拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
本日は島津義久が亡くなった日です(新暦)
島津義久の和歌を採録してみよう!…という無謀な企画を立てたのは、今から3年前のことになります。
義久は、義弘に比べて人気が低いように思われ、おそらく地元でもイベントが行われないのではないか?と思ったのがきっかけでした。実際そうだったようです(桐野作人さんブログ 1 2)。
そこで、うちのような弱小ブログではありますが、ささやかにイベントしようかと。
イベントネタとして和歌を選んだのは、「薩藩旧記雑録」を読んでみて、圧倒的に義久の歌が採録されていたように見えたからでした。義弘や他の武将も和歌をたしなんでいたのに。
取りあえず、手元にあった「薩藩旧記雑録」のcopyを元に、義久の和歌を入力し始めていきました。
入力している内に、ある傾向が見えてきました。
その傾向とは
ある時期を境に、採録件数が一気に増えているのです。
その「ある時期」とは、天正15年。そう、豊臣秀吉に敗れた年です。
(「一人百首」でいうと211首目が切れ目です)
単純計算すると
~天正15年→56首
天正15年~慶長16年→211首
なお、後半(天正15年~慶長16年)には、例の水増し義久いろは歌57首が入っていますので、これを1首としてカウントし直すと
~天正15年→56首
天正15年~慶長16年→154首
それでも後半のほうが多いのです。
この時期から採録件数が増える理由はいくつか考えられます。
1)「薩藩旧記雑録」自体がこの時期から文書量が増えてくる。だから義久の和歌の採録も増えた。
2)出家して義久が暇になったので作歌量が増えた。
しかし、私はこの2説とも否定します。理由は
1)→この時期から文書量が増えるのは、秀吉政権下で事務量が増えたことに依る物と思われる。が、和歌は政務・事務に関係ない物、採録を増やす理由にならない。
2)→実は出家した後も義久余り暇そうじゃない。しょっちゅう上方にお呼び出しはかかっているし。国元で政務を見ている形跡もある。
私が考えたのは以下の説です
島津義久の和歌を採録してみよう!…という無謀な企画を立てたのは、今から3年前のことになります。
義久は、義弘に比べて人気が低いように思われ、おそらく地元でもイベントが行われないのではないか?と思ったのがきっかけでした。実際そうだったようです(桐野作人さんブログ 1 2)。
そこで、うちのような弱小ブログではありますが、ささやかにイベントしようかと。
イベントネタとして和歌を選んだのは、「薩藩旧記雑録」を読んでみて、圧倒的に義久の歌が採録されていたように見えたからでした。義弘や他の武将も和歌をたしなんでいたのに。
取りあえず、手元にあった「薩藩旧記雑録」のcopyを元に、義久の和歌を入力し始めていきました。
入力している内に、ある傾向が見えてきました。
その傾向とは
ある時期を境に、採録件数が一気に増えているのです。
その「ある時期」とは、天正15年。そう、豊臣秀吉に敗れた年です。
(「一人百首」でいうと211首目が切れ目です)
単純計算すると
~天正15年→56首
天正15年~慶長16年→211首
なお、後半(天正15年~慶長16年)には、例の
~天正15年→56首
天正15年~慶長16年→154首
それでも後半のほうが多いのです。
この時期から採録件数が増える理由はいくつか考えられます。
1)「薩藩旧記雑録」自体がこの時期から文書量が増えてくる。だから義久の和歌の採録も増えた。
2)出家して義久が暇になったので作歌量が増えた。
しかし、私はこの2説とも否定します。理由は
1)→この時期から文書量が増えるのは、秀吉政権下で事務量が増えたことに依る物と思われる。が、和歌は政務・事務に関係ない物、採録を増やす理由にならない。
2)→実は出家した後も義久余り暇そうじゃない。しょっちゅう上方にお呼び出しはかかっているし。国元で政務を見ている形跡もある。
私が考えたのは以下の説です
天正15年、いや正確に言えば天正16年以降。
義久の和歌には「ある物」がある…と周りの人が勝手に考えるようになったのです。
その「ある物」とは、うまく言えないのですが“神様を動かす力”とでも言えばいいのでしょうか、そういった特殊能力を持っていると思われるようになったのではないかと。
天正16年、ある“事件”がおこります。
義久は許可が下りて、国元に帰ることになりますが、娘・亀寿は置いていくことになりました。その時の切ない気持ちを和歌にして細川幽斎に送ったところ、その和歌が豊臣秀吉にまで知られるところとなり、亀寿の帰国も許されることとなった、あの一件です。(一人百首該当記事 こちら)
このことがその当時は重大事件だったのは、「長谷場越前日記」に書かれたオーバーすぎる記述、またたかが和歌一首のことなのに、『島津氏正統系譜』の義久の記事でも重要な事績として取り上げていることで分かります。
周りの人たちが「奇跡」と思ったことを起こした義久の一首。亀寿奪還事件(?)以後、義久の和歌が大量に採録されているのは、義久の和歌に「奇跡」を起こす力があるからと考えられたからではないでしょうか。
なお、当時の人が「義久の和歌に“奇跡”を起こす力がある」と思っていた証拠がしっかり残ってました。こちらです。
「啼かぬなら啼かせて見せよう鶯」って所でしょうか。
またこちらの和歌は「薩藩名勝誌」にも採録されているのですが、それには追記があり、義久がこの一首をそらんじた直後に大雨が降ったと書かれているのです。まあ、実際の所はホントに雨降ったのかしら?とも思うのですが(^^;)、後世の人が「義久の和歌には天気をも変える力がある」と思っていた証左にはなるでしょう。
さて、当の義久は自分の和歌がこういう風に思われていたことをどう思っていたのでしょうか。それを書いた史料は残念ながら見つかりませんでした。しかし、
「和歌読んで物事動かせる力があるなら、もっと自分の思い通りの人生になってる」
と思っていたかも。
取りあえずこれを以て「一人百首」の中間締めとさせて頂きます。
実は他の史料を見てると、「薩藩旧記雑録」に採録されていない義久の和歌がまだまだあるようです。しかし、それらの史料をじっくり眺めている余裕がないので(涙)また追々追加していく、ということで…お許しを(^^;)
義久の和歌には「ある物」がある…と周りの人が勝手に考えるようになったのです。
その「ある物」とは、うまく言えないのですが“神様を動かす力”とでも言えばいいのでしょうか、そういった特殊能力を持っていると思われるようになったのではないかと。
天正16年、ある“事件”がおこります。
義久は許可が下りて、国元に帰ることになりますが、娘・亀寿は置いていくことになりました。その時の切ない気持ちを和歌にして細川幽斎に送ったところ、その和歌が豊臣秀吉にまで知られるところとなり、亀寿の帰国も許されることとなった、あの一件です。(一人百首該当記事 こちら)
このことがその当時は重大事件だったのは、「長谷場越前日記」に書かれたオーバーすぎる記述、またたかが和歌一首のことなのに、『島津氏正統系譜』の義久の記事でも重要な事績として取り上げていることで分かります。
周りの人たちが「奇跡」と思ったことを起こした義久の一首。亀寿奪還事件(?)以後、義久の和歌が大量に採録されているのは、義久の和歌に「奇跡」を起こす力があるからと考えられたからではないでしょうか。
なお、当時の人が「義久の和歌に“奇跡”を起こす力がある」と思っていた証拠がしっかり残ってました。こちらです。
「啼かぬなら啼かせて見せよう鶯」って所でしょうか。
またこちらの和歌は「薩藩名勝誌」にも採録されているのですが、それには追記があり、義久がこの一首をそらんじた直後に大雨が降ったと書かれているのです。まあ、実際の所はホントに雨降ったのかしら?とも思うのですが(^^;)、後世の人が「義久の和歌には天気をも変える力がある」と思っていた証左にはなるでしょう。
さて、当の義久は自分の和歌がこういう風に思われていたことをどう思っていたのでしょうか。それを書いた史料は残念ながら見つかりませんでした。しかし、
「和歌読んで物事動かせる力があるなら、もっと自分の思い通りの人生になってる」
と思っていたかも。
取りあえずこれを以て「一人百首」の中間締めとさせて頂きます。
実は他の史料を見てると、「薩藩旧記雑録」に採録されていない義久の和歌がまだまだあるようです。しかし、それらの史料をじっくり眺めている余裕がないので(涙)また追々追加していく、ということで…お許しを(^^;)
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Comment
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面白いですね
「神」になった義久」といったところでしょうか。
でも、実際は家久が家督を継いでから、「神」になり損ねた義久という気がします。
代わりに義弘が「軍神」として持ち上げられる結果になったような。
でも、実際は家久が家督を継いでから、「神」になり損ねた義久という気がします。
代わりに義弘が「軍神」として持ち上げられる結果になったような。
神様と言うより
桐野様ご無沙汰しております
私説、と言うか珍説(^^;)へのコメントありがとうございました
>「神」になった義久」といったところでしょうか。
「神」というより「巫女」と言った印象を持ちました。和歌は神様を呼び寄せる手段です。って義久はイタコか(^^;)
>代わりに義弘が「軍神」として持ち上げられる
確かに家久(忠恒)が当主、特に義久死後義弘が持ち上げられる傾向は強いと私も感じています。
ある方のコメントで私も疑問を持つようになったのですが、戦績だけ見ると「軍神」の名にふさわしいのは義弘ではなくて家久(中務大輔)の方ですね。関ヶ原の合戦の”敵中突破”などは最たる物で、よく考えれば負け戦なのにそれが称揚されるというのはかなり変です。
私説、と言うか珍説(^^;)へのコメントありがとうございました
>「神」になった義久」といったところでしょうか。
「神」というより「巫女」と言った印象を持ちました。和歌は神様を呼び寄せる手段です。って義久はイタコか(^^;)
>代わりに義弘が「軍神」として持ち上げられる
確かに家久(忠恒)が当主、特に義久死後義弘が持ち上げられる傾向は強いと私も感じています。
ある方のコメントで私も疑問を持つようになったのですが、戦績だけ見ると「軍神」の名にふさわしいのは義弘ではなくて家久(中務大輔)の方ですね。関ヶ原の合戦の”敵中突破”などは最たる物で、よく考えれば負け戦なのにそれが称揚されるというのはかなり変です。
言霊マスター
と、思われていた義久公?
某巨大逸話ブログの新納忠元の項に、
山田有信が死んだ折に、その死を悼んだ義久公が和歌(挽歌?)を詠んだのを、新納がものすごく羨ましがってた・・・
という解釈をして紹介されてたんです。
義久公の和歌が神聖化されてたからってのもあるのかなぁ~と思いました。
個人的には義弘公プッシュの空気に、義久系家臣が対抗して「義久公の和歌には神意を招きよせる言霊がある~」ってプッシュしたイメージです。
島津家は、籤(神意を問う)にマメだし、和歌も毎日の御飯くらい自然に詠んじゃう家だから
義弘=軍神、これは自分も違和感
戦で、いっつも怪我ばかりしてるイメージしかないんですもん(汗
ギリギリのところで生き残る、瀬戸際御利益って有り難いような、そうでないような(爆
それは、ともかく三年間の労苦お疲れ様でした。
義久公イベントに三年・・・きっと泉下の公も喜んでますよ^^
某巨大逸話ブログの新納忠元の項に、
山田有信が死んだ折に、その死を悼んだ義久公が和歌(挽歌?)を詠んだのを、新納がものすごく羨ましがってた・・・
という解釈をして紹介されてたんです。
義久公の和歌が神聖化されてたからってのもあるのかなぁ~と思いました。
個人的には義弘公プッシュの空気に、義久系家臣が対抗して「義久公の和歌には神意を招きよせる言霊がある~」ってプッシュしたイメージです。
島津家は、籤(神意を問う)にマメだし、和歌も毎日の御飯くらい自然に詠んじゃう家だから
義弘=軍神、これは自分も違和感
戦で、いっつも怪我ばかりしてるイメージしかないんですもん(汗
ギリギリのところで生き残る、瀬戸際御利益って有り難いような、そうでないような(爆
それは、ともかく三年間の労苦お疲れ様でした。
義久公イベントに三年・・・きっと泉下の公も喜んでますよ^^