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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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5/26(火)にテレビ東京系で放送された『お宝なんでも鑑定団』では、ラストで大友家4代(義長、義鑑、義鎮(宗麟)、義統(吉統))の書状(中身は感状だった)が登場し、興味深く拝見致しました。この書状は既に史料集には所収されていた(=存在は確認済みだが所在不明だった)ものなのかな?
ただ書状には直接関係ないんですが、気になったのは
・島津氏が一方的に日向国に攻め込んで大友氏はその防戦をしたという内容の紹介だったこと その前に元々日向国を治めていた伊東氏が急速に弱体してとか色々あったわけで、島津氏が一方的に攻撃したわけではないんだが…
・「龍造寺」という名前すら全く言及されなかったこと_| ̄|○



以上小ネタ終了(^^;)
前回から2ヶ月近く開いてしまいましたが、まだ終わってない去年の大河がらみネタ続きです(滝汗)
今回ようやく本丸のネタ登場!…行き着くまでに時間かかりすぎ自分でも疲れました…

昨日は企参候の処、御丁寧
誠に以て外聞実儀畏み入り存じ候。仍って
自今以後別して御入魂に預かるべきの由承り候。
大慶至極に候。我等としても疎意無く、
向後申し談ずべく候。随って道仲(注1)にて
承り候一ヶ条(注2)の儀、御懇意謝し難く候。
何様入念の才覚申すべく候。巨細においては
道仲御到達あるべく候。恐惶謹言。

 六月二十八日   義弘(花押)
黒田甲斐守殿
        貴報
<157 島津義弘書状(19巻6号)>
(注1)道仲:「道中(どうちゅう)」かと思えるが、文章全体を見ると「道仲」という使者がいたようにも読める。皆様のご意見お待ちしております<(_ _)>
(注2)承り候一ヶ条:内容未詳
天正17年頃6月28日の文書です。黒田長政が「甲斐守」であること、島津義弘の「義弘」名乗り、義弘の花押の形などから年月はこの辺に想定されるとのこと(『黒田家文書』1巻p.335解説)。
解説によると「島津義弘が黒田長政に昨日訪問の折の歓待を謝し、今後疎意無く談合することを伝え」た文書だそうです(『黒田家文書』1巻p.335【大意】)。ざっと見た限りでは、この前後に本来は何か文書があったのではとも受け取れる内容です。が、それは現在は伝わってないので一体義弘と黒田長政の間でどういう約束をしたのか(「承り候一ヶ条」)、謎が多い内容です。
ともかく島津家が豊臣政権に敗北して割と早く(2年後)には長政と義弘の間にパイプができたことだけは分かります。「薩藩旧記雑録」後編には関ヶ原合戦後に義弘が黒田家(官兵衛孝高、長政)宛てに送った大量の書状を所収していますが、この時の縁を使った物と思われます。



今回紹介するのはこれのみ_(。_゜)/
次回はその関ヶ原の合戦後に義弘や忠恒が黒田家に送った文書を紹介する予定。意外な人も登場します(が、これまでいきつけるかなあ…)。

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