拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今田新太郎は、書いた論文の中でよく「浦敬一」という人物に言及している。今田曰く
でも「浦敬一」ってどんな人?食ったら旨いのか???ヾ(^^;)
取りあえずこういう時はネットで検索である。wikipediaでは単独項目としては立って無くて、「征清殉難九烈士」に併記されている程度である。
まとまっているのはこの辺りかな。
旧版はこれ(『浦敬一』)だが、1924年初版の本なんてどう考えても入手するのは難関に決まってる。最近再刊されたらしい伝記叢書版ならなんとかなるだろう
¥17280(○。○) 余りの高額本なのに絶句。
こんな本は図書館で探すに限る…と思ったら、市立中央図書館にも県立図書館にもない_| ̄|○ 結局他県から借りる羽目に…なお、他の「伝記叢書」は割と揃っていたのにこれだけ無かったのは、購入を選定するに当たって”浦敬一”という人物はそろえる必要がないと思われたのではなかろうか?それくらい現代では無名と思われる…
では、今田がもしかしたら中江丑吉よりも石原莞爾よりも傾倒していたかも知れないという浦敬一というのはどういう人だったのか?伝記を概略版で紹介してみる。
※「つづきはこちら」をクリックして下さい
民間の志士が常に時の軍部と気脈を通じ世間より常に一歩も百歩も先んじて大陸に根を張って居った。(中略)浦敬一氏の如きは悲愴にも蘭州にいたりて行方不明となった。(中略)浦敬一氏の「児也去玄千萬里、縦跡恰假水上萍云々」の長詩の如き誠に当時の青年の士気を鼓舞し其腸を抉った物である。今田はこの人物をすごーく尊敬…と言うより、どうもこういう人になりたかったらしい。
「吾人は支那を如何に見るか」『偕行社記事701号附録』p.24
でも「浦敬一」ってどんな人?食ったら旨いのか???ヾ(^^;)
取りあえずこういう時はネットで検索である。wikipediaでは単独項目としては立って無くて、「征清殉難九烈士」に併記されている程度である。
まとまっているのはこの辺りかな。
浦敬一 うら-けいいち…とまあ、余り詳しく言及されているサイトやブログはどうもないようだ。ところが検索してみたら、どうも伝記があるようだ。
1860-? 明治時代の大陸浪人。
万延元年4月4日生まれ。長崎の「鎮西日報」の編集にあたる。明治20年清(しん)(中国)にわたり,荒尾精らと各地を調査。22年(1889)蘭州をへて嘉峪関にむかったまま消息をたった。肥前平戸(長崎県)出身。専修学校(現専修大)卒。本姓は坂本。
http://kotobank.jp/word/%E6%B5%A6%E6%95%AC%E4%B8%80
旧版はこれ(『浦敬一』)だが、1924年初版の本なんてどう考えても入手するのは難関に決まってる。最近再刊されたらしい伝記叢書版ならなんとかなるだろう
¥17280(○。○) 余りの高額本なのに絶句。
こんな本は図書館で探すに限る…と思ったら、市立中央図書館にも県立図書館にもない_| ̄|○ 結局他県から借りる羽目に…なお、他の「伝記叢書」は割と揃っていたのにこれだけ無かったのは、購入を選定するに当たって”浦敬一”という人物はそろえる必要がないと思われたのではなかろうか?それくらい現代では無名と思われる…
では、今田がもしかしたら中江丑吉よりも石原莞爾よりも傾倒していたかも知れないという浦敬一というのはどういう人だったのか?伝記を概略版で紹介してみる。
※「つづきはこちら」をクリックして下さい
・万延元年4月4日肥前国平戸(現在の長崎県平戸市)生まれ。実家・坂本家は平戸藩士だったが、生前から「男でも女でも養子に貰い受ける」という先約がされており、産まれた直後に浦家に養子に出される。(p.8~9)
・物心ついたころに明治維新。これから人生を決めようとするときになって廃藩置県。通っていた藩校も閉校された上、士族だった浦家はたちまち貧窮に陥ってしまい、これが敬一の人生を狂わせたように思われる…(p.12)
・明治7年頃、どうしてもハイレベルの勉強をしたかった敬一は薩摩に留学させてもらえるよう旧藩主・松浦詮に願い出るが却下。なお、どうして薩摩だったかというと、この頃(明治初頭)は旧薩摩藩が一番洋学でも何でも先進地だったからです、はい。(p.15)
・しかしどうしても平戸脱出の意志が強い敬一に懲りた養父が、詮の息子・厚のご学友として東京に出るよう説得、敬一も不本意ながら「まあ勉強が出来るなら」と諦めて明治10年5月までの3年間御奉公する。(p.16)
・明治10年、西南戦争勃発!敬一は本心ではこの戦争に薩摩側として参加したかったらしく、帰郷直後に「本来なら俺は鹿児島に留学して戦場の露と消えていたかも知れない。この大イベントをよそで見てるなんて男子の本懐ではない」と家族に言ったらしい。(p.20)
・上記の経緯からだろう、宮崎八郎にはものすごくシンパシーを感じていたそうだ。(p.23)
・明治12年2月、実家の貧窮のため、不本意ながら警察に就職し巡査となる。一時壱岐島に転勤になるなどしたが、どうしても学問への思いが断ちがたく、明治13年11月には退職してしまった。(p.27~30)
・悶々としている敬一の様子を見ていた養父が、たまたま帰郷していた籠手田安定(当時滋賀県令)に願い出て、敬一は籠手田の書生として引き取って貰うことに。(p.30)
・…が、大津市に着いてみると籠手田は東京出張中。何を思ったのか敬一はそのまま東京まで追いかけてしまう。東京の都会ぶりに驚いた敬一は「大津でなんか勉強してられるかよ」…と今度は旧藩主・松浦詮に泣きついて、松浦伯爵家の家従者として雇って貰い、東京に居着くことに。(p.32)
・しかし伯爵家の用務を勤めながら勉強するのは中々難しかったようで、敬一は松浦家もすぐに退職してしまう…(p.33~34)
・その直後に中村敬宇が経営する同人社という英学校に入学。が、この学校は12、3歳ぐらいの生徒が対象で、既に22歳だった敬一は実は年齢オーバーもいいところだったのだが「将来のため」と割り切り、頑張って英語と数学を勉強していたそうです。(p.34~35)
・しかし同人社は5ヶ年半在学せねばならず、金銭的にも無理、学習内容も自分の要望と違う、と判断した敬一は、明治14年9月、同人社を辞めて専修学校(現在の専修大学)に転校し、また度々松浦詮に陳情書を出して、松浦家から奨学金を出して貰うことに成功する。(p.36~39) 松浦さん甘すぎるかも(^^;)
・…と思ったら、卒業間近の明治16年5月に「伯爵家に於いて諸事費用がかさむため」という理由により奨学金が打ち切られる(p.41) _(。_゜)/
・どうしても東京でまだまだ勉強したかった敬一は、金策のため+養父の病気のために一時平戸に帰郷するが、そこで待ってましたとばかり、許嫁の田村時子(当時16歳)と結婚させられる。家庭を持つ気がなかった敬一にとってはかなり不本意なことだったらしいが、養父母への孝行と思って我慢したらしい(p.43) これって時子さんの方が迷惑やがね…
・敬一は時子に「自分のへそくりで夫を立てた山内一豊の妻を見習え、自分の着物を質入れして夫の書籍を買った雲井辰雄の妻を見習え」という内容の手紙を送ってたそうです(p.47) 良妻賢夫人の押しつけ嫌ですヾ(^^;)
・明治16年7月に専修学校を優等で卒業、卒業者代表として講演を行う栄誉も得る。この時の講演内容は、当時の自由民権運動…というか政党政治を批判する内容だったらしい。敬一の理想は「哲人による政治」だったようだ。(p.49~56)
・松浦家からの援助がなくなった敬一は、紆余曲折の末に旧平戸藩御用達所(常平社)からの奨学金を得ることに成功(p.55~60)敬一は後輩の平戸出身学生達の指導に熱心で、彼らが寄宿舎としていた松浦家従屋敷の待遇が家従達の嫌がらせにより劣悪だったときには、学生を代表して交渉に乗り出し、いわれのない悪評を立てられたりもしたらしい(p.63~65)
・卒業後も更に専修学校の聴講生として法律やドイツ語の勉強を続ける一方、鎌倉円覚寺の今北洪川和尚について禅修行したり(p.67~72)、陸軍の演習を見学したり(p.72~75)遊学を続ける。
・そうこうしている間に、イギリスが朝鮮の巨文島を占領したり、それに対抗しようとしたロシアが日本に「対馬貸してくれや~」とやってくるし(日本も流石にこれは断ったようだ)、フランスがベトナムを占領して植民地としたり、日本と朝鮮の間にも軋轢が増えてきたり、海外情勢が緊迫化してくる。その中で敬一の関心は次第に海外情勢に向けられ、とりわけ「日本を守るためには朝鮮・中国をも一体化して対抗せねばならず、そのためには“鮮血の洗礼”をも辞さない」と主張するようになる(p.76、p.172~173)そして「そのためには支那に渡らねばならない」と思うようになる(p.79)
・明治18年12月、大阪の内外日報社という新聞社に就職。同窓生の多くが役人になる中で新聞社を選んだのは「士官学校に進んで軍人になるという道もあるが軍人になると政治に口出しできなくなる、また軍人が政治に口出しするというのは“武人政治”の弊害を招く物である。となると当分は民間にいて言論で活動するしかない」からだとか(p.78~79)
・…が、新聞社に就職はした物の、実際は郷里の長崎に帰って、鎮西日報社という新聞の買収を阻止する活動したりとか、それが終わった明治19年6月には今度は東京に行って商業電報社という新聞社の立ち上げに関わったりとか(p.82~88)、また九州にいるときには頭山満や佐々友房、宮崎民蔵(先述宮崎八郎の弟)等と交友を結んで、藩閥専制政府への対抗を誓う(p.92~96)とか、英学校を東京に作ろうとするとか(が、肝心の敬一が先述の鎮西日報社のために九州に行ってしまって頓挫したとか_(。_゜)/)郷里平戸の学校(猶興書院)の改革に熱を上げたり(p.99~103)とか、佐世保軍港の建設に平戸の士族が参加できるよう活動したり(p.104~108)…余りふつーの記者としての仕事してないような
・先述したように欧米列強に対抗するには清国との提携しかないと考えていた敬一だが、明治19年4月18日の天津条約の内容は、敬一を酷く失望させる物だったようだ。更に同年8月に長崎に入行した清国北洋艦隊一行が無礼を働いた事件は、「清国との平和提携」を考えていた敬一を180度「清国の武力滅亡→強制的に日本の属国にしてもアジアの大同連合へ」へと転回させることとなり、その実現のために以前から考えていた「支那への渡航」熱を一気に燃え上がらせることになる(p.124~130)
・明治20年10月、敬一は遂に清国への渡航を決意し、郷里の平戸に別れの挨拶にやってくる。これが生涯最後の帰郷となった。(p.183)
・明治20年11月20日、漢口(現在の武漢市)に着いた敬一は岸田吟香と荒尾精の経営する「楽善堂」と言う薬局に就職することに。最もこの楽善堂の本当の正体は清国の調査を行う諜報機関であった…。(p.184~186)
・明治21年、ロシアはシベリア鉄道敷設の計画を発表するが、これは敬一等「西欧列強のアジア侵略を危惧する人たち」にとっては当然飛んでもないニュースであり、その状況を偵察するため、敬一を新疆地区に派遣する計画が立てられる。(p.197~199)
・明治21年6月18日、敬一は北御門松三郎、河原角次郎と共に蘭州に向かう。が、先行組と蘭州で落ち合えず、この計画は失敗に終わる。(p.209~210)
・明治22年3月25日、再び敬一は今度は藤島武彦と共に新疆地区に向かう(が、前回の失敗のことがあったので、楽善堂でも反対する人が多かったらしい)。この時は弁髪にして中国人「宋思斎」を名乗って変装、西安(同年5月8日着、6月9日発)、蘭州(同年9月着)まで到着したが、ここで藤島が脱落(理由は不明)。敬一は一人で更に西に向かったのだが、その後連絡は途絶えた。(p.215~222)
・なお大正11,2年頃、岡野増次郎という人物が外モンゴルの阿羅善郡王と会見したが、その時に王は「年月は覚えてないのだが大昔、一人の日本人らしい男がここに来て一泊したことがあるのだよ。その男は“これから新疆に行くのだ”という。そこは大変危険なところだ、一人で行けば絶対殺されると私は必死に説得したのだが、どうしても聞かずに翌日ここを立っていったのだ」と語ったという(横田順弥氏解説p.5、元ネタは『東亜先覚志士記傳 下巻』)
・なお、昭和10年頃に「俺は浦敬一とビルマの豪族の娘との間に生まれた忘れ形見なんだよ」と名乗るうさんくさい人物が日本にやってきて篤志家の厄介になっていたが、その後上海に逃亡したという事件もあったらしい(横田順弥氏解説p.5、元ネタは『東亜先覚志士記傳 下巻』)
…以上長々と語って参りましたが、如何でしょうか。浦敬一という人物。
私はこの人はあと10年ほど早く生まれていたら、絶対平戸藩を脱藩して京に入って尊皇攘夷志士として大暴れしていた口だろうなと思いましたヾ(^^;)
しかし、浦敬一の養父母はどういう心境だったんだろうか。やっとの事でゲットした養子が「こりゃ頭の良い子だから無理してでも教育付けさせてやろう」と爪に火をともすようにして苦労してお金をつぎ込んだら、出世して親に楽させるどころか「御国のために命捨てます~」…って、本当に失踪してしまったんだから。えらいババつかまされたと思ったかも知れませんなー。そんな敬一さんと結婚させられた時子さんという女性はもっと災難だったのは間違いないでしょう(この本を見る限りでは、その後再婚せず、未亡人として長い余生を送られたようです)。
それにしても、こんなぶっ飛んだ、そして不幸な最期を遂げた人物に惹かれてしまった今田新太郎。
これこそまさしく今田の人生を予言していたような気がしてならない。
・物心ついたころに明治維新。これから人生を決めようとするときになって廃藩置県。通っていた藩校も閉校された上、士族だった浦家はたちまち貧窮に陥ってしまい、これが敬一の人生を狂わせたように思われる…(p.12)
・明治7年頃、どうしてもハイレベルの勉強をしたかった敬一は薩摩に留学させてもらえるよう旧藩主・松浦詮に願い出るが却下。なお、どうして薩摩だったかというと、この頃(明治初頭)は旧薩摩藩が一番洋学でも何でも先進地だったからです、はい。(p.15)
・しかしどうしても平戸脱出の意志が強い敬一に懲りた養父が、詮の息子・厚のご学友として東京に出るよう説得、敬一も不本意ながら「まあ勉強が出来るなら」と諦めて明治10年5月までの3年間御奉公する。(p.16)
・明治10年、西南戦争勃発!敬一は本心ではこの戦争に薩摩側として参加したかったらしく、帰郷直後に「本来なら俺は鹿児島に留学して戦場の露と消えていたかも知れない。この大イベントをよそで見てるなんて男子の本懐ではない」と家族に言ったらしい。(p.20)
・上記の経緯からだろう、宮崎八郎にはものすごくシンパシーを感じていたそうだ。(p.23)
・明治12年2月、実家の貧窮のため、不本意ながら警察に就職し巡査となる。一時壱岐島に転勤になるなどしたが、どうしても学問への思いが断ちがたく、明治13年11月には退職してしまった。(p.27~30)
・悶々としている敬一の様子を見ていた養父が、たまたま帰郷していた籠手田安定(当時滋賀県令)に願い出て、敬一は籠手田の書生として引き取って貰うことに。(p.30)
・…が、大津市に着いてみると籠手田は東京出張中。何を思ったのか敬一はそのまま東京まで追いかけてしまう。東京の都会ぶりに驚いた敬一は「大津でなんか勉強してられるかよ」…と今度は旧藩主・松浦詮に泣きついて、松浦伯爵家の家従者として雇って貰い、東京に居着くことに。(p.32)
・しかし伯爵家の用務を勤めながら勉強するのは中々難しかったようで、敬一は松浦家もすぐに退職してしまう…(p.33~34)
・その直後に中村敬宇が経営する同人社という英学校に入学。が、この学校は12、3歳ぐらいの生徒が対象で、既に22歳だった敬一は実は年齢オーバーもいいところだったのだが「将来のため」と割り切り、頑張って英語と数学を勉強していたそうです。(p.34~35)
・しかし同人社は5ヶ年半在学せねばならず、金銭的にも無理、学習内容も自分の要望と違う、と判断した敬一は、明治14年9月、同人社を辞めて専修学校(現在の専修大学)に転校し、また度々松浦詮に陳情書を出して、松浦家から奨学金を出して貰うことに成功する。(p.36~39) 松浦さん甘すぎるかも(^^;)
・…と思ったら、卒業間近の明治16年5月に「伯爵家に於いて諸事費用がかさむため」という理由により奨学金が打ち切られる(p.41) _(。_゜)/
・どうしても東京でまだまだ勉強したかった敬一は、金策のため+養父の病気のために一時平戸に帰郷するが、そこで待ってましたとばかり、許嫁の田村時子(当時16歳)と結婚させられる。家庭を持つ気がなかった敬一にとってはかなり不本意なことだったらしいが、養父母への孝行と思って我慢したらしい(p.43) これって時子さんの方が迷惑やがね…
・敬一は時子に「自分のへそくりで夫を立てた山内一豊の妻を見習え、自分の着物を質入れして夫の書籍を買った雲井辰雄の妻を見習え」という内容の手紙を送ってたそうです(p.47) 良妻賢夫人の押しつけ嫌ですヾ(^^;)
・明治16年7月に専修学校を優等で卒業、卒業者代表として講演を行う栄誉も得る。この時の講演内容は、当時の自由民権運動…というか政党政治を批判する内容だったらしい。敬一の理想は「哲人による政治」だったようだ。(p.49~56)
・松浦家からの援助がなくなった敬一は、紆余曲折の末に旧平戸藩御用達所(常平社)からの奨学金を得ることに成功(p.55~60)敬一は後輩の平戸出身学生達の指導に熱心で、彼らが寄宿舎としていた松浦家従屋敷の待遇が家従達の嫌がらせにより劣悪だったときには、学生を代表して交渉に乗り出し、いわれのない悪評を立てられたりもしたらしい(p.63~65)
・卒業後も更に専修学校の聴講生として法律やドイツ語の勉強を続ける一方、鎌倉円覚寺の今北洪川和尚について禅修行したり(p.67~72)、陸軍の演習を見学したり(p.72~75)遊学を続ける。
・そうこうしている間に、イギリスが朝鮮の巨文島を占領したり、それに対抗しようとしたロシアが日本に「対馬貸してくれや~」とやってくるし(日本も流石にこれは断ったようだ)、フランスがベトナムを占領して植民地としたり、日本と朝鮮の間にも軋轢が増えてきたり、海外情勢が緊迫化してくる。その中で敬一の関心は次第に海外情勢に向けられ、とりわけ「日本を守るためには朝鮮・中国をも一体化して対抗せねばならず、そのためには“鮮血の洗礼”をも辞さない」と主張するようになる(p.76、p.172~173)そして「そのためには支那に渡らねばならない」と思うようになる(p.79)
・明治18年12月、大阪の内外日報社という新聞社に就職。同窓生の多くが役人になる中で新聞社を選んだのは「士官学校に進んで軍人になるという道もあるが軍人になると政治に口出しできなくなる、また軍人が政治に口出しするというのは“武人政治”の弊害を招く物である。となると当分は民間にいて言論で活動するしかない」からだとか(p.78~79)
・…が、新聞社に就職はした物の、実際は郷里の長崎に帰って、鎮西日報社という新聞の買収を阻止する活動したりとか、それが終わった明治19年6月には今度は東京に行って商業電報社という新聞社の立ち上げに関わったりとか(p.82~88)、また九州にいるときには頭山満や佐々友房、宮崎民蔵(先述宮崎八郎の弟)等と交友を結んで、藩閥専制政府への対抗を誓う(p.92~96)とか、英学校を東京に作ろうとするとか(が、肝心の敬一が先述の鎮西日報社のために九州に行ってしまって頓挫したとか_(。_゜)/)郷里平戸の学校(猶興書院)の改革に熱を上げたり(p.99~103)とか、佐世保軍港の建設に平戸の士族が参加できるよう活動したり(p.104~108)…余りふつーの記者としての仕事してないような
・先述したように欧米列強に対抗するには清国との提携しかないと考えていた敬一だが、明治19年4月18日の天津条約の内容は、敬一を酷く失望させる物だったようだ。更に同年8月に長崎に入行した清国北洋艦隊一行が無礼を働いた事件は、「清国との平和提携」を考えていた敬一を180度「清国の武力滅亡→強制的に日本の属国にしてもアジアの大同連合へ」へと転回させることとなり、その実現のために以前から考えていた「支那への渡航」熱を一気に燃え上がらせることになる(p.124~130)
・明治20年10月、敬一は遂に清国への渡航を決意し、郷里の平戸に別れの挨拶にやってくる。これが生涯最後の帰郷となった。(p.183)
・明治20年11月20日、漢口(現在の武漢市)に着いた敬一は岸田吟香と荒尾精の経営する「楽善堂」と言う薬局に就職することに。最もこの楽善堂の本当の正体は清国の調査を行う諜報機関であった…。(p.184~186)
・明治21年、ロシアはシベリア鉄道敷設の計画を発表するが、これは敬一等「西欧列強のアジア侵略を危惧する人たち」にとっては当然飛んでもないニュースであり、その状況を偵察するため、敬一を新疆地区に派遣する計画が立てられる。(p.197~199)
・明治21年6月18日、敬一は北御門松三郎、河原角次郎と共に蘭州に向かう。が、先行組と蘭州で落ち合えず、この計画は失敗に終わる。(p.209~210)
・明治22年3月25日、再び敬一は今度は藤島武彦と共に新疆地区に向かう(が、前回の失敗のことがあったので、楽善堂でも反対する人が多かったらしい)。この時は弁髪にして中国人「宋思斎」を名乗って変装、西安(同年5月8日着、6月9日発)、蘭州(同年9月着)まで到着したが、ここで藤島が脱落(理由は不明)。敬一は一人で更に西に向かったのだが、その後連絡は途絶えた。(p.215~222)
・なお大正11,2年頃、岡野増次郎という人物が外モンゴルの阿羅善郡王と会見したが、その時に王は「年月は覚えてないのだが大昔、一人の日本人らしい男がここに来て一泊したことがあるのだよ。その男は“これから新疆に行くのだ”という。そこは大変危険なところだ、一人で行けば絶対殺されると私は必死に説得したのだが、どうしても聞かずに翌日ここを立っていったのだ」と語ったという(横田順弥氏解説p.5、元ネタは『東亜先覚志士記傳 下巻』)
・なお、昭和10年頃に「俺は浦敬一とビルマの豪族の娘との間に生まれた忘れ形見なんだよ」と名乗るうさんくさい人物が日本にやってきて篤志家の厄介になっていたが、その後上海に逃亡したという事件もあったらしい(横田順弥氏解説p.5、元ネタは『東亜先覚志士記傳 下巻』)
…以上長々と語って参りましたが、如何でしょうか。浦敬一という人物。
私はこの人はあと10年ほど早く生まれていたら、絶対平戸藩を脱藩して京に入って尊皇攘夷志士として大暴れしていた口だろうなと思いましたヾ(^^;)
しかし、浦敬一の養父母はどういう心境だったんだろうか。やっとの事でゲットした養子が「こりゃ頭の良い子だから無理してでも教育付けさせてやろう」と爪に火をともすようにして苦労してお金をつぎ込んだら、出世して親に楽させるどころか「御国のために命捨てます~」…って、本当に失踪してしまったんだから。えらいババつかまされたと思ったかも知れませんなー。そんな敬一さんと結婚させられた時子さんという女性はもっと災難だったのは間違いないでしょう(この本を見る限りでは、その後再婚せず、未亡人として長い余生を送られたようです)。
それにしても、こんなぶっ飛んだ、そして不幸な最期を遂げた人物に惹かれてしまった今田新太郎。
これこそまさしく今田の人生を予言していたような気がしてならない。
PR
Comment
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。