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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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8月10日はヤドンの日!ヾ(^^;)

気を取り直して
前回までの話はこちら  です。



実は藤原永手が12年間干されてた理由の検証にこんな事もしようとしていた。
「永手は干されてたので結婚もできなかった?!」

と言う事で調べ始めたんですが…
昔の人って生年が分からないことが多い、と言うか分からない方が普通なので難航。

また今回もややこしい話になりそう。ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。


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※タイトルを「藤原鎌足(中臣鎌足)」としているのは、『日本書紀』によれば死ぬ前日に鎌足が”藤原”という姓をもらったとしているから、つまり「藤原鎌足」という名前を一瞬しか名乗ってなかったからです
鎌足自身はあの世で「藤原鎌足って言われても違和感あるある~」と思っているかもね(^^;)


…さて、タイトルのお話。人によっては「何でそんな今さらな話を」と言われそう(^^;)
実は先日『藤原氏の研究』(倉本一宏著 雄山閣)を読んだときに、倉本さんが結構ページ数を割いて藤原(中臣)鎌足と息子の不比等の墓の場所がどこにあるのかというのを史料からのアプローチで検討していたのだが、
結局結論は「よく分かりません」_(。_゜)/ということに。

こんな結論になるのは、「残っている史料に書いてあることが無茶苦茶だから」と言うことに付きます。
史料では鎌足の墓をどう書いているのでしょうか。
「鎌足墓と摂津三島の阿威山」(森田克行 『藤原鎌足と阿武山古墳』所収)の紹介を参考に時系列で列挙してみます。

・669年(天智8年)10月6日「辛酉(=10月6日)、藤原内大臣薨」「日本世紀曰く、内大臣春秋五十にして私第に薨せぬ。遷して山の南に殯す」(「日本書紀」)
・760年(天平宝字8年)頃「薨于淡海之第」「以庚午(=670年)閏9月6日、葬於山階精舎」(「大織冠伝」)
・858年(天安2年)「贈太政大臣正一位藤原朝臣鎌足」(「日本三大実録」)
・877年(元慶元年)「贈太政大臣藤原氏」(「日本三大実録」)
・884年(元慶8年)「贈太政大臣正一位藤原朝臣」(「日本三大実録」)
・927年(延長5年)「国史、並びに貞観式に云う大織冠の墓云々という、今の文は、已でに式に違い誤りなり/多武峰は贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣の墓なり」(「延喜式(諸陵寮)」)
 ※(注)「国史」とは「日本三大実録」、「淡海公」とは鎌足の次男・藤原不比等のこと

一番古い「日本書紀」では「山の南」とは書いてくれている物のどこの山か書いてないし
次に古い+曾孫(藤原仲麻呂)が関わった「藤氏家伝(大織冠伝)」では「山階精舎(※現在の京都市山科区に建てられた鎌足の菩提寺。最終的に奈良に移転して現在の興福寺になる)」と具体的な場所を書いてくれていますが、これについては
「この時代に寺院に埋葬する例はない」
(「阿武山古墳の石槨の構造と年代」白石太一郎 前掲『藤原鎌足と~』所収)
と言う疑問があります。
その後が100年近く飛んで平安中期の史料「日本三大実録」になるわけですが、この3件はすべて「十陵四墓」という天皇にとって重要+近親の10の天皇/皇后の墓と外戚4つの墓に重大事があったときに供物を捧げるという儀式に関わる記述で、その外戚4つの墓の中に「多武峰墓」というのが必ず登場しています。ところが上記で分かるようにこの「多武峰墓」は「贈太政大臣」「藤原氏(藤原朝臣)」の墓であるという点では共通しているのですが、鎌足は「贈太政大臣」ではないという矛盾が…。むしろ「贈太政大臣」の藤原氏、かつ「日本三大実録」3件のうち2件で明記されている「正一位」の藤原氏と言えば鎌足の息子・不比等しかいません。
ところが不比等の墓については、後世の史料になりますが「公卿補任」に「十月八日戊子火葬佐保山椎山岡。従遺教也。」と書いてあり、事実、佐保山には聖武天皇陵やら光明皇后陵やら奈良時代の貴顕の墓がたくさんあるので、平城京移転の首謀者とも考えられる不比等の墓がこの辺に作られるというのは妥当なところと考えられます。
この「日本三大実録」の記述については早くから疑問が上がっていたようで、あの本居宣長も『古事記伝』で「天安2年条の“鎌足”というのは後世の人の追記だろう」としているそうです(森田前掲論文 p.91)。

それじゃ、平安時代に当時の朝廷がせっせせっせとお供物をお供えした多武峰って何もない空の場所をお供養していたのか?…と言うことになるとそうでもないようで、「日本書紀」斉明2年(656年)条で「両槻宮(ふたつきみや)」という軍事施設が建てられたこと、「続日本紀」大宝2年(702年)条で両槻宮修繕の話が登場し、奈良時代の初め辺りまでは存続していたらしいことが伺えます(「中臣鎌足と中大兄皇子」和田萃 前掲『藤原鎌足と~』所収)。ただ、両槻宮は離宮っぽい軍事施設であって、墓でもなければ藤原氏関連の場所でもない罠(^^;)
この後、多武峰が登場するのは約150年経った平安中頃。先述の「日本三大実録」の問題の記述になります。
その次に登場するのはまたまたそれから約100年後。このころ「次期摂政じゃないか?」ともいわれていた右大臣・藤原師輔という人の子供に藤原高光という貴公子がいたのですが、将来を約束されていたにも拘わらず、世をはかなんで突如出家してしまい、この多武峰に籠もってしまいます。962年頃のことのようです。何で京都をはるか離れた多武峰に籠もったかというと、先述の「日本三大実録」に書かれた「贈太政大臣藤原氏」の墓があったからと推測されます。ただ、この時高光が師事したのが天台宗の僧侶だったことが後述する興福寺(ちなみに法相宗)との対立の原因になります…。
さらに200年ほど経つと、その頃には先述の高光が籠もった地に大寺院「多武峰寺」(現在の談山神社)が成立していました。この多武峰寺、平安後期から鎌倉時代にかけて、大和国の権益を巡って興福寺と文字通り血みどろの戦いを繰り広げることになります。その頃に登場した史料が多武峰寺の歴史を綴った「多武峰略記」(1197年(建久8年))です。この史料については森田氏が詳しく紹介していますが(『藤原鎌足と~』p.93)、著者の静胤は多武峰寺の27代検校であり、藤原兼実(九条兼実)昵懇の僧侶でした。
-実は、「阿威山に藤原鎌足の墓がある」という話は、この「多武峰略記」で初めて登場する話なのです。
森田氏は
(飛ぶ鳥を落とす勢いの)兼実は、藤原氏の棟梁として『三代実録』の天安2年の「多武峰に鎌足を葬った」とする誤った写本の記事を鵜呑みにする形で、多武峰に鎌足の墓を作ろうとして一連の行動をしたと考えれば、うまく辻褄が合うのです。p.92-93
…と兼実の作為があった可能性を指摘しています。
私は摂関家のトップを争う兼実の意図の他に、多武峰寺側の事情もあったと考えます。この頃、先述のように多武峰寺は興福寺と権益を争って血みどろのバトルを繰り広げていました。その中で「飛鳥時代からの藤原氏の氏寺」という歴史を誇る興福寺に対抗するために「藤原氏初代の菩提寺」と自らを格付けしようとして、兼実と共同で工作を行った可能性が高いのではないでしょうか。実は高槻市のすぐ隣/茨木市に「将軍塚古墳」という「藤原鎌足の墓?」という伝承を持つ古墳がありました。実際の所鎌足が死ぬより大分前の古墳なので可能性は0なんですが(^^;)、前掲書掲載の森本氏の話に依れば、近年まで藤原氏末裔がこのお墓参りをしていたそうです。但し墓参りをしていたのは九条家の関係者だけ。これも「多武峰藤原鎌足墓説」の工作に九条家が関わっていた証左になるかと思います。
…なので、「多武峰略記」の記述をまるっと真実とした水野正好氏(「阿武山古墳と中臣氏・藤原氏」前掲『藤原鎌足と~』所収)には同意できません。ごめんなさい(^^;)ただ、多武峰の墓が鎌足の墓という事については疑問が大きいのですが、だからといって阿武山古墳が藤原鎌足の墓と断定できる証拠が揃ったわけでもないわけで…。

結論 やっぱり鎌足の墓はどこにあるか分かりません_(。_゜)/

倉本氏ほどの碩学が「分からない!」とさじ投げた物が、鳥頭の私に解決できるはずがないのであった。スイマセン、無茶な事してf(^_^;)


<追記>
ただし、高槻市のこの辺が藤原氏と縁がないかというと、それは全く逆でして
・「日本書紀」大化前代条で鎌足が「神祇伯なんて先祖伝来の仕事は嫌」と逃げて籠もったのが摂津国三島の別業。
・「日本後紀」延暦11年条「摂津国島上郡にある(中略)贈太政大臣正一位藤原朝臣不比等の野67町、贈太政大臣正一位藤原朝臣房前の野67町、故入唐大使贈正二位藤原朝臣清河の野80町(後略)」
・「扶桑略記」寛平元年12月2日、陽成上皇が嶋下郡にある備後守藤原氏助の宅を御在所とした、と言う記事がある(ちなみに氏助は藤原蔵下麻呂の曾孫(式家))
また先述の藤原(九条)兼実が書いた日記「玉葉」の文治4年(1188年)1月11日条には今回の問題とも関わる「摂州宿に赴き本所を始む(註)宗頼朝臣領安井(=阿威)庄内、構方丈庵室、為本所、彼朝臣所経営也」と言う記述があるのですが、この中に出てくる「宗頼朝臣」というのは葉室宗頼のことで、やはり藤原氏の末裔の一人でした。
なので、先に「「多武峰略記」の記述をまるっと真実とした水野正好氏には同意できません。」とは書いた物の、「阿武山古墳の被葬者は鎌足の父/中臣御食子(みけこ)」という水野氏の説はそれなりに可能性があるのではと思います。ただ、その元になっている史料の使い方がまずいヾ(--;)

あ、ところで今気が付いたが、
「むしろ「贈太政大臣」の藤原氏、かつ「日本三大実録」3件のうち2件で明記されている「正一位」の藤原氏と言えば鎌足の息子・不比等しかいません。」
…と自信たっぷりに断言したが、後2人。藤原武智麻呂と房前兄弟がいたヾ(--;)
ただ、武智麻呂の墓に関しては奈良県五條市の「後阿施墓」で確定しています(先述の「延喜式」で書いてあること、菩提寺の栄山寺が墓の山裾に存在すること)。房前は史料に墓のことが全く書いてないので、現在の所墓所不詳。阿武山古墳が房前の墓!…の可能性は0%ですが_(。_゜)/(だって阿武山古墳の遺体は火葬されてないし…)もしかしたらうっかり多武峰に房前の墓がある可能性は0.01%ぐらいはあるかも???誰か山狩りしない?ヾ(--;)

それと以前から気になっていること。
談山神社に伝わっている鎌足の肖像画、鎌足の右下に小さく長男・定慧がいて左下にこれまた小さく次男・不比等がいると言うお決まりの形式。藤原仲麻呂(恵美押勝)が書いた「藤氏家伝」と構成が一緒なんだよな…(「大織冠伝」(鎌足の伝記)の付録として貞恵(定慧)伝と不比等伝が付いてくる(なお不比等伝は現在の所未発見))とぼそっと付け足しに書いてみる(謎)。

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『尊卑分脈』の「藤原永手」の項目にはこんな事が書いてある
号長岡大臣
最初、私は「なんか変なこと書いてあるなあ」と思ったわけです。
というのも、古代日本で「長岡」と言えば長岡京、ところが永手は長岡京遷都(延暦3年(784年))からかなり以前の宝亀2年(771年)に既に死去。どうして関連のない場所を頭に付けて号されたのか、謎でした。

ところが、先日「飛鳥の大原」の話を探しているときに、偶然『続日本紀』にこんな記述を発見。
天平神護元年(764年)10月14日条「車駕、巡歴大原・長岡。臨明日香川而還。
どうも飛鳥(明日香)にも「長岡」という場所があったようです。
しかも、藤原氏縁の地・大原の近所だったようで、この「長岡」が永手の号の起源になったと見て間違いないのではないかと思います。

さて、現在も明日香村に「長岡」はあるのでしょうか?
と言うわけで早速検索してみたのですが…どうも「長岡」という地名はないみたいです_(。_゜)/ 同名のバーバーはあるようだがな!_| ̄|○

しかし、一つ気になる地名が。明日香村岡
どちらかというと古代史マニアより、仏閣巡りor厄除け大好き老々男女ヾ(^^;)に人気のある場所かも。と言うのも、ここには「日本最古の厄除け寺」と言われる岡寺があるからです。
上記のリンクで見られる地図でも分かるように、大原こと現明日香村小原にも隣接しています。
そしてもう一つ気になる話が。先述の岡寺の伝承では「岡宮」という宮殿を譲り受けて寺としたとしているのですが、この宮殿に住んでいたのが、天武・持統天皇夫妻の一人っ子である草壁皇子で、彼は「岡宮天皇」と言われ一方では「長岡天皇」とも言われていたようです(※同時代史料には出て来ませんが、検索してみると「神皇正統記」とか一部の系図に出てくるようです)。
…つまり、明日香村岡=岡宮=長岡 と考えられるかと。

そうかあ、永手の「長岡」というのは山城国の長岡京じゃなくて、飛鳥の長岡だったのか。
大原(小原)に隣接したこの地に、別邸でも持っていたのかも知れません。それは鎌足→不比等→房前…と相続された物かも、と勝手に妄想広げてみる(^^;)

ところで…実はもう一人「長岡大臣」と言われた人がいるのだが。
それは永手の甥(弟・八束の三男)の内麻呂で、「後長岡大臣」と言われていたらしい(『尊卑分脈』)
こちらの「長岡」は長岡京の長岡だと思っていたのだが、違うんだろうか?新たな謎が出て来てしまった…。



拙ブログ関連ネタこちら

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といっても、超有名な京都の三千院とか寂光院とかベニシアさんご在住のヾ(^^;)方ではございません。

実は奈良県の明日香村にも「小原」と言う所がありまして。 ※地図こちら
「それって”おおはら”じゃなくて”こはら”だろ」
…確かにごもっともですが、なぜか昔から「小原」と書いても「おおはら」と呼んでいたという。
ここは『万葉集』にも出てくる藤原氏縁の地として有名でした。
天皇、藤原夫人に賜ふ御歌一首
我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後
藤原夫人(ぶにん)の和(こた)へ奉(たてまつ)る歌
我が岡のおかみに言ひて降らしめし雪の砕けしそこに散りけむ
(万2-104)
現在も「藤原鎌足の産湯の井戸」とか、「鎌足の母・大伴夫人の墓」など真偽不明なれどヾ(^^;)いろんな史跡が残っています。

さて、この藤原氏の故地ですが、都が藤原京から遠く離れた奈良の平城京に移った後はどうなってしまったんでしょうか?
-実はこれが全く史料が残ってない_(。_゜)/
しばらくは屋敷などが残っていたのではと推測されますが、藤原氏も不比等の死後は4家に別れてしまったし、維持管理体制はどうなってたんでしょうか…いろいろと謎があります。

ところが、およそ数百年を経た延久2年(1070年)作成の「興福寺大和国雑役免田等坪付帳」に興味深い記述が登場します。“本願施入”なる墾田の一覧が書かれているのです。泉谷康夫氏の考察に依れば「興福寺本願の藤原不比等が在世中に永年私財の墾田はまだ存在しないから、“本願施入田畠”というのは間違っている」(『興福寺』吉川弘文館 P.120)ということですが、かなり古いころに藤原氏の誰かが興福寺に寄付したのは間違いないところでしょう。
この中に「大原」が登場するのです。
・田村庄(山辺郡) 27町8反
・糸井南庄(城下郡) 10町
・十市庄(十市郡) 15町
・菩提庄(添下郡) 3町
・雲飛(うねび)庄(高市郡) 8町1反125歩
大原庄(高市郡) 4町4反180歩
・片岡庄(葛下郡) 17町1反340歩
・長枝庄(葛上郡) 12町1反100歩
『興福寺』吉川弘文館 P.121
なんと、氏寺・興福寺の荘園に化けていたようです。
なお、泉谷氏も指摘していますが、天平宝字元年閏8月に藤原仲麻呂が維摩会の料田として曾祖父鎌足の功田100町を興福寺に寄進しています。上記の荘園を合計すると大体100町(97町5反745歩)になりますが、上記に挙げられた荘園が仲麻呂が寄進した物と同一かどうかは不明。

この大原庄ですが、その後どうなったのでしょうか。泉谷氏の前掲書を元に追跡。
応仁の乱のころの興福寺大乗院門跡・尋尊(一条兼良の息子)による『尋尊御記』には上記の荘園の内「田村庄」しか登場しないそうなのですが、『大乗院寺社雑事記』文明14年(1482年)閏7月23日条には「片岡、長枝、十市、雲飛、大原」が七堂毎日の仏聖米を出す荘園として登場しているので、この頃までは大原はまだ興福寺の荘園として存在していたと考えられます。ただ、泉谷氏によると「田村庄はまとまりを持った一円所領の庄園として発展したが、他の五ヶ庄は一円化が成功せず、負所(おっしょ)の庄園になってしまった」(P.139)としています。

その後の史料には出てこないのか、上掲書には記述がありませんでした。
戦国時代の混乱のなか、この手の弱小荘園は地元の国人に吸収or強奪されて消滅したのではないでしょうか。

なお、江戸時代にはこの地に「東源寺(藤原寺)」という多武峰寺(現在の談山神社)の道場となっていたお寺があったらしいが、明治時代の廃仏毀釈で消滅したそうな。(参考こちらのHP
鎌倉~室町時代には興福寺と多武峰寺は権益争いでしょっちゅう武闘抗争(^^;)していたらしいから、何とも皮肉な結末に。



おまけ
泉谷氏の本にこんな気になる記述が
摂関家領荘園の一部を院主が相伝した物としては、『簡要類聚鈔』に、一乗院領として、大隅・薩摩・日向三国にまたがる嶋津庄、(中略)があげられている。これらは、一乗院門跡実信(じっしん)が近衞家領の一部を相伝したことにより、一乗院領荘園となった物であった。
『興福寺』P.153
えええ、摂関家だけの物じゃなかったの?>島津荘
これは初耳だった。と言うかそういう話を聞かない位、まともに興福寺一乗院に年貢を納めてなかったのかも(ヲイ)どっちにしろ島津氏には「知ったこっちゃ無いわ!」という話だったかも。どうかな。

おまけ2
先に「さて、この藤原氏の故地ですが、都が藤原京から遠く離れた奈良の平城京に移った後はどうなってしまったんでしょうか?-実はこれが全く史料が残ってない_(。_゜)/」と書いては見た物の、あとで「そういえば『続日本紀』で見たような記憶が」と思いだし、必死になって調べた所、確かに1回登場していた。
天平神護元年(764年)10月14日条に「車駕、巡歴大原・長岡。臨明日香川而還。」として登場しています。称徳天皇が紀伊国に行幸した途中で立ち寄ったらしい。
ちなみにこの行幸は、淡路島に配流中の淳仁天皇とそのシンパに圧力を掛ける目的があったという説があります(『孝謙・称徳天皇』(ミネルヴァ書房)他)。そういう旅行の途中で寄ったのか。意味深。

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東野治之氏が『週刊朝日百科 国宝』別冊1のコラムで紹介していた「史料批判が必要だが興味深い史料」として紹介していた「法隆寺東院縁起」。『寺誌叢書』第1(「大日本仏教全書」117巻)に所収されていると言うことで、入手して読んでみた。

…久し振りの漢文で頭が朦朧とヾ(--;)

気を取り直して。
年紀も何も書いてないので、いつ頃書かれた物すら分からないという難儀な史料なのだが、ちょっと気になる記述が
天平十一年夏四月十日即令河内山贈太政大臣藤原朝臣敬造此院。
「天平11年の4月10日(旧暦)に”河内山贈太政大臣藤原朝臣某”によって法隆寺東院(※現在夢殿などが建っている一画のこと)が建てられた」ということなのだが、さて「河内山の贈太政大臣藤原朝臣」…いったい誰?
奈良時代ぐらいから、その居所とか関係地を頭に付けて「○○の大臣」というのが流行りだしたようですが、同時代史料(例えば『続日本紀』など)には出てこないので実際どれくらいの頻度で遣われたのか、本当にその時代にそういう風に呼ばれていたかもはっきりしない。
ただ、『尊卑分脈』『公卿補任』ではよく出てくるので、後世の人が付けた可能性はありそう。
例えば
・橘諸兄:井出左大臣、西院大臣
・藤原豊成:横佩大臣(これは「中将姫伝説」で出てくるのでご存じの方も多いかも)
・藤原永手:長岡左大臣(実は長岡京遷都前にお亡くなりになっているので、何でこんな命名になったか不詳)
などなど

最初の話に戻って。では「河内山贈太政大臣」って誰じゃ?(゜_。)?(。_゜)?
…同じ「法隆寺東院縁起」の記述の中にヒントがありました。後の記述で同年同月同日に法隆寺東院を作った人物として
 正三位藤原朝臣総前
と言う名前が出てくるからです。「総前」は「ふささき」とも読めますし、死去時の官位も一致してますので、藤原房前と断定できるかと。つまり、「河内山贈太政大臣」=藤原房前ということか。
※なお、房前は天平9年に左大臣を追贈、更に天平宝字5年に房前は贈左大臣から贈太政大臣に昇格してますので、この点でも記述は史実と一致してます。「あれ?法隆寺東院を立てたという天平11年には房前死んでるんじゃ?」という正しすぎるつっこみは無しで(^^;)

しかし、房前が「河内山の大臣」と言われているという話は初めて見ました。
『尊卑分脈』にも『公卿補任』にもそんな事書いてないんですけど。
…つまり先述したとおり、「法隆寺東院縁起」を書いたころには房前のことをそういう風に読んでいたと言うことか。考えを変えてみると、「法隆寺東院縁起」が書かれたころまでは、房前の居所or関係地が伝わっていたので、こういう命名をしたと推測されます。
…つまり、「河内山」がどこか分かれば、房前の住所とか領地とか分かるんじゃなかろうか?



…と言う事で、ネットで検索してみたのですが
(1)現在の奈良県に「河内山」は存在するのか
存在しないようです_| ̄|○ と言うか、近鉄沿線に「河内山本駅」というのがあって、そっちの情報が大量にヒットしてはじくのに苦労・゚・(´Д⊂ヽ・゚・
(2)他地域に「河内山」は存在するのか
意外や意外、これも存在しないらしい。というか、時代劇でご存じの方も多い「河内山宗俊」の話が大量にヒットしてはじくのに(以下略)
…うーむ。昔の地図とか当たるしかないのだろうか。

この企画つづく?ヾ(--;)

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