をしたのが最後の登場記事となり、その後は一切記述が見られません。

萩麿王は同年3月、海軍兵学校を卒業し少尉候補生となります。
ジャ○ーズからスカウト来そうな一葉(^^;)
その翌月4月に貴族院議員となり、翌々月5月には成年式を迎えます。
更にその翌月6月から練習鑑「八雲」に乗船、日本に帰国したのは1年後の昭和2年1月のことでした。
左後方にうつむき加減で写っているいるのが萩麿、再前方にいるのが久邇宮邦彦王と推測される
高松宮への「決死の?告白」を決行したのには、こういうスケジュールが背景にあったのかも知れません。
にしても、いくら同じ皇族でも直宮(※天皇or皇太子の弟)への告白は余りにも大胆すぎたというか無茶過ぎというか。

なお萩麿王は日本帰国の翌年(昭和3年)に臣籍降下し「鹿島萩麿伯爵」となります。
宮家の皇子と言っても、跡継ぎの長男以外は皇族にとどまれないという明治以降の法令に基づく物です。

昭和4年には中尉に昇進します。このスピードは元皇族の特権が物を言った物でしょうか。
この頃には萩麿王は
「おれの趣味は海軍である、海軍の外に趣味はない」
と周囲の者によく言うようになっており(『伯爵鹿島萩麿』p.157)、海軍史研究に没頭するようになります。いくつかの戦艦に所属したこともありましたが、基本的には海軍大学校に籍を置いて(選科学生という立場だった)研究一筋だったようです。
研究に没頭する余り、喫煙量がものすごいことになっていた(葉巻を愛用、灰皿があっという間に満杯に)という話も伝えられています(『伯爵鹿島萩麿』p.158)。ただし、喫煙についてはドクターストップがかかり後に禁煙したようですが。
一方で以前から細かった食事量は益々細くなり、体重は常に12貫(約45kg)を切っていました(『伯爵鹿島萩麿』p.158、p.290)。
…なんか、宮様への失恋の痛手を学問で埋めようとあがいているように見えるのは、私が腐ってるからなんでしょうかヾ(^^;)

低体重による体力の低下と研究による睡眠不足が原因と思われる精神状態の過敏が原因で、結婚話もなかなかまとまらなかったようです(『伯爵鹿島萩麿』p.194)

昭和7年3月には「待命」を申し付けられます。後述する病気が悪化した物と思われます。
同年8月に穿孔性腹膜炎により死去。まだ27歳でした。
萩麿は先述の通り結婚もしておらず、当然子供もいませんでした。鹿島伯爵家の跡は従兄弟(母/常子の同母弟・島津忠重の次男)・島津晃久が死後養子となって継ぎました。晃久は戦後古写真研究家としてあの島津斉彬の写真を発見したことで知られています。

<参考HP>
日本の親王・諸王



おまけ
この記事を書くのに参照させてもらったサイトをよくよく見て気が付いたのだが、萩麿王はあの5.15の三上卓と同級なんですね…彼が萩麿王の「良くない友達」になることはなかったようだが。
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