拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
大分前のエントリで「後でまた出すから」と言ってすっかり忘れていた物です(^^;)
こそこそと今頃出してみる(^^;)
まず、この田村真作と言う人物と、このコラム「石原莞爾の悲劇」については『文藝春秋』編集部側でこのような説明が付されている。
こういうコラムの中で、今田新太郎はこのように登場している。
ではまいる。
こそこそと今頃出してみる(^^;)
まず、この田村真作と言う人物と、このコラム「石原莞爾の悲劇」については『文藝春秋』編集部側でこのような説明が付されている。
本稿の筆者は元朝日新聞記者、後に繆斌氏を通ずる和平工作に挺進し、膨大な回想記を完成したが、本編はその中の石原莞爾氏に関する物のみを編集部に於いて抜粋した物である。確かに全体的に石原莞爾信者臭がすごくて、かなりつっこみ所がヾ(^^;)
当時の筆者の立場は、言うまでもなく東亜連盟論者であり、これは既に戦後の厳正なる批判の下に在り、その点、読者諸氏が十分に批判的に読まれることを希望したい。
かくも中国の民衆を愛した石原氏が、然らば何故に満州事変の口火を切り、日本軍の大陸進入の端を開いたか-本稿はこの点、何の回答も与えていない。
しかしながら、派閥抗争に終始した軍の内部に於いて石原氏の一派が、東条一派と鋭く対立しながら、それに圧倒されていく経路が生々と描かれ、所謂「道義は」と言われる軍の一部の物の思想的動きが、極めて鮮明にされている点に於いて、一つの戦争史の資料として興味ある物と信ずる。
こういうコラムの中で、今田新太郎はこのように登場している。
ではまいる。
先ず先に前回省略した箇所。
・参謀本部戦争指導班:稲田正純の話でも書いたが、「戦争指導班」という名前は世を忍ぶ仮の姿(ヲイ)であり、実際は経済計画ばっかり書いていた部署らしい。
・報知新聞:今じゃ巨人御用達のスポーツ新聞社だが、この当時は朝日、毎日に並ぶ一流紙だったらしい
・佐野増彦:畑俊六と仲良かったとか
私が今まで見た限りでは、今田が退職希望を漏らしたのはこの1回だけだと思う。真面目軍人・畑とも仲良かった佐野が今田を「日本にあんな軍人がいたのか」と評したのは興味深い。
このコラムにはもう一か所今田が登場する。
私は石原大佐を支持して中国侵略派と激しい対立を続けていた参謀本部戦争指導班の今田新太郎中佐を中野の自宅に訪問した。<補足>
絣の着物を着た今田は、エン側で庭の白梅の古木を眺めていた。
「俺は軍人を辞めたくなった。…もう参謀本部なんかに行きたくない…」
はき出すように言った。剣道の達人という彼がいつもの元気はなかった。
彼の父は漢学者であり、彼も又東洋道義についての古い教えを遵守していた。向こう意気の強い彼は、中国を侵略することに絶対反対を唱え、中国侵略派の徒党と渡り合ってがんばりつづけて来ていた。
だが、せきを切って落とされた中国侵略の濁流は、軍中央部を飲んで渦巻いていた。よし彼が一人どれだけ頑張ったとしても、結果はガラガラと音を立てて流れる濁流に一椀の清水を注ぐに等しかった。帰り道で同行した陸軍省詰めの報知新聞の記者佐野増彦が
「まだ、日本にあんな軍人がいたのか…」
と驚いていた。
『文藝春秋』1950年7月号 p.192
・参謀本部戦争指導班:稲田正純の話でも書いたが、「戦争指導班」という名前は世を忍ぶ仮の姿(ヲイ)であり、実際は経済計画ばっかり書いていた部署らしい。
・報知新聞:今じゃ巨人御用達のスポーツ新聞社だが、この当時は朝日、毎日に並ぶ一流紙だったらしい
・佐野増彦:畑俊六と仲良かったとか
私が今まで見た限りでは、今田が退職希望を漏らしたのはこの1回だけだと思う。真面目軍人・畑とも仲良かった佐野が今田を「日本にあんな軍人がいたのか」と評したのは興味深い。
このコラムにはもう一か所今田が登場する。
南京攻略戦が開始されようとしていたときであった。朝日新聞社の私の所に、まだその当時、参謀本部にいた今田参謀の所から突然に電話がかかってきた。すぐ来てくれ-とのことだったので、何のことかと思って中野の彼の自宅に出かけた。そりゃ確かに「何でわざわざ民間機を使うんだよ、どうして陸軍機を使わないんだよ」と思いますよね(^^;) どうも近衛文麿を隠密に連れ出すには民間機のほうが都合が良いという考えだったらしい。結局その近衛自身の一言で破綻するのだが。
今田参謀が黒い顔をいやにニヤニヤさせながら、いきなり、「おい、朝日の神風を盗み出せよ。俺が乗って南京に行く。南京に着きさえすれば後は何とかなる。」との話であった。神風は当時では優秀な民間機であったが、あまりとうとつな申し出ではあり、てっきりじょうだんとばかり思って相手にしなかった。単なる冒険とか、思いつきとかではなく、南京にいたドイツのトラウトマンとの間にも、ある程度の連絡がついていた本格的な筋書きだった。今田参謀と親交のある牛島辰熊氏も同行することになっていたらしく、その後彼と顔を合わせるごとに、「何故本気で聞いてくれなかったのか」と再三恨まれた。
上掲書 p.193
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