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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
何か前回のと似たような本からのご紹介になりますが
確かに「その当時に現場に居合わせた人間の証言」というところでそっくり。
但し今回紹介する『危ない昭和史』(光人社)は毎日新聞+読売新聞の記者で、戦時中は満州国情報部や防衛総司令部調査班勤務だったという岡田益吉の回顧録です。岡田氏は明治32年(1899年)生まれと言う事ですから、流石にもうお亡くなりになってられるかと。
ちなみに初版昭和57年4月7日。前のよりはマシとは言え、これも古い本になるかな(私としては昭和50年代はついこの間のようなゲフンゲフン)
流石に古い本だけあり、2mm弱四方の活字が2段組みでびっちり。読むの疲れました…

上巻と下巻があり、今田が出てくるのは下巻。
ではまいる。

さて、橋欣はやがてロシア班長に転じたが、彼が帰国した昭和4年の7月に浜口内閣が成立し、同年暮れからロンドン海軍軍縮会議が始まった。このロンドン条約についての紛争は、陸軍側にも強い刺激を与えた。橋本は、「ロンドン条約に成功した政党の魔手は次に陸軍に及び、陸軍軍縮になるは必然なり」ほか、政党排撃3ヶ条の上申書を建川美次第二部長に提出した。
建川は「そんな物は陸軍省へ持って行け」と言いながら、また「おい橋本、きさま、それを持って行くと、陸軍刑法第103条による軍人の政治意見公表に該当し、禁固3年だぞ」と注意したが、彼は「そんな覚悟はついている」と応酬したので、建川は、「それでは陸軍省調査班に行け。坂田(義朗)班長の下に田中(清)と言う大尉がいて、軍縮のことを研究している」と知恵を授けた。
田中大尉は、徴兵の実績調査から、社会問題に関心を持ち、マルクスの研究をはじめ、同僚の磯部秀人、池田純久(のち中将、統制派の中心人物)、四方諒二(憲兵として後東条陸将の腹心となり、中野正剛を峻烈に裁いて、中野を自決に陥れた)、今田新太郎(のち少将。これは少し別派で、石原莞爾の腹心であり、満州事変の直接下手人)らと研究会を開いていた。
p.42~43
<毎度恒例のあてにしないで欲しい解説>
・橋欣:橋本欣五郎の略。よるな危険。岡本曰く「一人の橋欣をどうにも制御できなかった陸軍の上層部がいかに権威なく、無能であったかも重大なる事実であった。」(p.42)
・浜口内閣:浜口雄幸内閣。経済政策の失敗から、最後は東京駅で暗殺未遂にあってしまう。ただし実際に浜口に引導を渡したのは、鳩山一郎(鳩山由紀夫の祖父)。
・建川美次:何回もご出演済みの満州事変留め男1号さん。
・坂田義朗:こういう人
・田中清:あの田中新一の弟。先述橋欣主催の桜会に参画して、三月事件という大騒動を引き起こした張本人らしい。今田とは陸大で同期。
・磯部秀人:未詳。誰か御教示お待ちしております。
・池田純久:統制派の代表的将校。と言うか「統制派」という言葉自体この人の作らしい。
・四方諒二:こういう人。確かに文中の補足とあわせてみても悪い意味でとんでもない人である。でも神戸一中(今の神戸高校)出身と言うことは、あの村上春樹の先輩…
・中野正剛:こういう戦前の悲劇の政治家
大蔵の著書によれば、昭和8年11月16日、幕僚側と少壮将校(尉官級)が最後に決裂した偕行社の会合に出席した者は、佐官級、中佐-牟田口廉也(蘆構橋事件の指導者)、土橋勇逸、下山琢磨。少佐-池田純久、田中清、片倉衷、今田新太郎。尉官級、大尉-柴豪雄、常岡滝雄、目黒茂、山口一太郎、大蔵。中尉-磯部浅一。
大蔵の記憶によれば、牟田口中佐が発言して、陸軍部内の大同団結を強調し、青年将校の行動を抑制しようとするものであった。のっけから大蔵等の言い分を聞こうとする態度ではなかった。すべてが高圧的であった。「これでは話が違う。おい、大蔵帰ろう」と、柴大尉が憤然として立ち上がった。その間20分ぐらいだったという。
大蔵の記述によると、この会合は11月6日から始まったので、最初の会合は満井佐吉、馬奈木敬信、例の辻政信、憲兵の塚本誠(前記二人は片倉衷と共に、後、11月事件をでっち上げた張本人)が出席した。この会合は全く呉越同舟と言うより、敵味方が真っ正面から対座したようなもので、はじめからまとまるものではなかった。これが最後となって、2.26事件まで血で血を洗う両派の抗争を生んだ歴史的なものであった。
p.43~44
<またまたあてにしないで欲しい解説>
・大蔵:大蔵栄一。『二・二六事件への挽歌―最後の青年将校』著者。池田純久を罵倒しているらしい。
・牟田口廉也:インパール事件関連で有名すぎて書くことない。蘆構橋事件では、実は独り相撲取ってたという説有り。
・土橋勇逸:こういう人
・下山琢磨:こういう人
・片倉衷:今まで数え切れないほど出演した人 拙ブログ参照 この辺とかこの辺辺り
・柴豪雄:詳細未詳。多分皇道派。
・常岡滝雄:皇道派将校 参照こちら
・目黒茂:詳細未詳。多分この人も皇道派。
・山口一太郎:皇道派将校。舅はあの本庄繁(元関東軍司令官)。
・磯部浅一:2.26事件の首謀者。有名すぎて書くこと無い。
・満井佐吉:皇道派。陸軍大学教授。のち、永田鉄山殺人事件の犯人・相沢三郎の弁護人となる。
・馬奈木敬信:こういう人
・例の辻政信:辻ーん。有名すぎて書くこと無い。「例の」と冠詞まで付いてる。
・塚本誠:こういう人
つぎに満州事変の計画者は、石原の理想主義型の他に、まだ二つの系統があったことを是非のべておきたい。
第二の計画者は、陸軍中央部にいた陸軍大臣南次郎、陸軍次官杉山元、軍務局長小磯国昭、参謀次長二宮治重、同作戦部長建川美次など、後年『統制派』といわれた連中であったことは、まちがいない。
(中略)
第三の計画者は、河本大作予備大佐であった。私は昭和16年の7月、大連市南山の麓にある彼の広壮な邸宅の応接間で、この風雲児河本大作とさしで会談したとき、彼は、こちらから聞きもしないのに、淡々として張作霖爆死事件の真相も、満州事変のことも、きわめて露骨に話してくれた。
彼の直話によれば、9月18日にやることは板垣も石原も知らず、本庄関東軍司令官が初度巡視を済ましての帰路、食堂車に板垣と石原を呼んで、「今夜いよいよやる」と言ったという。
そこで、河本と板垣だけは途中下車し、石原はそのまま旅順に帰った。柳条溝爆破は、今田新太郎大尉がやったことは今日あきらかになっている。河本の話すには、「張作霖の場合、民間浪人をも使ったので、機密が民政党の中野正剛等に漏れて、議会の問題となったので、今度は現役軍人だけでやった」本庄軍司令官は翌年の三月、河本が本庄に告白するまで知らなかったと言っていた。
p.64~65
<まだまだいい加減な解説>
・石原の理想主義型:石原莞爾がいわゆる「最終戦争論」に基づいて満州事変の計画を立てたのは有名な話。
・南次郎:岡田は満州事変首謀者としているが、事実は全く何も知らず、板垣+石原に振り回され続けたのは有名な話。
・杉山元:上記に同じ。「ゆる元」。優柔不断。終戦時の対応は奥さんの方が立派だったという…。
・小磯国昭:この後関東軍参謀長となり、それまで満州国の政策を牛耳っていた協和会(山口重次や小沢開作が所属していた満州青年連盟の後継組織)と対立。
・二宮治重:こういう人
・「張作霖の場合、民間浪人をも使ったので~」:柳条湖事件でもいわゆる民間浪人(大雄峰会の片岡駿と奥戸足百)を使ったのは以前書いたとおり。
…現在の研究とはかなり違う見解で、多分河本大作のビッグマウスに騙されたんではないかと(^^;)>岡田益吉
それにしても昭和16年の取材当時は満州事変のイメージはそんなに悪くなかったはずなので、自ら(嘘と真を混ぜながら)ぺらぺらしゃべった河本は、はっきり言って自慢のつもりだったんでしょうな。しかしこんないい加減な奴の妹とよく結婚する気になったものである>多田駿
中村大尉事件が起こったときも、参謀本部は、早くも関東軍の出動を要求してきたが、陸軍省は同意しなかった。陸軍省の中枢にいた鈴木貞一でさえ、満州事変が日本側で行われたことは全く知らなかったという。リットン調査団が来日したときですら、半信半疑であった。
その後、今田新太郎大尉(満州事変の実行者)から、その真相を聞いたというから、完全に機密が保持されていたのである。
p.87
鈴木貞一と今田の関係についてはこちら
関東軍が、いつ満州事変を発意したのか。それは昭和4年5月2日、関東軍司令部が大連星ヶ浦で満州各地の特務機関長を集めて情報会議を行った。板垣高級参謀、石原作戦参謀をはじめ、秦真次(奉天)、林大八(吉林)、花谷正(奉天)など特務機関の幹部が出席した。
この席上、「今度支那側の挑発行為があったら、軍は全面的に軍事行動を起こし、一挙に満州問題を解決する」との断を下したのであった。
(中略)
いずれにせよ、5月の星ヶ浦会議こそ満州事変の発端であったが、いまだいつ決行するかと言うことは決定していなかった。その頃、欧米から帰任の途にあった田中新一(太平洋戦争開始当時の作戦部長)が、旅順に石原中佐を訪ねたとき、石原は田中に、「自分はやがて大佐に昇給すると関東軍を去ることになろうが、その後は、君が関東軍に来て満州問題をかたずけてくれ」と頼んだというから、そのころは事変の時期は見通しがなく、石原にしてもあんなに早急に起こるとは予期していなかったらしい。
ところが、翌昭和5年、軍事課長永田鉄山は支那課長重藤千秋を伴って北支を視察し、満州にも立ち寄った。そのさい、石原は、関東軍の人事について、永田課長に人物の入れ替え、および増員を依頼し、6年8月の異動で奉天特務機関長に、『支那のローレンス』といわれた土肥原賢二大佐、独立守備第二大隊長に島本正一中佐(事変の際北大営を占拠)、張学良顧問に今田新太郎大尉(柳条溝爆破の当事者)などが任命された。
p.88
<あてにならない解説>
・秦真次:皇道派幹部。花谷正に「こんにゃくオヤジ」呼ばわりされていた話はこちら
・林大八:こういう人。満州事変直後の第1次上海事変で戦死。
・田中新一:有名すぎて書くこと無いが、日中戦争から太平洋戦争まで終始好戦派で通し、この後石原莞爾と武藤章をぶっつぶしたのは有名かと。でも東京裁判では東條英機との不仲が有利に働き、お呼びすらかからんかった。
・重藤千秋:こういう人
・土肥原賢二:有名すぎて書くこと無い。東京裁判のA級戦犯(死刑)。最も土肥原がやったと言われることの大半は実は花谷正とか田中隆吉の所業だったらしい(片倉衷談)。昭和6年8月に奉天特務機関長に異動したのは事実のようだ。
・島本正一:最終階級は中将。石原莞爾の陸軍大学同期(30期)。ただ島本は柳条湖事件の陰謀自体は知らなかったという説の方が有力。
・張学良顧問に今田新太郎大尉などが任命された:今田の公式任命時期は昭和6年5月。参照拙ブログこちら
私が新京に赴任した直後かと思うが、時事新報の長谷川新一君が新京に視察に来たので、私は当時、満州国軍政顧問であった今田新太郎少佐(石原莞爾直系)の所へ、同君を連れて行って紹介したときすら、今田は、「支那人には行政能力がないよ」と極言したので、私も意外に感じた記憶がある。今田としては、満州国を日本が樹立した理由として説明したのであろうか。
p.110~111
この発言、岡田益吉にとっても意外だったようだが、私も意外。
ちなみに石原莞爾は満州事変直後に満州青年同盟のメンバーなどが引っ張り出してきた満州人の活動が結構だったことから、当初の「満州占領」論を放棄している。
時とともに、東條の人気は落ちていった。『東條暗殺事件』というのがある。これは石原が直接関係はしていないが、東亜連盟の牛島辰熊(柔道家)と、石原直系の今田新太郎少将の筋を引く津野田少佐が首謀者であり、浅原健三、加藤完治等一連の石原陣営の者が企画しているので、やはり石原、東條の戦いと見ていい。
p.218
<あてにしないで欲しい解説>
・牛島辰熊:何回も出演した、最強の柔道家・木村政彦の師匠。牛島本人も強い。
・津野田少佐:津野田知重。拙ブログ参照。
・浅原健三:拙ブログ参照
・加藤完治:満蒙開拓移民を東宮鉄男と組んで推進した首謀者。人格的には立派な人だったようなんだが、開拓移民の結果がああだったので、評価は相反するところ。移民用の土地に原住民の土地を買いたたく案を提案し、石原莞爾に罵倒されている。
※なお、この後昭和63年(1988年)に津野田知重の兄・忠重が東條暗殺事件の真相を暴露する本を上梓したが、それによって加藤完治は全く関わりがなかったことが明白となっている。



今田の関係記述は以上です。
結構知られてないエピソードが多かったかと。でも岡田さんは割とガセネタもつかまされているような気がしてならない(^^;)

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