拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
遂にこのネタずるずる8回目…(;¬_¬)
気を取り直して、早速本題に入ります。
予告通り、関ヶ原合戦後に島津家から来た文書を紹介。
最初の文ですがかなり長文です…でもがんばる
(注2)少将→あの島津忠恒
(注3)使者→鎌田政近
(注4)井伊兵部少輔殿→井伊直政 この翌年に死去
(注5)本多佐渡守、本佐州→本多正信 この頃から徳川家と島津家の取り次ぎ担当となる
(注6)内府様→来年400回忌を迎える名物の狸ヾ(--;)こと徳川家康
(注7)鳥勘左衛門、鳥居勘左→黒田長政の家臣。知行は400石とのこと(『黒田家文書 1』p.350解説)。
(注8)伊勢平左衛門尉→伊勢貞成(貞林)。後に島津忠恒(家久)の家老となる伊勢貞昌の父。この当時は島津義弘付きの家老の一人である。
(注9)御息様→黒田松寿丸(1591~1603)。黒田長政の幼名と同じ名前を持っているが、実は養子。この当時先妻・蜂須賀長政女(糸)との間にも後妻・保科正直女(徳川家康養女・栄)との間にも男子がいなかったため、黒田如水の配慮により従兄弟を養子に迎えた。実父は一柳直末(天正18年(1590年)戦死)、実母は黒田如水の妹。
慶長6年11月4日付の、大変に興味深い内容の書状です。
これが桐野作人さんが「さつま人国記」2014年4月21日分で取り上げた物だと思います。
長文を要約すると
「井伊直政と本多正信の取りなしで自分も助かりそうなんだけど、まだ正式に決まったわけでない様子なんで、例の縁組みの件はなかったということに…もし御子息が他家と縁組みされても島津家と黒田家はこれまでのように仲良くしましょう」
です。
桐野さんも記事の中で指摘してますが、やっぱりこの文書の一番の注目点は「先年以来申し談ずる縁中の儀」とか「彼の縁組」といわれているものですよね!ヾ(--;)…でも、縁組って誰と誰の縁組みやねんな…。
黒田家側の相手は上記の(注9)でも書きましたが、黒田長政養子(黒田如水甥)の松寿丸と断定できます(『黒田家文書1』p.351解説)。この当時の黒田家はこの松寿丸一人しか後継者候補がおらず、この当時の島津家同様男子の跡継ぎ不足だったんですね。ただこの松寿丸は2年後に早世してしまいます(○。○)…ところがこの前年から長政の後妻・栄姫が量産体制に入りましてヾ(^^;)、松寿丸は長生きしたら長生きしたで黒田家の懸案の種になったことは間違いないでしょう。薄幸の人ですね…。
では島津家側ですが、誰が候補になっていたのでしょうか?この文中に「拙者孫の儀」とあるので、義弘の孫娘の誰かと言うことが分かります。この頃未婚の義弘の孫娘と言えば
(1)豊州家・島津朝久の娘1(母は島津御屋地(義弘長女))
(2)豊州家・島津朝久の娘2(母同上)
(3)伊集院忠真の娘(母は島津御下(義弘次女))
の3人がいます。
このうち(3)は
・先年に父が謀反を起こしていること
・余りにも若年であること(慶長5年(1600年)生まれ、慶長6年時点で数え2歳)
と言う事から除外して良いかと。もっとも幼年で婚約する人もこの時代ざらにいますが…
(1)と(2)は残念ながら現存史料からでは生年が分からないのですが、父・朝久の没年(文禄5年(1596年)から最も遅く見積もっても次女が文禄6年(1597年)生まれ慶長6年時点で数え5歳、母の御屋地の年齢(文禄6年に44歳)から見るともっとさかのぼる可能性の方が高いかと。松寿丸の相手として考えられていたのは(1)か(2)でしょう。
あと、桐野氏は言及されてませんでしたが、この縁組みは島津家の総意で勧められていたのかどうかが気になります。島津家側にはこの縁談に関する史料が全く残ってないので推測になってしまうのですが、黒田家と親しいのはどうも義弘一人だけで、他の義久とか忠恒とか懇意にしていた様子が「黒田家文書」から伺えないことから、義弘の独断で勧められていたのではないかと。
なお松寿丸婚約者候補だった島津朝久と御屋地の娘たちのその後ですが
(1)→島津忠倍(島津忠長の長男)の妻となるが、若くして夫に先立たれ、自分も幼い娘を残して早世したらしい…
(2)→松平定行と政略結婚させられ、桑名(原三重県桑名市)にて早世…
と松寿丸同様長生きされなかったようです。長生きだった母・御屋地よりも当然先立ったわけで、御屋地にとっては大変つらかったことと思われます。
あと、(2)に関しては寺沢広高(or息子の堅高)との政略結婚が整う途中で破談になった疑惑があります。(ちなみに破談を仕掛けたのは島津家側の可能性が高いw)参照:桐野さんブログ(コメント欄のやりとり)、拙HP「伊東権頭娘」
今回は長文だったので1件にて終了。「黒田家文書」の島津関連史料紹介、もうちょっと続く。
※しかし、今回「さつま人国記」のバックナンバー見たら、これを書くきっかけになった記事が掲載されてから1年以上経ったことを知る_| ̄|○ とほほ…。
拙ブログ関連ネタ「安土桃山期の島津家と黒田家」
気を取り直して、早速本題に入ります。
予告通り、関ヶ原合戦後に島津家から来た文書を紹介。
最初の文ですがかなり長文です…でもがんばる
(注1)龍伯→ご存じ島津義久
是より申し入るべく候処、遮って御使札
遠路に及び、御丁寧の至り、畏み存じ候。
承り候様、今度龍伯(注1)・少将(注1)前より使
者(注3)指し上げ候処、井伊兵部少輔殿(注4)・
本多佐渡守殿(注5)お取り成しを以て、
内府様(注6)御前異議無く相済み、殊に
拙者進退の儀迄異議ある
間敷きの由、本佐州(注5)誓紙を以て、
仰せ下され候間、先ず以て安堵致し候。定めて
各内々御取り合わせ候故たるべきと
存ずるばかりに候。
一、先年以来申し談ずる縁中の儀、
捨て思し食されず、今度落着の
事、聞こし食さるべきの由、御状并びに鳥
勘左衛門(注7)方口上の通り、具に承り届け候。
一、彼の縁中の儀に付き、拙者前より
今度使者を指し上げ候わば、京都
の儀をも仰せ調えられるべきの由、御念比に
承り候、尤も其の儀に応ずべく候え共、御存じの如く、
拙者身躰の事、本佐州より 内府様御前の儀、異議ある間敷
の由承り候と雖も、 内府様御前より
御別儀無きの旨、直に仰せ聞かされず
候の条、当分逼塞せしめ、手前
気遣いの段、御察し成さるべく候。然る
間、先年以来承り候縁中の儀とは
ありながら、此の節、拙者使書
指し上ぐべき事は、貴所御為にも、
勿論、拙者ためにも 内府様御
前の儀、計り難き始末に候間、拙者
使書など指し上ぐべき儀は、当分
斟酌深重候。此れ等の旨聞こし
食し分けられ候わば、本望たるべく候。
一、彼の縁中の儀、拙者手前ならざるにおいては、
別方へ仰せ合わさるべきかの由、伊勢
平左衛門尉(注8)への御書面、尤もに存じ候。
拙者孫の儀、方々より所望候と雖も、
先年以来申し談ずる辻を以て、今に
何方へも契約無く、手前に抱え置き
候え共、御息様(注9)御年ばえも承り
及び候。定めて御縁の儀いそがわしく
思し食さるべく候間、さように候わば、
その旨に任せらるべき事、御肝要に候。重言乍ら、
拙者進退の儀、当分は
京儀計り難き時分に候条、是より
落着の儀申し入れ難く候。申すに及ばず候と雖も、
彼の縁の事、たとい別方へ仰せ
組まれ候共、先年以来別して
御入魂致すべきの由、申し談ずる守備にて候条、
毛頭御隔心の儀御座あるまじく候。
此の段は定めて御同情たるべしと存じ候
間、鳥居勘左(注7)方へ申し入れ候。恐惶謹言。
後十一月四日 羽兵庫入道
惟新(花押)
黒甲州
御報
<164 島津惟新(義弘)書状(10巻13号)>
(注2)少将→あの島津忠恒
(注3)使者→鎌田政近
(注4)井伊兵部少輔殿→井伊直政 この翌年に死去
(注5)本多佐渡守、本佐州→本多正信 この頃から徳川家と島津家の取り次ぎ担当となる
(注6)内府様→来年400回忌を迎える名物の狸ヾ(--;)こと徳川家康
(注7)鳥勘左衛門、鳥居勘左→黒田長政の家臣。知行は400石とのこと(『黒田家文書 1』p.350解説)。
(注8)伊勢平左衛門尉→伊勢貞成(貞林)。後に島津忠恒(家久)の家老となる伊勢貞昌の父。この当時は島津義弘付きの家老の一人である。
(注9)御息様→黒田松寿丸(1591~1603)。黒田長政の幼名と同じ名前を持っているが、実は養子。この当時先妻・蜂須賀長政女(糸)との間にも後妻・保科正直女(徳川家康養女・栄)との間にも男子がいなかったため、黒田如水の配慮により従兄弟を養子に迎えた。実父は一柳直末(天正18年(1590年)戦死)、実母は黒田如水の妹。
慶長6年11月4日付の、大変に興味深い内容の書状です。
これが桐野作人さんが「さつま人国記」2014年4月21日分で取り上げた物だと思います。
長文を要約すると
「井伊直政と本多正信の取りなしで自分も助かりそうなんだけど、まだ正式に決まったわけでない様子なんで、例の縁組みの件はなかったということに…もし御子息が他家と縁組みされても島津家と黒田家はこれまでのように仲良くしましょう」
です。
桐野さんも記事の中で指摘してますが、やっぱりこの文書の一番の注目点は「先年以来申し談ずる縁中の儀」とか「彼の縁組」といわれているものですよね!ヾ(--;)…でも、縁組って誰と誰の縁組みやねんな…。
黒田家側の相手は上記の(注9)でも書きましたが、黒田長政養子(黒田如水甥)の松寿丸と断定できます(『黒田家文書1』p.351解説)。この当時の黒田家はこの松寿丸一人しか後継者候補がおらず、この当時の島津家同様男子の跡継ぎ不足だったんですね。ただこの松寿丸は2年後に早世してしまいます(○。○)…ところがこの前年から長政の後妻・栄姫が量産体制に入りましてヾ(^^;)、松寿丸は長生きしたら長生きしたで黒田家の懸案の種になったことは間違いないでしょう。薄幸の人ですね…。
では島津家側ですが、誰が候補になっていたのでしょうか?この文中に「拙者孫の儀」とあるので、義弘の孫娘の誰かと言うことが分かります。この頃未婚の義弘の孫娘と言えば
(1)豊州家・島津朝久の娘1(母は島津御屋地(義弘長女))
(2)豊州家・島津朝久の娘2(母同上)
(3)伊集院忠真の娘(母は島津御下(義弘次女))
の3人がいます。
このうち(3)は
・先年に父が謀反を起こしていること
・余りにも若年であること(慶長5年(1600年)生まれ、慶長6年時点で数え2歳)
と言う事から除外して良いかと。もっとも幼年で婚約する人もこの時代ざらにいますが…
(1)と(2)は残念ながら現存史料からでは生年が分からないのですが、父・朝久の没年(文禄5年(1596年)から最も遅く見積もっても次女が文禄6年(1597年)生まれ慶長6年時点で数え5歳、母の御屋地の年齢(文禄6年に44歳)から見るともっとさかのぼる可能性の方が高いかと。松寿丸の相手として考えられていたのは(1)か(2)でしょう。
あと、桐野氏は言及されてませんでしたが、この縁組みは島津家の総意で勧められていたのかどうかが気になります。島津家側にはこの縁談に関する史料が全く残ってないので推測になってしまうのですが、黒田家と親しいのはどうも義弘一人だけで、他の義久とか忠恒とか懇意にしていた様子が「黒田家文書」から伺えないことから、義弘の独断で勧められていたのではないかと。
なお松寿丸婚約者候補だった島津朝久と御屋地の娘たちのその後ですが
(1)→島津忠倍(島津忠長の長男)の妻となるが、若くして夫に先立たれ、自分も幼い娘を残して早世したらしい…
(2)→松平定行と政略結婚させられ、桑名(原三重県桑名市)にて早世…
と松寿丸同様長生きされなかったようです。長生きだった母・御屋地よりも当然先立ったわけで、御屋地にとっては大変つらかったことと思われます。
あと、(2)に関しては寺沢広高(or息子の堅高)との政略結婚が整う途中で破談になった疑惑があります。(ちなみに破談を仕掛けたのは島津家側の可能性が高いw)参照:桐野さんブログ(コメント欄のやりとり)、拙HP「伊東権頭娘」
今回は長文だったので1件にて終了。「黒田家文書」の島津関連史料紹介、もうちょっと続く。
※しかし、今回「さつま人国記」のバックナンバー見たら、これを書くきっかけになった記事が掲載されてから1年以上経ったことを知る_| ̄|○ とほほ…。
拙ブログ関連ネタ「安土桃山期の島津家と黒田家」
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閏?
お久しぶりです。謹慎恭順の長文、とても切迫したものがありますね。小田原合戦後に「早く復帰させて」とせがんでいた北条氏直と比べると格の違いを感じてしまいました。
ところで、日付のところで「後」とあるのは「閏」の別称なのでしょうか。確かに閏月の方が後にくるのでそうだよなあと思いつつ、初めて目にしたので興味を持ちました。ご存知でしたら教えて下さい。
ところで、日付のところで「後」とあるのは「閏」の別称なのでしょうか。確かに閏月の方が後にくるのでそうだよなあと思いつつ、初めて目にしたので興味を持ちました。ご存知でしたら教えて下さい。
後=閏?
高村様お久しぶりです。
コメント誠にありがとうございます。
ご質問の件ですが、確かに慶長6年には閏11月があります(参照http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7#.E8.A5.BF.E6.9A.A6.E3.81.A8.E3.81.AE.E5.AF.BE.E7.85.A7.E8.A1.A8)。
しかし「後=閏」の意味で義弘が書いたのかどうかは不明です。この辺について、肝心の『黒田家文書1』にも解説が無く…申し訳ございません。
なお次回の更新で、この義弘の文書と同じ頃に書かれた手紙を2通紹介する予定ですが、一つはただの11月で、もう一通は閏11月になっています。
コメント誠にありがとうございます。
ご質問の件ですが、確かに慶長6年には閏11月があります(参照http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7#.E8.A5.BF.E6.9A.A6.E3.81.A8.E3.81.AE.E5.AF.BE.E7.85.A7.E8.A1.A8)。
しかし「後=閏」の意味で義弘が書いたのかどうかは不明です。この辺について、肝心の『黒田家文書1』にも解説が無く…申し訳ございません。
なお次回の更新で、この義弘の文書と同じ頃に書かれた手紙を2通紹介する予定ですが、一つはただの11月で、もう一通は閏11月になっています。