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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今回紹介するこの本は、大仰なタイトルで伺えるように、石原莞爾の信奉者である武田邦太郎等を中心として出版されたものです。
出版の目的は
現代歴史学、あるいは一般通念に於いて石原莞爾先生は、昭和に於ける日本の大陸侵略の先駆者とされている。それでは満州事変・満州建国から日中戦争、太平洋戦争期にかけ、石原先生が朝鮮民族(当時の呼称)漢民族始め、日本帝国主義の支配下にあった多くの異民族から、最も信頼すべき平和者として尊敬されたのは何故か。石原先生の指導した東亜連盟運動が、日中戦争を帝国主義侵略戦争であると批判し、公然と早期和平運動を展開して、軍閥政府から過酷な弾圧を受けたのは何故か。又極東国際軍事裁判の酒田臨時特設法廷で、石原先生が厳然として満州事変・満州建国の正当性を主張し得たのは何故か。石原先生が侵略者でなかったからではないのか。
(後略)
p.6~7
とあり、石原莞爾の再評価を狙ったものです。…ということで、最初から中身には期待してませんでしたヾ(--;) おおかた「石原莞爾は素晴らしい!」「石原先生は偉大!!!」…で列ねられてると予想してたんですが、実際読んでみて案の定そうでした_(。_゜)/ 中に書かれている話も、ほとんど今まで読んだ石原莞爾本で既に紹介されてる話ばかりで新味もなく…あ、でも石原六郎(莞爾の末弟)が死んだ後、残った土地の相続をめぐって4年にわたる大騒動となり、結局そのほとんどが売却されて莞爾が最期を迎えた家も取り壊された話(p.230~233)とかは初めて聞くことだったので興味深かったです。子供のいないご夫婦・単身者は多いかと思いますが、ちゃんと遺言書いとかないとこういう事になりますよ~(ただ莞爾の遺産の場合は莞爾の取り巻きとかも生きていて ゲフンゲフン)。まあ子供がいてても泥沼になることも多いから一緒ですかね近頃は(T∀T)
あと「石原先生マンセー」文章ばかりの中で、特別寄稿された仁科悟朗(当時明治学院大学教授)の満州事変評価に関するコラム(p.69~77)だけは読み応えあったかなあ。満州事変の首謀者を「石原莞爾等とそれを支持する軍部中央の一部」とする意見には同意します。一方、武田邦太郎氏ら莞爾信奉者のみなさんは当然「莞爾は作戦を立てただけ、陰謀なんて知らなかった」(p.47~48)と力説されておられますが、莞爾本人があれだけ満州事変計画の一部始終を詳しく日記に書いてるのに知らなかったなんてねーよう言うわ…

…といろいろ書いてきましたがヾ(^^;)
この本の中で他の石原莞爾本より傑出しているのが掲載写真の多いこと。
これはこの本の編纂に協力された人の御子息がネットでその辺りのエピソードを紹介しており、拙ブログでも一度引用したことがあります。
今まで拙ブログで紹介した写真の出元もこの本で分かったことが多いです。
例えば今田新太郎+牛島辰熊+浅原健三+津野田知重というあの写真、現所蔵は牛島辰熊夫人で、しかも掲載されなかった写真の中にはあの三上卓が写っていた物もあったとか(○。○)…見たいヾ(--;)
あと初めて見る今田の写真も結構ありましたねー。

では気になる点とかの紹介まいる。
ほとんど写真の紹介になると思います ※写真はクリックすると拡大します。



まずは今田が写っている写真の紹介。
水師営という場所で撮られた物
撮影時期は書いてなかったが、服装や前後の写真の撮影時期から見て昭和11年頃か?
なお水師営とは日露戦争時に休戦協定が結ばれたところで、津野田知重の父・是重に縁の地である。まあ、この頃の今田は後に津野田とあんな事になるとは想像もしてなかったでしょうが。


 昭和18年12月、今田がニューギニアに行く直前の送別会の翌日、上海の浅原健三邸前で。
左から牛島辰熊、浅原健三、今田。浅原健三は唯一の伝記の表紙に載っているこの写真が有名だと思うのだが、余りの変貌ぶりに絶句ヾ(^^;)駒井徳三そっくり(ヲイ)
なお、浅原健三は上海在住時には上海ガーデンマンションという高級アパルトマンに住んでおり、この建物は平成15年頃まではまだ残っていたらしい(『反逆の獅子―陸軍に不戦工作を仕掛けた男・浅原健三の生涯』)。今は知らない。
それにしても今田は着流しが好きですなー。ニューギニアでも着てたという証言あり(また紹介できるかな?)

 以前のエントリで掲載した物と同一と思われるが再掲。
写真に直接人名の記入がある。恐らく牛島辰熊の自筆かと。(※赤丸にてばんない強調補記)

 上の写真の続きと思われる。場所は上海ガーデンブリッジ付近とのこと。
なぜかじもてぃーらしき子供がわやわや着いてきているのが気になる。
ちなみに前の写真とこの写真で今田の後方にやはり軍服姿で荷物を持っている兵士が1名いるが、これは恐らく今田の当番兵(交代制で、師団の中から選ばれて上官の身の回りの世話をする係)かと思われる。
それにしても上の写真では気にならなかったのだが、この写真の今田はどうも服のサイズがぱっつんぱっつんで合ってないような気がヾ(--;)

今田が載っていた写真は以上。
他、気になる写真など。
 多田駿(当時参謀次長)満州国訪問時の記念写真
左から2人目東条英機、その隣中央が多田和尚閣下ヾ(^^;)、その右隣が石原莞爾
石原莞爾―生涯とその時代』にも載っているので比較的知られている写真かと。撮影時期はおそらく昭和13年頃と思われるが、東条と石原の距離感が何か絶妙であるヾ(^^;) ※ご存じのようにこの時に極悪の仲になりました>石原と東条
それにしても何で莞爾だけ戦闘帽なん?

 中川小十郎 西園寺公望の秘書にして立命館創立者の1人。
昭和16年、陸軍を予備役(と言えば聞こえはいいが、ようはクビにされてしまった)石原莞爾を立命館大学に迎えて救済した人物である。最もその後官憲の弾圧が厳しく、中川が倒れるに至って流石の石原も責任を感じたのか、立命館を辞めて山形県に行ってしまいますが…。
西園寺公望の秘書と言えばもう1人原田熊雄(『西園寺公と政局』口述者)も有名だが、写真で見る限りでは原田と中川は正反対のタイプだったような。ちなみに中川には見込まれた石原莞爾だったが、原田には嫌われていたらしい(五百旗頭真氏論文より)。

石原莞爾の子分どもヾ(--;)
 伊地知則彦 彼に関しては拙ブログの 参照。
確かにこんな目で睨まれて迫られたら、改宗しないと怖いことになるような気がしなくもないヾ(--;)
なお、この人の写真は今まで見た石原莞爾本では載っておらず、この本で見たのが初めてでした。
 曹寧柱 初代大韓民国居留民団(略称「民団」)代表
でも、実は青年時には石原莞爾の3人衆(後2人は小泉和枝と武田邦太郎とのこと 『東亜聯盟期の石原莞爾資料』)として活躍していた。昭和17年頃に石原に会って心酔してしまい、以後莞爾が死ぬまでその側近として活躍、東京裁判で板垣征四郎弁護のために密使として奔走したり、また復員直後の今田にも会っている。
実は旧制京都帝国大学法学部に入るほどの秀才だったようなのだが、瀧川事件で退学させられたそうな。その後立命館大学に再入学してこっちは無事卒業できた。
上の写真はおっかないが、晩年のお姿はこんな感じ。→ (平成元年)
    田中久(左写真、右写真とも莞爾の右隣の人物)
右の写真は昭和22年に撮影された物、左は京都で撮影された物だが日時不明(服装から見ると同じ頃の物?)
実はいろいろ調べていてもさっぱり分からなかったのがこの田中久なる人物だが、この本でようやく実態判明。
陸軍士官学校25期出身(今田の5期上)で、昭和12年9月、石原莞爾が関東軍参謀副長に左遷されたときに知りあい、やがて莞爾に対して「帰依」と言ってもおかしくないほど心酔。その後大佐で軍を辞め、四国で東亜連盟運動の中核を担った。昭和19年2月には莞爾の要請で「皇族内閣の要請文」を起草し、当時の首相・小磯国昭に"東亜連盟思想に基づく早期の終戦"を訴えた。昭和44年3月、78歳で死去。
なお、この人はどうも初代東条英機暗殺計画犯(○。○)だったらしく、軍を辞めた(と言うか辞めさせられた)のはこれが原因のようです(『石原莞爾満州備忘ノート』)。また、戦後に復員省(陸軍省、海軍省が戦後旧軍人の帰還事業専用の役所として改称したもの、後に厚生省援護課になる)が戦争資料の散逸を恐れて旧軍人達に当時の記録や回想録を募集したところ、石原莞爾を賛美する論文を次々と送りつけたという(『復員関係史料集成 第8巻 南方軍復員史 別冊 下』)…募集要項読みなされヾ(^^;)
 和田勁(わだ・つとむ 明治22年(1889年)~昭和33年(1958年))
福島県会津出身、ご先祖は会津藩士。陸軍でエリートコースを歩むも、結婚問題で引っかかり(※当時士官の結婚には憲兵の事前調査があり、引っかかると結婚できなかった)、どうしても婚約者と結婚したかった和田は陸軍を辞職した。その後、満州事変で活躍し、満州軍中将に任命される。戦後は伊豆稲取に隠棲、不遇のまま死去されたようです。
この本でも「生死栄辱眼中になかった気骨凌凌の同志」と書かれたくらい石原莞爾と親しかった人物で、特に会津に対して故郷同然の愛着のあった莞爾は会津出身の和田をかわいがっていたようです。死後、東亜聯盟会津支部長だった佐藤秀雄に満州国要人等の筆跡帳『琢室繍章』を寄贈する(p.265~274)が、これは本来要人達が石原莞爾に宛てた物だったようで、それを譲られたことから見てもいかに和田が石原と親しかったかが伺えます。実は満州事変で甘粕正彦と共に身軽な民間人の立場を使って暗躍した形跡があるのですが(拙エントリこちらとかこの辺)、この莞爾とのつながりが背景にあることは間違いないでしょう。
なお、この人が戦後日本に密帰国した辻政信をかくまっていたのは今までも何度も触れた。このお顔からすると信念を持ってかくまわれたのでしょうな。万死に値することには変わりないですがヾ(^^;)

 石原莞爾と石原六郎(中央が莞爾、その左隣が六郎)、木村武雄(前列左端)
六郎は莞爾の末弟で、第二高等学校卒業後東京大学に進学するも、突然中退。以後は兄・莞爾一家と同居しながら家事の手伝い、後には東亜連盟の事務などをする。莞爾死後は実質的に莞爾の遺産の管理者となり、時には石原莞爾を敵視していた真崎甚三郎・勝次兄弟と喧嘩しつつヾ(^^;)余生を過ごされたようです。生涯独身。そのため死後に遺産争いが勃発しえらいことになったのは最初に書いたとおり。…つまり、今流行のニートの走りという人物だったようです(ヲイ)
木村武雄は政治家、戦前戦後と衆議院議員を務める。一時期政治活動が出来なかった軍人の莞爾に代わって東亜連盟の名義上の代表を務めていたことがあります。また、戦後今田と同行して病床の石原莞爾を見舞いに行ったことがあります。



気になったところは以上。
くどいようですが、写真は面白い物が多かったです。写真だけはヾ(^^;)


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