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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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※タイトルを「藤原鎌足(中臣鎌足)」としているのは、『日本書紀』によれば死ぬ前日に鎌足が”藤原”という姓をもらったとしているから、つまり「藤原鎌足」という名前を一瞬しか名乗ってなかったからです
鎌足自身はあの世で「藤原鎌足って言われても違和感あるある~」と思っているかもね(^^;)


…さて、タイトルのお話。人によっては「何でそんな今さらな話を」と言われそう(^^;)
実は先日『藤原氏の研究』(倉本一宏著 雄山閣)を読んだときに、倉本さんが結構ページ数を割いて藤原(中臣)鎌足と息子の不比等の墓の場所がどこにあるのかというのを史料からのアプローチで検討していたのだが、
結局結論は「よく分かりません」_(。_゜)/ということに。

こんな結論になるのは、「残っている史料に書いてあることが無茶苦茶だから」と言うことに付きます。
史料では鎌足の墓をどう書いているのでしょうか。
「鎌足墓と摂津三島の阿威山」(森田克行 『藤原鎌足と阿武山古墳』所収)の紹介を参考に時系列で列挙してみます。

・669年(天智8年)10月6日「辛酉(=10月6日)、藤原内大臣薨」「日本世紀曰く、内大臣春秋五十にして私第に薨せぬ。遷して山の南に殯す」(「日本書紀」)
・760年(天平宝字8年)頃「薨于淡海之第」「以庚午(=670年)閏9月6日、葬於山階精舎」(「大織冠伝」)
・858年(天安2年)「贈太政大臣正一位藤原朝臣鎌足」(「日本三大実録」)
・877年(元慶元年)「贈太政大臣藤原氏」(「日本三大実録」)
・884年(元慶8年)「贈太政大臣正一位藤原朝臣」(「日本三大実録」)
・927年(延長5年)「国史、並びに貞観式に云う大織冠の墓云々という、今の文は、已でに式に違い誤りなり/多武峰は贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣の墓なり」(「延喜式(諸陵寮)」)
 ※(注)「国史」とは「日本三大実録」、「淡海公」とは鎌足の次男・藤原不比等のこと

一番古い「日本書紀」では「山の南」とは書いてくれている物のどこの山か書いてないし
次に古い+曾孫(藤原仲麻呂)が関わった「藤氏家伝(大織冠伝)」では「山階精舎(※現在の京都市山科区に建てられた鎌足の菩提寺。最終的に奈良に移転して現在の興福寺になる)」と具体的な場所を書いてくれていますが、これについては
「この時代に寺院に埋葬する例はない」
(「阿武山古墳の石槨の構造と年代」白石太一郎 前掲『藤原鎌足と~』所収)
と言う疑問があります。
その後が100年近く飛んで平安中期の史料「日本三大実録」になるわけですが、この3件はすべて「十陵四墓」という天皇にとって重要+近親の10の天皇/皇后の墓と外戚4つの墓に重大事があったときに供物を捧げるという儀式に関わる記述で、その外戚4つの墓の中に「多武峰墓」というのが必ず登場しています。ところが上記で分かるようにこの「多武峰墓」は「贈太政大臣」「藤原氏(藤原朝臣)」の墓であるという点では共通しているのですが、鎌足は「贈太政大臣」ではないという矛盾が…。むしろ「贈太政大臣」の藤原氏、かつ「日本三大実録」3件のうち2件で明記されている「正一位」の藤原氏と言えば鎌足の息子・不比等しかいません。
ところが不比等の墓については、後世の史料になりますが「公卿補任」に「十月八日戊子火葬佐保山椎山岡。従遺教也。」と書いてあり、事実、佐保山には聖武天皇陵やら光明皇后陵やら奈良時代の貴顕の墓がたくさんあるので、平城京移転の首謀者とも考えられる不比等の墓がこの辺に作られるというのは妥当なところと考えられます。
この「日本三大実録」の記述については早くから疑問が上がっていたようで、あの本居宣長も『古事記伝』で「天安2年条の“鎌足”というのは後世の人の追記だろう」としているそうです(森田前掲論文 p.91)。

それじゃ、平安時代に当時の朝廷がせっせせっせとお供物をお供えした多武峰って何もない空の場所をお供養していたのか?…と言うことになるとそうでもないようで、「日本書紀」斉明2年(656年)条で「両槻宮(ふたつきみや)」という軍事施設が建てられたこと、「続日本紀」大宝2年(702年)条で両槻宮修繕の話が登場し、奈良時代の初め辺りまでは存続していたらしいことが伺えます(「中臣鎌足と中大兄皇子」和田萃 前掲『藤原鎌足と~』所収)。ただ、両槻宮は離宮っぽい軍事施設であって、墓でもなければ藤原氏関連の場所でもない罠(^^;)
この後、多武峰が登場するのは約150年経った平安中頃。先述の「日本三大実録」の問題の記述になります。
その次に登場するのはまたまたそれから約100年後。このころ「次期摂政じゃないか?」ともいわれていた右大臣・藤原師輔という人の子供に藤原高光という貴公子がいたのですが、将来を約束されていたにも拘わらず、世をはかなんで突如出家してしまい、この多武峰に籠もってしまいます。962年頃のことのようです。何で京都をはるか離れた多武峰に籠もったかというと、先述の「日本三大実録」に書かれた「贈太政大臣藤原氏」の墓があったからと推測されます。ただ、この時高光が師事したのが天台宗の僧侶だったことが後述する興福寺(ちなみに法相宗)との対立の原因になります…。
さらに200年ほど経つと、その頃には先述の高光が籠もった地に大寺院「多武峰寺」(現在の談山神社)が成立していました。この多武峰寺、平安後期から鎌倉時代にかけて、大和国の権益を巡って興福寺と文字通り血みどろの戦いを繰り広げることになります。その頃に登場した史料が多武峰寺の歴史を綴った「多武峰略記」(1197年(建久8年))です。この史料については森田氏が詳しく紹介していますが(『藤原鎌足と~』p.93)、著者の静胤は多武峰寺の27代検校であり、藤原兼実(九条兼実)昵懇の僧侶でした。
-実は、「阿威山に藤原鎌足の墓がある」という話は、この「多武峰略記」で初めて登場する話なのです。
森田氏は
(飛ぶ鳥を落とす勢いの)兼実は、藤原氏の棟梁として『三代実録』の天安2年の「多武峰に鎌足を葬った」とする誤った写本の記事を鵜呑みにする形で、多武峰に鎌足の墓を作ろうとして一連の行動をしたと考えれば、うまく辻褄が合うのです。p.92-93
…と兼実の作為があった可能性を指摘しています。
私は摂関家のトップを争う兼実の意図の他に、多武峰寺側の事情もあったと考えます。この頃、先述のように多武峰寺は興福寺と権益を争って血みどろのバトルを繰り広げていました。その中で「飛鳥時代からの藤原氏の氏寺」という歴史を誇る興福寺に対抗するために「藤原氏初代の菩提寺」と自らを格付けしようとして、兼実と共同で工作を行った可能性が高いのではないでしょうか。実は高槻市のすぐ隣/茨木市に「将軍塚古墳」という「藤原鎌足の墓?」という伝承を持つ古墳がありました。実際の所鎌足が死ぬより大分前の古墳なので可能性は0なんですが(^^;)、前掲書掲載の森本氏の話に依れば、近年まで藤原氏末裔がこのお墓参りをしていたそうです。但し墓参りをしていたのは九条家の関係者だけ。これも「多武峰藤原鎌足墓説」の工作に九条家が関わっていた証左になるかと思います。
…なので、「多武峰略記」の記述をまるっと真実とした水野正好氏(「阿武山古墳と中臣氏・藤原氏」前掲『藤原鎌足と~』所収)には同意できません。ごめんなさい(^^;)ただ、多武峰の墓が鎌足の墓という事については疑問が大きいのですが、だからといって阿武山古墳が藤原鎌足の墓と断定できる証拠が揃ったわけでもないわけで…。

結論 やっぱり鎌足の墓はどこにあるか分かりません_(。_゜)/

倉本氏ほどの碩学が「分からない!」とさじ投げた物が、鳥頭の私に解決できるはずがないのであった。スイマセン、無茶な事してf(^_^;)


<追記>
ただし、高槻市のこの辺が藤原氏と縁がないかというと、それは全く逆でして
・「日本書紀」大化前代条で鎌足が「神祇伯なんて先祖伝来の仕事は嫌」と逃げて籠もったのが摂津国三島の別業。
・「日本後紀」延暦11年条「摂津国島上郡にある(中略)贈太政大臣正一位藤原朝臣不比等の野67町、贈太政大臣正一位藤原朝臣房前の野67町、故入唐大使贈正二位藤原朝臣清河の野80町(後略)」
・「扶桑略記」寛平元年12月2日、陽成上皇が嶋下郡にある備後守藤原氏助の宅を御在所とした、と言う記事がある(ちなみに氏助は藤原蔵下麻呂の曾孫(式家))
また先述の藤原(九条)兼実が書いた日記「玉葉」の文治4年(1188年)1月11日条には今回の問題とも関わる「摂州宿に赴き本所を始む(註)宗頼朝臣領安井(=阿威)庄内、構方丈庵室、為本所、彼朝臣所経営也」と言う記述があるのですが、この中に出てくる「宗頼朝臣」というのは葉室宗頼のことで、やはり藤原氏の末裔の一人でした。
なので、先に「「多武峰略記」の記述をまるっと真実とした水野正好氏には同意できません。」とは書いた物の、「阿武山古墳の被葬者は鎌足の父/中臣御食子(みけこ)」という水野氏の説はそれなりに可能性があるのではと思います。ただ、その元になっている史料の使い方がまずいヾ(--;)

あ、ところで今気が付いたが、
「むしろ「贈太政大臣」の藤原氏、かつ「日本三大実録」3件のうち2件で明記されている「正一位」の藤原氏と言えば鎌足の息子・不比等しかいません。」
…と自信たっぷりに断言したが、後2人。藤原武智麻呂と房前兄弟がいたヾ(--;)
ただ、武智麻呂の墓に関しては奈良県五條市の「後阿施墓」で確定しています(先述の「延喜式」で書いてあること、菩提寺の栄山寺が墓の山裾に存在すること)。房前は史料に墓のことが全く書いてないので、現在の所墓所不詳。阿武山古墳が房前の墓!…の可能性は0%ですが_(。_゜)/(だって阿武山古墳の遺体は火葬されてないし…)もしかしたらうっかり多武峰に房前の墓がある可能性は0.01%ぐらいはあるかも???誰か山狩りしない?ヾ(--;)

それと以前から気になっていること。
談山神社に伝わっている鎌足の肖像画、鎌足の右下に小さく長男・定慧がいて左下にこれまた小さく次男・不比等がいると言うお決まりの形式。藤原仲麻呂(恵美押勝)が書いた「藤氏家伝」と構成が一緒なんだよな…(「大織冠伝」(鎌足の伝記)の付録として貞恵(定慧)伝と不比等伝が付いてくる(なお不比等伝は現在の所未発見))とぼそっと付け足しに書いてみる(謎)。

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