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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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別件で検索していたらこんなの見つけたでござる。
大阪毎日新聞 1939.7.8(昭和14)
秩父宮、高松宮両殿下台臨 忠霊顕彰会発会式 殉国の勇士に捧ぐ赤誠 本社協賛
(中略)
なお引続き午後零時半から発会式記念講演会を同所に開催、中村明人少将、参謀本部高島辰彦大佐、広安門の勇士陸大教官桜井徳太郎中佐、白襷隊の勇士横鎮竹下勝治中佐、井口外務省情報部第一課長、攻勢省軍事援護部隊新居善太郎氏が熱弁を振いAKでは午前十時から三十分間発会式の状況を式場から全国に中継放送した (後略)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10176724&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 ※下線はばんないによる補足
陸士・陸大で同期なのに高嶋の方が階級上なんだなと言う余計なつっこみは置いといてヾ(^^;) まず「忠霊顕彰会」ってなんぞやと言うことからして全く分からないので検索してみた。
明治新政府の誕生以降、帝国在郷軍人会が主体となり忠魂碑が各地に建立された。その後、1939年(昭和14年)1月、内務省は各市町村に1基の忠霊塔の建立の許可を出し[1]、同年7月7日に大日本帝国陸軍は「大日本忠霊顕彰会」を設立し日本以外の地域での陸軍による戦争の跡地および日本国内の各市町村毎に1基ずつ忠霊塔の建立を奨めた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E9%9C%8A%E5%A1%94
※下線はばんないによる補足
世界大百科事典内の大日本忠霊顕彰会の言及 【忠魂碑】より …碑文題号の揮毫(きごう)者は帝国在郷軍人会会長の一戸兵衛や鈴木荘六の例が多く,除幕式は慰霊祭を兼ねて3月10日の陸軍記念日に挙行された。日中戦争がはじまると,1939年7月に大日本忠霊顕彰会が発足し,その指導によって戦死者の遺骨を納めた忠霊塔を各市町村に1基ずつ建設するようになった。忠魂碑は,戦死者の追悼にとどまらず,これを通じて国家への忠誠心を養成するという軍部や国家指導者の意図によって建設されたという面をもち,戦時中は戦死を美化し銃後協力を国民に強制するための象徴として機能した。…
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BF%A0%E9%9C%8A%E9%A1%95%E5%BD%B0%E4%BC%9A-1359322
※下線はばんないによる補足
戦死者の慰霊塔を造るための組織だったようですが、陸軍肝いりで作られたことから分かるように単なる慰霊施設建設団体というわけでもなかったようです。なので、当然戦後はGHQのターゲットにされて、忠霊塔も殆ど破壊されてしまったようで。

しかしここで不思議ちゃん高嶋辰彦+宴会部長ヾ(^^;)桜井徳太郎のいつものコンビ登場なのである。ただこの忠霊塔の建設に関してはどうも桜井が音頭取りで、高嶋の方が引きずられったぽいのである。
北京本社特電 『廿八日発』 
北京に滞在中の忠霊顕彰会の桜井中佐及び高島大佐は北京郷軍人分科会を中心に四万在留邦人に呼びかけているが(後略)
『大阪毎日新聞』1939年7月29日記事 (http://shikon.nichibun.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/2182/1/IN04903.pdf p.83より孫引き引用)
忠霊塔の本格的な建設は(中略)支那事変を機とした昭和期にその建設が一般化する。特に昭和期の忠霊塔建設は、陸軍の桜井徳太郎が牽引役となり、組織的には大日本忠霊顕彰会(昭和14年7月発足)によって推進されたが(後略)
http://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun6/pdf/147012.pdf
※下線はばんないによる補足
1938年5月に制定された「陸軍墓地規則」で (中略) 陸・海軍墓地に以後個人墓は作られないことになり
(中略)
しかし、そうした合葬墓塔だけに満たされない思いを持つ遺族は少なくなかった。
(中略)
内務省は1939年4月に招魂社を元に各府県に原則一社の護国神社の設置を認めた。
(中略)
この動きに対して仏教界からは戦没者慰霊追悼を靖国神社-護国神社に独占されると危惧する声が挙がった。(中略)遺族からは府県1社の護国神社よりもっと身近な市町村に名誉墓域を求める声が出ていた。
こうした声を受け止め、忠霊塔を作ると言う運動を組織していったのが陸軍中佐桜井徳太郎であった。陸軍はこの運動を強く支持し、仏教界も宗派を越えて協力した。
(後略)
http://shikon.nichibun.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/2182/1/IN04903.pdf p.61 ※下線はばんないによる補足
特に後に引用した論文は詳しい内情が書かれているのですが
・日中戦争で戦死者が激増し、戦死者個人に墓を準備できなくなった
・神道vs仏教の宗教対立
など複雑な背景があったようです。 しかし、何で桜井はこういう運動に熱を上げたんだろうな?(゜_。)?(。_゜)? 桜井自身の当時の考えはこういう事のようです
忠霊塔は先ず戦場に建てたい、立派な忠霊塔があればそこにある日本人は誰だって忠霊を置き去りに引き揚げることはないだろう
『大阪毎日新聞』1939年7月2日記事 (http://shikon.nichibun.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/2182/1/IN04903.pdf p.109~110より孫引き引用)
しかし、これなら当初の軍方針だった護国神社建設でも構わないように思われるのだが。うーむ。 ちなみに桜井は例の三無事件に巻き込まれた後に思うところあったのか出家しています

ところで、桜井は忠霊碑を作るというのに余程興味があったのか、後に赴任したビルマでもこんな事をやっています
ビルマ国軍の最後の最高顧問だった桜井徳太郎少将などは,1945年3月5日のアウン・サンとの「国防会議」で,「武神ヲ祭ル(バンドラ)」(注:原文のまま)という提案をしていた
http://lib1.kyokyo-u.ac.jp/kiyou/kiyoupdf/no110/bkue11003.pdf ※下線はばんないによる補足


おまけ
検索中にあるブログで見つけたのだが、これはこのブログ著者の読み方でこうなったのか、それとも『中江丑吉と中国』でこう書いてあったのか。
「満州事変」の中心人物であり、対中国最強硬派の一人でもあった今田新太郎は丑吉と古くからの知り合いであった。「事変」後も二人は文通を続け、丑吉は様々なレトリックを用いて直接間接に日本軍の行いを批判し、日本に勝ち目がないことを書き続けた。それでも今田は華北情勢についての顧問になることを丑吉に要請する。
※下線はばんないによる補足
今田が「対中国最強硬派」って、トラウトマン工作に尽力したのが今田なんだけどなあ。あと中江丑吉関連本を読んだ限りでは今田が中江丑吉に軍顧問になるよう要請したことは一度もないはずなんだが。
うーむ実は『中江丑吉と中国』は未読だったりする(^^;)読んでみるかな…。

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re:石原莞爾
田舎の鎮守の境内にはどこでも
「忠魂碑」を見かけます。
日清日露~、中には西南戦争も。
余りの多さに絶句します。
石原莞爾は、歴史読本の特集で知った位、
父もこの戦争は勝ち目がないと漏らしたばかりに満州中国の最前線に上等兵で。
だから多くを語りませんでした。。
満州は身近な問題だけに、存命者にお尋ねして記録しておかねばと、、、
今井より URL 2015/09/11(Fri)09:32:46 編集
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