拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
ズルズル9回目…(-_-;)
…などと書いている暇があったらともかく先に進む
ということで、今回も関ヶ原の合戦頃に島津家から黒田家に送られた文書をピックアップ
ただ今回のは前回ほど面白くないかも(ヲイ)
慶長6年頃11月21日と推定されている文書です。
前回紹介した同じ頃に島津義弘が黒田長政に書いた文書と比較すると、文自体も短いですが、内容が通り一辺倒というか中身がない文章のように感じました。
なんとなくですが、黒田家とのやりとりについて忠恒は父/義弘に一任していて、忠恒はタッチしていない(したくない?)という印象を受けました。皆様如何でしょうか。
あと前回の義弘の文書もそうですが、名乗りが「羽柴兵庫頭」「羽柴少将」となっているのが興味深いです。確か慶長7年頃までは”羽柴”名乗りしてたんだが、その後はきっぱり止めてしまうのだったかな?うろ覚え。
では気を取り直して次の文書の紹介
(注2)兵庫頭→島津義弘 今気が付いたが、この文書でも前半では島津義弘を「兵庫」といっているのに後半では「惟新」である 謎。
(注3)上方御弓箭の企→ご存じ関ヶ原の合戦
(注4)奉行衆→いわゆる五奉行…なんだが、関ヶ原の合戦時は浅野長政は隠退、石田三成は隠居させられていたので、残りの三奉行(増田長盛、長束政家、前田玄以)のことである
(注5)石田殿→ご存じ石田三成
(注6)八十嶋方→『黒田家文書 1』解説(p.354)では「石田三成の家臣。」としか書いていないが、名字から見て、関ヶ原の合戦時に島津豊久に追い返された八十島助左衛門と同一人物と見て間違いないのではないだろうか。ご意見お待ちしています。
(注7)さわ山→佐和山城。石田三成の本拠地。
(注8)藤堂佐渡守殿→藤堂高虎。八十島助左衛門(?)が関ヶ原の合戦後藤堂高虎の元に捕まっていたという話は初耳で興味深い。
(注9)本多佐渡守殿→本多正信。
(注10)内府様→徳川家康。ちなみに『黒田家文書』ではすべて「だいふさま」とルビが振ってある。
(注11)御縁辺の事→黒田長政養子・松寿丸と義弘の孫娘との縁談のこと。前回記事参照。
(注12)鳥居勘左衛門尉殿→黒田長政の家臣。前回の島津義弘の書状参照。
慶長6年閏11月3日付の書状で、書いた人は前回の島津義弘の書状にも登場した義弘の家老・伊勢貞林(伊勢貞昌の父)です。宛先は黒田長政の家臣・鳥居勘左衛門になっていますが、自分の身分から考えて黒田長政宛にするのは恐れ多いからでしょう。鳥居は長政の使者でもありますから、鳥居からこの文書の内容を長政に伝えてくれる事を期待して書いたと思われます。
内容ですが、島津義弘の処分に関して黒田長政の尽力を感謝する一方で、関ヶ原の合戦は石田三成やその家臣の八十島(助左衛門?)のせいでいやいや西軍に参加したんだ!…と、かなり言い訳臭いです(爆)
今回はここまで。
次回はこの件に関する、ある人物の実に興味深い文書を紹介する予定です。
…などと書いている暇があったらともかく先に進む
ということで、今回も関ヶ原の合戦頃に島津家から黒田家に送られた文書をピックアップ
ただ今回のは前回ほど面白くないかも(ヲイ)
(注1)兵入→「兵庫入道」の略、つまり島津義弘(島津兵庫頭義弘)のこと。でもこの後の文では「惟新」という号で書いたりしてるし、統一取れてないですな(^^;)
以上
其れ以来申し承らず、無言に
罷かり成り候処、御使札に預かり
畏れ入り存じ候。先日伏
見において申し入れ候御報、慥かに
相届き、披見申候。将又
兵入(注1)に到り仰せ越さるる儀共、委曲
承知せしめ候。猶惟新
の所より、申し達すべく候間、詳らかならず候。
恐惶謹言。
羽少将
霜月廿一日 忠恒(花押)
黒田甲斐守殿
御報
<165 島津忠恒書状(10巻14号)>
慶長6年頃11月21日と推定されている文書です。
前回紹介した同じ頃に島津義弘が黒田長政に書いた文書と比較すると、文自体も短いですが、内容が通り一辺倒というか中身がない文章のように感じました。
なんとなくですが、黒田家とのやりとりについて忠恒は父/義弘に一任していて、忠恒はタッチしていない(したくない?)という印象を受けました。皆様如何でしょうか。
あと前回の義弘の文書もそうですが、名乗りが「羽柴兵庫頭」「羽柴少将」となっているのが興味深いです。確か慶長7年頃までは”羽柴”名乗りしてたんだが、その後はきっぱり止めてしまうのだったかな?うろ覚え。
では気を取り直して次の文書の紹介
(注1)甲州様→黒田長政
以上
甲州様(注1)より御礼に預かり畏み
存じ候。仰せの如く、兵庫頭(注2)
進退の事、去んぬる年
上方御弓箭の企(注3)、
曽て以て存ぜず候と雖も、
太閤様以来
秀頼様に到り数通の誓紙を
上げ置き、剰え御高恩を蒙り候事、
今に忘却無きにおいては、人数ならびに出陳致すべき
の由、奉行衆(注4)より
仰せ聞かさるるに就き、力に及ばず在陳せしめ候。
聊か以て惟新私の分別に
あらず候事、最前石田殿(注5)
より右の入り組み共に付き、使として
八十嶋方(注6)さわ山(注7)より伏見へ
差し越され候刻も、存分の
返事申しきられ候いき。今に其の
隠れある間敷く候。既に八十嶋方事、
当分藤堂佐渡守殿(注8)へ
かんにん候故、証語分明たる由、
段々本多佐渡守殿(注9)に到り
申し分くるに依り、佐州御合点
を以て 御前御別儀ある
間敷き由、御誓紙を以て
仰せ下され候。 内府様(注10)より直に
御意を成さるる儀はこれ無く候
え共、先ず以て満足仕り候。誠に
最前以来惟新事に付き、
別して御機遣いを成され、度々において
御使差し越され、御懇志の
段々、我々式にいたるまで
忘却無く、忝く存じ候。弥当家
の事、御入魂を以て
内府様御前別儀無き
様に御取り合わせ成さるべき事、
頼み奉り候。仍って御縁辺の
儀(注11)、鳥居勘左衛門尉殿(注12)口上
ども惟新承られ、御返事
申し入れられ候之間、私の御報
申し上ぐるに能わず候。此等の旨、
漏れ申さしめ給うべく候。恐々謹言。
閏十一月三日 伊勢平左衛門尉
貞林(花押)
鳥居勘左衛門尉殿(注11)
<166 伊勢貞林書状(10巻15号)>
(注2)兵庫頭→島津義弘 今気が付いたが、この文書でも前半では島津義弘を「兵庫」といっているのに後半では「惟新」である 謎。
(注3)上方御弓箭の企→ご存じ関ヶ原の合戦
(注4)奉行衆→いわゆる五奉行…なんだが、関ヶ原の合戦時は浅野長政は隠退、石田三成は隠居させられていたので、残りの三奉行(増田長盛、長束政家、前田玄以)のことである
(注5)石田殿→ご存じ石田三成
(注6)八十嶋方→『黒田家文書 1』解説(p.354)では「石田三成の家臣。」としか書いていないが、名字から見て、関ヶ原の合戦時に島津豊久に追い返された八十島助左衛門と同一人物と見て間違いないのではないだろうか。ご意見お待ちしています。
(注7)さわ山→佐和山城。石田三成の本拠地。
(注8)藤堂佐渡守殿→藤堂高虎。八十島助左衛門(?)が関ヶ原の合戦後藤堂高虎の元に捕まっていたという話は初耳で興味深い。
(注9)本多佐渡守殿→本多正信。
(注10)内府様→徳川家康。ちなみに『黒田家文書』ではすべて「だいふさま」とルビが振ってある。
(注11)御縁辺の事→黒田長政養子・松寿丸と義弘の孫娘との縁談のこと。前回記事参照。
(注12)鳥居勘左衛門尉殿→黒田長政の家臣。前回の島津義弘の書状参照。
慶長6年閏11月3日付の書状で、書いた人は前回の島津義弘の書状にも登場した義弘の家老・伊勢貞林(伊勢貞昌の父)です。宛先は黒田長政の家臣・鳥居勘左衛門になっていますが、自分の身分から考えて黒田長政宛にするのは恐れ多いからでしょう。鳥居は長政の使者でもありますから、鳥居からこの文書の内容を長政に伝えてくれる事を期待して書いたと思われます。
内容ですが、島津義弘の処分に関して黒田長政の尽力を感謝する一方で、関ヶ原の合戦は石田三成やその家臣の八十島(助左衛門?)のせいでいやいや西軍に参加したんだ!…と、かなり言い訳臭いです(爆)
今回はここまで。
次回はこの件に関する、ある人物の実に興味深い文書を紹介する予定です。
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