拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
「宰相殿」といえば、拙ブログをお読みの方ならご存じの
島津義弘に朝鮮半島から年甲斐もないラブラブの手紙を送られた女性
として有名であろう。
ところで、義弘が朝鮮から送ったその手紙。宛先はこうなっている。
・「宰相殿」(文禄元年5月7日 「旧記雑録」後編2-882 「旧記雑録」拾遺2-298 「薩藩先公貴翰」156)
・「宰相殿」(文禄2年6月22日 「旧記雑録」後編2-1145 「薩藩先公貴翰」162)
・「宰相殿」(文禄2年8月2日 「旧記雑録」後編2-1168 「薩藩先公貴翰」163)
・「さいしやう殿」(文禄3年?8月7日 「旧記雑録」後編2-1364 「薩藩先公貴翰」165)
・「宰相□へ」(文禄4年?6月5日 「旧記雑録」後編2-1532)
・「宰相殿」(慶長元年卯月5日 「旧記雑録」後編3-44)
・不明(文禄5年?5月1日 「旧記雑録」後編3-56、「薩藩先公貴翰」178)
・「宰相殿」(慶長元年5月5日 「旧記雑録」後編3-62)
・「宰相殿」(文禄5年閏7月28日 「旧記雑録」後編3-90、「薩藩先公貴翰」179)
・不明(慶長3年1月 「旧記雑録」後編3-351、「薩藩先公貴翰」183)
・「宰相殿」(慶長3年5月5日 「薩藩先公貴翰」187、「薩藩先公貴翰」208)
“宰相”という名前は本名とは言い難い。拙ブログで一度ネタにしたが、官名を使った女性名は、むしろ奥女中の候名にふさわしい物である。
ところが、宰相殿は「義弘の正室」として、兄の義久を初め、豊臣政権までもが認めていたのは自明である。
義久は彼女の死に対して追悼歌を送っているが、彼が挽歌/追悼歌を送った女性というのは相当の立場にいた女性ばかりであり、また、彼女は朝鮮出兵の間義弘の人質として上方に捕らわれ、関ヶ原の合戦後どさくさに紛れて薩摩に帰国したのは有名な話である。
では、何故彼女は夫の義弘からずっと候名で呼ばれ続けたのであろうか?
島津義弘に朝鮮半島から年甲斐もないラブラブの手紙を送られた女性
として有名であろう。
ところで、義弘が朝鮮から送ったその手紙。宛先はこうなっている。
・「宰相殿」(文禄元年5月7日 「旧記雑録」後編2-882 「旧記雑録」拾遺2-298 「薩藩先公貴翰」156)
・「宰相殿」(文禄2年6月22日 「旧記雑録」後編2-1145 「薩藩先公貴翰」162)
・「宰相殿」(文禄2年8月2日 「旧記雑録」後編2-1168 「薩藩先公貴翰」163)
・「さいしやう殿」(文禄3年?8月7日 「旧記雑録」後編2-1364 「薩藩先公貴翰」165)
・「宰相□へ」(文禄4年?6月5日 「旧記雑録」後編2-1532)
・「宰相殿」(慶長元年卯月5日 「旧記雑録」後編3-44)
・不明(文禄5年?5月1日 「旧記雑録」後編3-56、「薩藩先公貴翰」178)
・「宰相殿」(慶長元年5月5日 「旧記雑録」後編3-62)
・「宰相殿」(文禄5年閏7月28日 「旧記雑録」後編3-90、「薩藩先公貴翰」179)
・不明(慶長3年1月 「旧記雑録」後編3-351、「薩藩先公貴翰」183)
・「宰相殿」(慶長3年5月5日 「薩藩先公貴翰」187、「薩藩先公貴翰」208)
“宰相”という名前は本名とは言い難い。拙ブログで一度ネタにしたが、官名を使った女性名は、むしろ奥女中の候名にふさわしい物である。
ところが、宰相殿は「義弘の正室」として、兄の義久を初め、豊臣政権までもが認めていたのは自明である。
義久は彼女の死に対して追悼歌を送っているが、彼が挽歌/追悼歌を送った女性というのは相当の立場にいた女性ばかりであり、また、彼女は朝鮮出兵の間義弘の人質として上方に捕らわれ、関ヶ原の合戦後どさくさに紛れて薩摩に帰国したのは有名な話である。
では、何故彼女は夫の義弘からずっと候名で呼ばれ続けたのであろうか?
『かぐや姫の結婚』という本がある。
拙ブログとは全く関係ない(^^;)平安時代が舞台の、藤原実頼の一人娘・千古についての伝記みたいな本である。
その中の「かぐや姫の結婚」(タイトルと一緒だな…)に気になることが書いてあった。箇条書きでまとめてみる。
・千古の母親は大変身分が低かった。右大臣の実頼の正室になるなどトンデモナイ程低かったらしい。
・実頼も家の中の公式行事に千古は参加させても、その母親は参加させた形跡がない。
・おそらく千古の母親は「実頼の使用人」という立場から生涯脱出できなかったようだ。
・しかし、実頼は千古の母親を大事にしていたらしく、彼女が49歳になったときには厄除けの祈祷を行ったりしている。
・周囲のみんなは千古の母親を「実頼の後妻」と認めていた。
…とここまで見て、宰相殿に何となく似てはいないだろうか?
(1)身分が低い(宰相殿の実家・園田氏、養家・広瀬氏も有力氏族ではない)
(2)夫に大事にされている
(3)名前が何故か候名(使用人としての名前)
(4)周囲のみんなは宰相殿を「義弘の正室」と認めている
おそらく、宰相殿は公式には死ぬまで義弘の側室だったのではないだろうか?
思うに、宰相殿は義弘の奥女中の一人で、その時にお手つきになったと考えられるが、彼女を正妻に出来ない状態にあった。宰相殿の身分がかなり低かったというのもあるが、この時義弘には相良亀徳という正妻がいた可能性が高い。
亀徳は永禄11年頃までには義弘と離縁していると思われるが、宰相殿が義弘との間に最初の子供(長男の鶴寿丸)を生んだのがその翌年の永禄12年なのである。
…で、これが一番疑問なのだが、その後義弘が宰相殿をれっきとした正室にしなかったのは何故だろう。
弟の島津歳久は児島備中守女を正室にしていたようなのだが、この人も身分低いんだよね…
…まさか、
「実は宰相殿をれっきとした正室にしたけど、名前だけ候名のままにして楽しむというプレイをしてた」
とか…嫌だそんな義弘ヾ(--;)
拙ブログとは全く関係ない(^^;)平安時代が舞台の、藤原実頼の一人娘・千古についての伝記みたいな本である。
その中の「かぐや姫の結婚」(タイトルと一緒だな…)に気になることが書いてあった。箇条書きでまとめてみる。
・千古の母親は大変身分が低かった。右大臣の実頼の正室になるなどトンデモナイ程低かったらしい。
・実頼も家の中の公式行事に千古は参加させても、その母親は参加させた形跡がない。
・おそらく千古の母親は「実頼の使用人」という立場から生涯脱出できなかったようだ。
・しかし、実頼は千古の母親を大事にしていたらしく、彼女が49歳になったときには厄除けの祈祷を行ったりしている。
・周囲のみんなは千古の母親を「実頼の後妻」と認めていた。
…とここまで見て、宰相殿に何となく似てはいないだろうか?
(1)身分が低い(宰相殿の実家・園田氏、養家・広瀬氏も有力氏族ではない)
(2)夫に大事にされている
(3)名前が何故か候名(使用人としての名前)
(4)周囲のみんなは宰相殿を「義弘の正室」と認めている
おそらく、宰相殿は公式には死ぬまで義弘の側室だったのではないだろうか?
思うに、宰相殿は義弘の奥女中の一人で、その時にお手つきになったと考えられるが、彼女を正妻に出来ない状態にあった。宰相殿の身分がかなり低かったというのもあるが、この時義弘には相良亀徳という正妻がいた可能性が高い。
亀徳は永禄11年頃までには義弘と離縁していると思われるが、宰相殿が義弘との間に最初の子供(長男の鶴寿丸)を生んだのがその翌年の永禄12年なのである。
…で、これが一番疑問なのだが、その後義弘が宰相殿をれっきとした正室にしなかったのは何故だろう。
弟の島津歳久は児島備中守女を正室にしていたようなのだが、この人も身分低いんだよね…
…まさか、
「実は宰相殿をれっきとした正室にしたけど、名前だけ候名のままにして楽しむというプレイをしてた」
とか…嫌だそんな義弘ヾ(--;)
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プレイ説
夫婦仲マンネリ化阻止でwww
は、冗談として宰相殿本人が遠慮して「宰相」のままで良いのよ~って言ったかも^^
だって、手紙の時期なら亀寿と大坂屋敷で同居だったんでしょ?
「御上様」の前で姑風吹かすわけにはいかないし・・・
それよか忠恒が薩摩藩主になってからも、
生母である「宰相殿」の呼称は、変化しなかったんでしょうか?
死後の扱い(墓石の場所とか)で正式に正室だったかヒントないでしょうか^^
は、冗談として宰相殿本人が遠慮して「宰相」のままで良いのよ~って言ったかも^^
だって、手紙の時期なら亀寿と大坂屋敷で同居だったんでしょ?
「御上様」の前で姑風吹かすわけにはいかないし・・・
それよか忠恒が薩摩藩主になってからも、
生母である「宰相殿」の呼称は、変化しなかったんでしょうか?
死後の扱い(墓石の場所とか)で正式に正室だったかヒントないでしょうか^^
「宰相殿」の名称
時乃栞様コメントありがとうございます。
もしかしたら他に見落としがあって他大名でこういう手の名前を名乗っている正室がいる可能性もあるのですが、今そこ調べるところまで手が回らない(爆)
こういう事を考えたのは朝倉義景の側室で「小宰相」というのがいたことをふと思い出し、関係史料をあさって推測を立ててみました。
亀寿に遠慮して格下の名前を名乗っていたという意見も興味深いです。
>それよか忠恒が薩摩藩主になってからも、
生母である「宰相殿」の呼称は、変化しなかったんでしょうか?
記憶に頼って書きますが、宰相殿は早くになくなってしまうので、忠恒が藩主として権力を確立したときには故人だったのです。で、この時代の故人は専ら戒名で呼ばれるので…
結論:史料に見える呼び名からでは分からない
>墓石の場所とか
現在の墓石は島津義弘(夫)の筋向かい辺りだったような。ただ、島津家は明治時代にどうも墓石を大移動した形跡がありまして(恐らく廃仏毀釈による)最初からここだったかどうかがはっきりしません。
なお、元々宰相殿の墓は妙円寺(現・徳重神社)にあり、生前の義弘は「ここにいっしょに埋めてくれ」といってたらしいので…熱愛している証拠にはなるけど正室という証拠にはならないかな(汗)
もしかしたら他に見落としがあって他大名でこういう手の名前を名乗っている正室がいる可能性もあるのですが、今そこ調べるところまで手が回らない(爆)
こういう事を考えたのは朝倉義景の側室で「小宰相」というのがいたことをふと思い出し、関係史料をあさって推測を立ててみました。
亀寿に遠慮して格下の名前を名乗っていたという意見も興味深いです。
>それよか忠恒が薩摩藩主になってからも、
生母である「宰相殿」の呼称は、変化しなかったんでしょうか?
記憶に頼って書きますが、宰相殿は早くになくなってしまうので、忠恒が藩主として権力を確立したときには故人だったのです。で、この時代の故人は専ら戒名で呼ばれるので…
結論:史料に見える呼び名からでは分からない
>墓石の場所とか
現在の墓石は島津義弘(夫)の筋向かい辺りだったような。ただ、島津家は明治時代にどうも墓石を大移動した形跡がありまして(恐らく廃仏毀釈による)最初からここだったかどうかがはっきりしません。
なお、元々宰相殿の墓は妙円寺(現・徳重神社)にあり、生前の義弘は「ここにいっしょに埋めてくれ」といってたらしいので…熱愛している証拠にはなるけど正室という証拠にはならないかな(汗)