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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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東野治之氏が『週刊朝日百科 国宝』別冊1のコラムで紹介していた「史料批判が必要だが興味深い史料」として紹介していた「法隆寺東院縁起」。『寺誌叢書』第1(「大日本仏教全書」117巻)に所収されていると言うことで、入手して読んでみた。

…久し振りの漢文で頭が朦朧とヾ(--;)

気を取り直して。
年紀も何も書いてないので、いつ頃書かれた物すら分からないという難儀な史料なのだが、ちょっと気になる記述が
天平十一年夏四月十日即令河内山贈太政大臣藤原朝臣敬造此院。
「天平11年の4月10日(旧暦)に”河内山贈太政大臣藤原朝臣某”によって法隆寺東院(※現在夢殿などが建っている一画のこと)が建てられた」ということなのだが、さて「河内山の贈太政大臣藤原朝臣」…いったい誰?
奈良時代ぐらいから、その居所とか関係地を頭に付けて「○○の大臣」というのが流行りだしたようですが、同時代史料(例えば『続日本紀』など)には出てこないので実際どれくらいの頻度で遣われたのか、本当にその時代にそういう風に呼ばれていたかもはっきりしない。
ただ、『尊卑分脈』『公卿補任』ではよく出てくるので、後世の人が付けた可能性はありそう。
例えば
・橘諸兄:井出左大臣、西院大臣
・藤原豊成:横佩大臣(これは「中将姫伝説」で出てくるのでご存じの方も多いかも)
・藤原永手:長岡左大臣(実は長岡京遷都前にお亡くなりになっているので、何でこんな命名になったか不詳)
などなど

最初の話に戻って。では「河内山贈太政大臣」って誰じゃ?(゜_。)?(。_゜)?
…同じ「法隆寺東院縁起」の記述の中にヒントがありました。後の記述で同年同月同日に法隆寺東院を作った人物として
 正三位藤原朝臣総前
と言う名前が出てくるからです。「総前」は「ふささき」とも読めますし、死去時の官位も一致してますので、藤原房前と断定できるかと。つまり、「河内山贈太政大臣」=藤原房前ということか。
※なお、房前は天平9年に左大臣を追贈、更に天平宝字5年に房前は贈左大臣から贈太政大臣に昇格してますので、この点でも記述は史実と一致してます。「あれ?法隆寺東院を立てたという天平11年には房前死んでるんじゃ?」という正しすぎるつっこみは無しで(^^;)

しかし、房前が「河内山の大臣」と言われているという話は初めて見ました。
『尊卑分脈』にも『公卿補任』にもそんな事書いてないんですけど。
…つまり先述したとおり、「法隆寺東院縁起」を書いたころには房前のことをそういう風に読んでいたと言うことか。考えを変えてみると、「法隆寺東院縁起」が書かれたころまでは、房前の居所or関係地が伝わっていたので、こういう命名をしたと推測されます。
…つまり、「河内山」がどこか分かれば、房前の住所とか領地とか分かるんじゃなかろうか?



…と言う事で、ネットで検索してみたのですが
(1)現在の奈良県に「河内山」は存在するのか
存在しないようです_| ̄|○ と言うか、近鉄沿線に「河内山本駅」というのがあって、そっちの情報が大量にヒットしてはじくのに苦労・゚・(´Д⊂ヽ・゚・
(2)他地域に「河内山」は存在するのか
意外や意外、これも存在しないらしい。というか、時代劇でご存じの方も多い「河内山宗俊」の話が大量にヒットしてはじくのに(以下略)
…うーむ。昔の地図とか当たるしかないのだろうか。

この企画つづく?ヾ(--;)

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