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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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岡村寧次については部下だった船木繁という人が岡村の残した日記を再編した伝記『支那派遺軍総司令官 岡村寧次大将』があります。ところが、こちらの方には終戦直後からの岡村の動きについてはほとんど触れられていません_(。_゜)/ というのも、この本が出る前に、実は岡村自身がこういう本を上梓していたからでした…

この本は主に
・終戦直後から復員まで書き続けられた日記(昭和20年8月~昭和24年)
・昭和初期から昭和20年の終戦までの回想
から成り立っています。実は意外にマメだったらしい岡村、ずっと日記を書いていたのだが、終戦時に「日記の類は全部連合軍にボッシュートされる」と言う噂を聞き、概要のメモだけ残して昭和16年から20年8月の分は焼却してしまったらしい…結局VIP扱いの岡村の荷物はほとんど没収されなかったらしく、晩年になって「こんな事なら焼くんじゃなかった」とこの本の中でも頻りにぼやいています。

さて、この本。実は上下巻になる予定でした。編纂に協力した稲葉正夫(防衛庁戦史編纂室)も前書きで明言しています。
…が、結局下巻は上巻発行後40年以上を経た現在もいまだに刊行されず_(。_゜)/
これについて、発行元の原書房にも問い合わせてみたのですが、当時の社員は既に当然皆様退職されており、その時の事情が分かる物も全く残っておらず、何で下巻が出なかったのか社員にも不明だそうです_| ̄|○ この本は「明治百年史叢書」という現在も発行が続いているシリーズの99巻目なんですが、栄えある100巻目が欠番になってるのは、本来この本の下巻になる予定だったのではと推測されます。
※この出せなかった下巻を補完するのが、前掲の『支那派遺軍総司令官 岡村寧次大将』とおもわれます。稲葉氏の前書きに依れば、下巻は岡村の日記(未焼却分)の予定だったようです。

さて、岡村寧次は石原莞爾失脚に巻き込まれて中国に左遷されていた今田の上司になっていたことがあり、また今田が”兄”同然に慕っていた中江丑吉と親しく交際していたそうなので(『中江丑吉の肖像』他中江の関連本に頻出)、今田の話も出てくるかな~?と期待しつつ入手してみました。

期待は全く外れてしまったのですが⊂(。Д。⊂⌒`つ
しかし、興味深い話が載っていました。
実は間接的に今田に関わりがある話です。

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8月29日
(前略)
当班に残った参謀連に対し新たに徴用の内交渉が始まった。
既に流用中の土居明夫中将や、終戦時タイ国から重慶に脱出させて貰い、今は当地に徴用されている辻政信大佐と事を共にさせようというのであろう
(p.135 第8章 総連絡班時代日記抄 ※ちなみにこの日記は昭和21年分)
5月15日
南京で留用中の辻政信大佐来訪、タイ国にあった軍司令部に在勤中終戦となり、英国戦犯に指定されること必至なので、これを避けるために重慶に潜行した顛末を語り、内地でも戦犯として追及されているから家族の在住する大阪は危険であるが、石川県の郷里にある実母の病篤しとの報に接したので、この度帰国して、その病気を見舞うことに決した。その後は安全の時期が来るまで潜行するつもりであると語る。自重を勧めた。
(後略)
5月16日
昨日入港した日本船海王丸で、本日居留民約200が帰国の途についた。辻大佐も同船で帰国したが、その出発前また私を見舞い、沢山の果物を送り、私より20年も若いのに先方から握手を求め『お先に帰って閣下の位置を作っておきますよ』といんぎんに誠意あふれる態度で別れを告げて去った。私は辻とは第11軍司令官時代短時日勤務場所を同じうしたに過ぎなかったのに、こうした懇情に接して大いに感激したことであった。
p.178(第11章 単独抑留入獄(上海)時代日記抄)
拙ブログの関連ネタはこちら参照。
この日記は昭和23年に書かれた物で、そこから前回紹介した辻の手記では分からなかった日本への密帰国の時期が「昭和23年5月中旬」であることがはっきりしました。…今田の亡くなる1年3ヶ月ほど前になりますね…。
なお、この日記には後日岡村自身によって付けられた註があり、それに依れば「ところが後年辻が書いた『潜行三千里』読んだら、「本当は岡村に会いたくなんかなかった」とか書いてあるのに驚いた!沢山のお見舞いの品も別れの言葉も本当の誠意から出たものじゃなかったんだ…そうかと思ったら、その後彼が代議士になったときにはうちにも来てくれたし、郷友連盟の運動にも協力してくれたし…今は消息不明になっているからこれ以上は書かないけど、訳のワカラン男だ」(意訳)とあります。



以下、今田に直接関係ないけど興味深い箇所を箇条書きで。
・(昭和20年)9月1日 最近東久邇宮総理と石原莞爾が「我が敗因の一つは国民道義の低下」と挙げていたが、全く同感だ(p.38「第4章 昭和20年後半日記抄」)
・(昭和20年)9月3日 朝鮮の現状と将来について:朝鮮併合当時からこれを良しとしない志士達は国外に脱出して活動していたが、大正末期には金九一派と共産系一派が上海にあった。戦争が終わった今、前者はアメリカに亡命した一派と組んで南韓を形成し、共産系は北鮮を形成、両者が米ソを背景に対峙するようになった。今、支那派遣軍の朝鮮人将兵を見てみると従来多少対日反感を持っていたので独立は喜んでいるが、考え方はバラバラだ。要は朝鮮の国内情勢は複雑で果たして独立した統一国家としてうまくいくか疑わしく、「東亜のバルカン」にならなければ幸いであろう。(p.39「第4章 昭和20年後半日記抄」)
・(昭和20年)12月8日 東京では多数の名士が戦争犯罪者に指名されたが、その中に将棋仲間の平沼騏一郎とか大達茂雄の名前もあった(○。○)(p.58「第4章 昭和20年後半日記抄」)
・(閻錫山支配下の山西省からの引き上げについて)澄田らい四郎軍司令官以下の努力や在北京の米軍師団長が宮崎周一参謀の説明により側面協力をしてくれた物の、結局相当数の将兵が残留して中共と戦う羽目になってしまった。この中には山西産業、華北交通の従業員の一部や居留民など300人余りが含まれていた。山西産業社長・河本大作大佐は宮崎参謀の帰国の説得に対し、自分の抱負を述べ、残留の意思を翻さなかった。最後は中共の捕虜となり獄死した。(p.67「第5章 引揚、復員」) 澄田らい四郎は澄田智前日銀総裁の父。岡村は好意的に評価しているが、この当時に部下だった人たちからは閻とつるんでいたのではないかと見られて余り良くは言われていないようだ。河本大作は満州事変の前哨戦となった張作霖爆殺事件の主犯、彼のその後についてはこちらのサイトが詳しい。
・戦犯の裁判は一般に公正とは言えず、終戦時の蒋介石の号令(※「報恩以徳、友好寛容」の方針を立てていた)に副わなかった物も多かった。昭和21年10月3日になって日本から南京に装置されてきた磯谷廉介の場合は、判決の要旨を見ると無罪を列挙しておきながら、香港総督時代に20万人を強制疎開させた一点を取って無期懲役という妙な判決だった。理由と判決とが一致せず、他の理由で有罪になったのではないだろうか。(p.104~105「第7章 戦犯」)
・抑留所に於ける給食衛生の状況も漢口拘留所を除いては不良だった。中国側の管理者に言うと「中国自体の兵士の給食より良くできないよ」と言われた。但し、差し入れはOKだった。(p.106「第7章 戦犯」) これについては拙ブログのこのネタも参照
・(昭和21年)9月11日 中国大陸や南方地域の軍民は既に8割以上は帰国したというのに、ソ連や満州方面の引き上げはどうなっているのか。これはポツダム宣言にも違反していることなのに、国内の世論も盛り上がらず不思議だと思っていたら、今日のラジオニュースで聞いたところでは、東京で留守家族約4000人が運動したらしい。(p.135 第8章 総連絡班時代日記抄)
・(昭和21年)10月7日(※本文では「7月7日」とあるが前後から見て誤植の可能性大) 10月5日に南京に護送されてきた磯谷廉介中将だが、同期でもあり、青年時代からの同志親友なのでその身の上が大変心配である。聞けば冬服持ってないということなので、私のを分けてあげた。(p.137 第8章 総連絡班時代日記抄)
・(昭和23年)7月15日 柴山兼四郎、神田正種両中将が東京から上海の戦犯監獄に送られてきた(p.181 第11章 単独抑留入獄(上海)時代日記抄)
・(昭和23年)10月6日 2,3日前に知り合いの中国人から差し入れて貰ったビタミン肝油は体力が最も衰えている柴山兼四郎中将に贈った(p.186 第11章 単独抑留入獄(上海)時代日記抄) この辺のことは拙ブログのこのエントリも参照。中国人に知り合いの多かった岡村は沢山の差し入れを貰っていたらしく、この後も差し入れを他の収容者に分配したりしています(10月8日)
・(昭和23年)11月25日 昨日東京でA級戦犯への最終判決があり、土肥原、板垣ともに死刑と知る。青年時代、同期中大陸に憧れ共に歩んできた4人の内、土肥原と板垣が死刑、磯谷と私が戦犯監獄。感無量にならざるを得ない。この日の晩は磯谷と運命感を語りあった。(p.188 第11章 単独抑留入獄(上海)時代日記抄) 但し、その後昭和24年1月26日、岡村は無罪判決を貰って(p.195)、1月30日には日本に向かっています(p.197)。岡村自身がこの本で書くところに依ると、国民党軍には岡村の友人が多く、早々に日本に帰国させれば東京裁判で有罪で引っかかるので、当初は「旧日本軍引き上げのための連絡」後には「結核で」(事実この時岡村は結核でいつ死んでもおかしくない状態だったらしい)と日本帰国を阻止し、中共軍に対して劣勢が明らかになった時点で「無罪」と言うことにして帰国させたみたいです(p.110~128)。ちなみに中共側は日本側の一番の戦犯が岡村、次が多田駿と見なしていたらしく(2人とも北支軍司令官で、中共軍の当面の敵だったから)、その後もことあるごとに日本に「岡村を引き渡せ」と言ってたとか。
・北京着任(※岡村は昭和16年7月に北支方面軍司令官に就任した)後、現地住民との間に不正の事故が多かったので以後「滅共愛民」「焼くな犯すな殺すな(不焚不犯不殺)」(これの元ネタは清が明を攻めたときの物だとか)を標語として徹底させたが、戦後、日中両共産党はこれを「岡村寧次は”可焼可犯可殺”という三光政策をとった」と偽作・宣伝した。驚いたことには日本の進歩的学者までがそれを信じているのである。日本の文化人・学者達がかくもわかりきった嘘を平気で公表するのは憎んで余りある。(p。263~264 第3編 北京三年)
・北京着任以来1年、内地から陣中見舞いに来てくれた日本人は多かったのだが、この人達は各界の上流に属する人であるにもかかわらず、言うことと言えばほとんど時の政府軍部や指導者に対する批判ばかり。「銃後は大丈夫だ、しっかりやれ」と言ってくれた人はとても少なかった。困難に際して人の陰口を言ったり批判を事とするのが日本人の通弊かも知れないと思ったことである。(p。273 第3編 北京三年)
・第11軍司令官(※昭和13年6月~15年3月)就任後、軍の風紀をずっと見てきたが、非常に乱れきっていた。略奪・強姦などの非行は後を絶たず、俘虜・現地住民に対する愛情に乏しく、官物を尊重する心が薄く、備品や資材はすぐに欠損・放棄されていた。また、露営を嫌ってすぐ民家に侵入したがった。公共道徳に薄い日本人の欠点は戦場に反映して益々甚だしい(p.297~298 第四編 武漢攻略前後)この後もなかなか改善しない風紀への悩みがp.300~304に詳しく回想されている。
・私は元来満州国問題より中国本土を重視する立場だった(p.384 第5編 (前編)関東軍参謀副長時代)
・満州国帝政御祝のために秩父宮殿下が来満したとき(※昭和8年6月12日)、満州国皇后(婉容)がお出ましになったのには驚いた。一切表面に出ず、満州国要人でも一人として対面できたものはいなかったのである。(p.384 第5編 (前編)関東軍参謀副長時代) 婉容の寂しい満州国時代については本庄繁の日記にも記述がある。
・私は大阪外国語学校の校長に「三、四男で家族の認諾を得た身体強健なロシア語か、モンゴル語科各5名、合計10名の志願者を送ってくれ」と給料なども決め秘密に依頼しておいたところ、この条件にあった10名が来たので、目に建たない旅館に宿泊させ、私も背広を着用して彼らを指導し、それぞれ語学実習に便利な国境に居住させ、時々新京(※現在の長春)に集めては激励したり娯楽をあたえたりして将来に備えてかわいがり、これを後任の板垣征四郎少将にも申し送ったのである。…なのに板垣の野郎(以下自粛)(p.384 第5編 (前編)関東軍参謀副長時代) これについては拙ブログこのエントリも参照。板垣酷すぎ。
・昭和9年の8月から12月には、満州国に於いて外務省と内務省(警察)と関東軍(憲兵)の対立が激しくなり、ついには全満警察官のストライキまで起こった。結局11月になって菱刈隆関東軍司令官(兼駐満大使、関東庁長官)は更迭されてしまった。この後昭和10年に、菱刈は参内して奏上を終えた後、初めて岡村に退職を決心した旨を話した。岡村はこの様子を見て「やはり菱刈大将は武人である」と感佩したという。(p.385~387 第5編 (前編)関東軍参謀副長時代) 菱刈隆はこれが2回目の関東軍司令官で、1回目の関東軍司令官時代はこういう残念な評価をされてしまっている   岡村の評価はめずらしいかも。
・第2師団師団長だったとき、満州に赴任して匪賊の掃討に力を入れたが、この時実際に掃討に当たった満州国軍への補給が十分ではなく、岡村は師団の糧秣の一部を「廃品」と言うことにして満州国軍に回した。その後、岡村はこの独断について責任を負うことを軍に申し出たところ、石原莞爾参謀副長が「軍の機密費を融通して後始末するからよい」として責任を問われなかった(p.402 第5編(後編)第2師団長時代) 東条英機との喧嘩ばかりしてたわけでもなかった(をい)関東軍参謀副長時代の莞爾。



長くなったのでこれくらいにしておきますが、全体を通して興味深い話が多かったです。

なお、この本を読んで「岡村寧次」という人物について思ったことですが、典型的な中国専門家軍人(「支那通」)であったにも関わらず、実際の経歴では参謀本部支那課に所属したことが無く(※この本の前書きに詳細な経歴が説明されている)、このことが今田や板垣など他の「支那通」と違って悲惨な運命を辿らなくて済んだ一因なのではないかと思います。参謀本部支那課にどうも陰謀体質があったのは、今田の同期・今井武夫の回想でもよく語られています、と言っても今井も支那課に所属させられたことがありましたが(爆)
また、一般的には「戦前の日本人というのは毅然として規律正しかったが、それに比べて戦後と来たら(以下略)」という言われ方をされることが多いと思いますが、岡村の日本人感はそれと真っ向から対立する物です。岡村自身は典型的な大日本帝国陸軍将校だと思うんですが、どうも日本人の民族性というのに岡村当人は馴染んでなかったような形跡すら感じられます。

ちなみにこの本のタイトルでGoogle検索した人はご存じかと思いますが、この本は問題の南京事件(p.291辺りに関係の話が出てくる)や従軍慰安婦関係(p.302辺りに関連の話が出てくる)、731部隊関係(p.387~390)でよく証拠として使われる問題の一書のようです。この辺りの時代に興味のある人は一読した方が良い一冊でしょう。つーか、岡村さんってけっこうぺらぺらしゃべる方なんでしょうかヾ(^^;)写真見たらそういう風には見えないんだけどなあ。
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