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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前回までの話は
予想していたが、予想以上に文量が多い_| ̄|○
もう少しおつきあい御願い致します。
この後は今田関連の話がかなり多い…はず?

ではまいる。

拍手[2回]


戦後になってニューギニア戦線から復員した今田新太郎と浅原傑さんは面会する機会があった。今田はこんな内輪話を語って聞かせた。
「浅原からの頼みだったから、ああやったのだが、浅原の国体観念を疑う」
今田はそう言い放つ辻に対して
「僕の親友に対して、なんということを言うのだ」と怒鳴りつけたという。
p.236~237
この話は今までどんな本にも出ておらず、この本が初出だと思う。
「浅原からの頼みだったから、ああやった」というのは、浅原健三が日本追放後、上海で事業を展開した際に支援を受けた浙江財閥の周作民という人物が一族ごと憲兵隊に拿捕された際、浅原があの辻政信に依頼して、辻が憲兵隊司令部を機関銃を積んだトラックや戦車で包囲して無理矢理釈放させたという一件のことを指す。ただいかにも辻ならやりかねないこの逸話は他の史料では確認できないようだ。
しかし、この今田の話は非常に、非常に、興味深い。今田は昭和21年12月に復員、昭和24年8月29日に亡くなっているので、浅原傑氏が今田に面会しているのはその間という事になるのだが、実はこの時には辻政信は失踪して日本にはいないという事になっているのである。実際は昭和23年に極秘帰国していたのはこのエントリ参照。今田を辻が訪ねたタイミング、そして上記の今田が浅原傑氏と面会したタイミングが時系列でどうなっているのかがはっきり確認できないので明言できないのだが…もし上記の通りの会話を今田と浅原傑氏がしていたとするなら、浅原傑、そして浅原一家はその後辻政信に対して警戒感をもって迎えたのではないだろうか。そして、今田の狙いが「もしかしたら辻が浅原一家を頼ってくるかも知れないが、こんな事があったから気をつけろよ」という意図を秘めた一言だったとしたら…
ところで、昭和16年の早春、田川の浅原家を訪れた一人の軍人がいた。浅原の親友であった今田新太郎である。第36師団の参謀長に就任し、中国大陸に渡ることになったため、浅原の家族に別れの挨拶に来たのである。
軍服に身を包んだ今田は、家の向かいにあった小山に登って、しばらく筑豊の炭鉱地帯を見渡していたという。
二女の革世さんにはこの時の記憶が鮮やかに残っている。大正15年生まれの革世さんは、この時15歳で、病気治療のため、京都の女学校をやめて、田川にあった実家に戻っていた。筆を執った今田のために、革世さんは墨をすった。浅原とはまるで兄弟のような関係であるという心境を今田は漢詩文で書いたという。
p.240
これも恐らくこの本が初出のエピソード。
ところで、浅原傑氏は検索してもよく分からないのだが、革世氏は日本人形コレクターとしてすごく有名な方らしく、まだご健在のようだ。大正15年(1926年)生まれと言うことは…今ご健在なら87歳?今田の漢詩文残ってるかどうか非常に気になる…。
陸軍内部においても、東条内閣を打倒する計画がひそかにすすめられていた。大本営参謀の少佐・津野田知重による東条暗殺計画である。
この事件については、後に連座して投獄された浅原自身が、敗戦の翌年になって証言し、話題になった。津野田の兄・忠重によっても、昭和60年に『わが東条英機暗殺計画 元・大本営参謀が明かす「四十年目の真実」』(徳間書店)として出版された。
最も浅原は、もともと津野田とは面識がなかった。仲介したのは今田新太郎である。今田は中国・山西省にいた第36師団の参謀長を務めていたが、昭和16年12月に津野田が部下として配属されてきた。
その今田から津野田は、
「上海にいる浅原健三という男は、石原閣下の盟友だった男だ。面白い男だぞ」と聞かされていた。
津野田の父・是重は、日露戦争で、乃木将軍とロシアの将軍ステッセルが会見した際に軍使をつとめた名高い軍人で、津野田自身も陸軍士官学校を首席で卒業したエリート軍人であった。
昭和18年6月に津野田が支那派遣軍参謀に転属になると、今田は南京に向かう津野田のために、浅原への紹介状を書き与えている。だが、津野田はなかなか浅原に会う機会がなかった。
その今田も11月になると、参謀長としてニューギニアに向かうこととなった。反東条であった今田を最前線の激戦地に送り込む意図的な人事であったと言われる。今田自身もそこで死ぬであろうと覚悟を決めていた。ニューギニアに向かう途中で、今田は上海に一ヶ月ほど滞在した。浅原の口述原稿はこう記している。
「山西の山奥から一個師を率いて上海に出て来た。今田少将は約1ヶ月滞留した。彼もまた太平洋戦争は必敗と見、ニューギニアでは既に万死を覚悟していた。しかし、素朴な彼の憂国心は”東条打倒”のみが日本に残されている唯一の活路だとかたく信じ、常に”東条斬るべし”と公言してはばからなかった人である。東条もまた、彼を憎むこと仇敵のごとく、すでに昭和13年末以来-広東、山西、ニューギニアと奥地師団の参謀長にのみ押し込めて、内地へは決して還えそうとはしなかった」
上海で浅原は今田を歓待した。激戦地に向かう今田の兵隊達のために、浅原は上海中の鯛を買い占めて、兵全員にふるまったともいわれる。
フランス租界近くにあった私邸では、ひそかに今田の壮行会を開いた。東京からは柔道家の牛島辰熊も駆けつけてきた。牛島は石原が提唱する東亜連盟運動に取り組んでおり、今田とは義兄弟の契りがあったという。
「牛島は眼光こそ炯々たれ童心そのもののような男で、死地に赴く今田少将と今生の別れを告げるために、わざわざ東京から馳せつけて来ていたのである。」(口述原稿)
津野田も今田の人事を知って、急ぎ南京から飛んできて、毎日のように今田のもとに通っていた。津野田はこの時浅原に会った。上海の浅原邸で、今田を囲んで浅原、牛島、津野田が語り合う日々がつづいた。
p.241~243
以前、このエントリでも書いた話の重出になってしまいますが、津野田側の話と浅原側の話はほとんど一致しているようです。しかし、日頃から「東条打倒」ならまだしも「東条斬るべし」って公言してたのか>今田 よく暗殺されなかったな…その代わりニューギニアで死ぬよりつらい目に会わされたけど…
石原莞爾も終戦の年の11月、別府を訪ねてきた。
昭和13年以来、7年ぶりの再会であった。その時話題になったのが、近衛文麿論であった。
二人は昭和12年の廬溝橋事件の際にも、近衛の人物評について語り合ったことがあった。石原と浅原で事件の不拡大工作に奔走していた時期である。当時の首相が近衛であった。
「近衛のブレーンはスマートでインテリだ。そういう袈裟衣にみんな幻惑されている。私は近衛を買えない。徹頭徹尾、買わない」
昭和12年に浅原は厳しい口調で繰り返し言ったが、石原は遠くを見ているような様子で、「そうかなあ」と反論した。
「君、そういうことを言うけれども、どこに近衛に名誉欲があるんだ。名誉欲がない総理大臣という物は、非常にいいんだ」
「近衛ぐらい名誉欲の強い人はないと思うんですが…」
「なぜだ。どうして…」
浅原の反論に石原はいぶかしそうな顔をした。
「それは自分の家系は、天子様の次だと思っているんだから、これほどの名誉欲はありゃしません。だから、これを傷つけるようなことは、彼は絶対しませんよ。事なかれ主義ですよ」
「へえー」
石原はなおも納得しないような表情で浅原を見つめるだけだった。
浅原はその時有馬頼寧から聞いた名公卿論をふと思い出した。たしか有馬は「近衛君は名公卿の典型だよ」と意味ありげに笑った。その顔を思い浮かべながら、浅原はこうも言った。
「近衛という人は、昼は衣冠束帯を着て、夜は裸踊りをする人だと思いますよ。公卿というものは、そんなものですよ。われわれのような裸一貫じゃないんだ。衣冠束帯しているんだから」
「それは君、皮肉っとる」
石原は浅原をたしなめた。
「君でも僕でも貧乏して暮らしてきているから、そういうような皮肉は反省しなけりゃならん。とにかく、あれは利用価値があるよ」
「閣下が利用するのはいいですけど、向こうの方が上手ですよ」
あくまで浅原は、近衛を信用してはならないと釘をさしたが、歴史は事実、そう動いていった。近衛の優柔不断さが泥沼の戦争に引き込んだ一面は大きい。
七年ぶりに石原と再会したとき、廬溝橋事件にまで話は及び、石原は「近衛の件はどうも、君の方に軍配が上がったようだなあ」と苦笑した。
「そうですね」と、浅原は答え、二人で笑い会った。ただ、ある瞬間、
「卑しい奴だ」と石原がぽつんと漏らした言葉を浅原は聞き逃していない。
p.279~231


『反逆の獅子』の主な今田関係文は以上です。今田に関係ない話の方が多かったか(^^;)

まあ、この浅原健三という人は化け物みたいな人で、何回も刑務所にしょっ引かれ憲兵にしょっ引かれているのですが、出所する度にドンドン大きくなっていってるという怪物のような人です。が、表紙に載っている写真を見るととてもそんな風には見えないスマートな感じでかなり拍子抜け。ともかく、戦前~戦中の政治史に興味をお持ちの方には一読お奨めします。
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今田と鯛
今田さんと鯛の話はよく聞かされました。今田「浅原おまえ上海でお金もうけたらしいな 俺の為にそのお金使ってくれんか」浅原「どうぞお使いください」そこで、今田さんがろくな食事していない一万五千の兵隊達のために、上海中と本国の鯛を買い集めて、兵全員にふるまったと お聞きしています。部下はすごくうれしかつたそうです。今田さんはすごく部下思いかと・・・・。
コメント失礼します。 2013/09/28(Sat)18:32:24 編集
最期の晩餐?
初めまして、でしょうか。
文章の内容から察するに、ご親族が雪部隊(第36師団)の関係者の方とお見受け致しました。

鯛の馳走の話ですが、どうも刊行されている資料では、この本にしか出ていないようです。浅原のアイデアのように書かれていましたが、今田の発案だったのですね。

実は、雪部隊に関しては他の本を入手して読んでいるところですが、今田は部下から見ると「おっかない参謀長」だったようですね。
あと、ご存じとは思いますが、雪部隊はこの後食糧難で塗炭の苦しみに遭いますが、そのなかでこの鯛料理が文字通り最期の晩餐となった人も多かったことと思います。

大変貴重な体験談をご披露して下さり、本当にありがとうございました。
雪部隊の話はこれからまた紹介する機会があると思います。またご意見下さればありがたく存じます。今回はコメントありがとうございました。
ばんない 2013/09/29(Sun)02:05:59 編集
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