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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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検索で、このなかに今田の名前がちょこちょこ出ているらしいと言うことを知ったので、入手してみた。

…満州事変関係でしか出てこんかったー_| ̄|○ しかし、1件だけ新規情報発見。
【補遺】 (前略) 加藤惟孝氏は拙文を読まれ、一翰をたまわった。空しく旧翰として束ねて朽ちせしめるに忍びない。特に加藤氏の許しを得てその主な部分をここに記す。
「鈴江氏もさることながら、今度は高江長吉の活字が射るように私の目に入り、夫妻の撃殺云々にいたって大きなショックを受けた次第です。実は高辻氏夫妻は、日中事変の前か後かさえ忘れてしまったのですが、北京で中江さんと私との生活に僅かながら(量的には)触れ合ったことがあります。中江さんは、今田氏や七生社の稲葉氏や満州の笠木良明氏などから紹介されてくる若者をよく受け入れ、武術の話を根掘り葉掘り聞くのが好きでしたが(以下略)」
『衛藤瀋吉著作集』7巻「日本人と中国」p.165
<補足>
加藤惟孝:中江丑吉の弟子。この当時は東京教育大教授
鈴江氏:鈴江言一 中江丑吉の一番弟子にして中国共産党党員(○。○)
高江長吉:衛藤氏のこの論文によると、「元満州国県参事官、一時満州国官僚を辞めるが、その後事情により復職するも、満州国の傀儡ぶりを厳しく糾弾していたかどで地方周りをさせられる。終戦時に夫婦で暴動を仲裁しようとしたが逆に虐殺されたという」。この経歴から見ると大雄峰会系の人物か。
七生社:東京大学に設立された右翼系のグループ。「稲葉」については未詳。
笠木良明:今まで満州事変関連で何度もご出演された大雄峰会のリーダー。
直接今田とは関係ないですが
猪口 森鴎外の場合は、欧文と漢文の素養、それと日本語と3つとも非常にしっかりしている。ところが今はもう漢文の素養がある人はまずいなくなってるし、欧文もいい加減になってる。
衛藤 その意味では、鴎外も素晴らしいけど、漱石、素晴らしいと思う。漱石の漢籍に対する素養、あれは第一高等中学校や何かで養われたんだろうと思うけれど、素晴らしいね。漱石には「木屑録」と言う短い漢文の紀行文があるんですけど、これを郭末若がもう完璧な中国の古典だと言って誉めてるのね。
猪口 でもそれは20世紀の第一次大戦ぐらいで、もうほとんど駄目になったんでしょう。
衛藤 駄目になっていくんですよね。本当駄目になって、猪口、平野の如し(笑)
『衛藤瀋吉著作集』4巻「眠れる獅子」p.314
カントと孟子と今田 「旧き佳き明治の面影」
ばんない含む現代人は日本語ももうかなり怪しくなってる(苦笑)
なお上記の対談に出てくる「猪口」とは猪口孝東大教授、「平野」とは平野健一郎早稲田大学教授

この記述も気になる
浦敬一はロシアのアジア侵略に憤激し、自らその侵略の実情を調査しようと、単身蘭州から西へ旅立って消息を絶ってしまった壮士である。その浦ははじめ、清国と「共同一致親睦」を結んで西洋の侵略を防ごうと考えていたのだが、1994(明治17,光緒10)年に一転し、「大木の虫の蠧したるが如」し、と診断して、清国干渉を一生の目標とするに至る。すなわち 「仮令支那全国を持って我属地とせずとも今日の清朝廷を滅ぼし、其の弊政を改め人心を振起して国勢を盛んにし、我が国と相扶け東洋の大勢を挽回せば欧州と対峙するに足るべく被存候」
『衛藤瀋吉著作集』7巻「日本人と中国」p.252
浦敬一は今田お気に入りのシノロジスト(?)、この後蘭州省に単独偵察に向かい失踪したのは上掲文にもあるとおり。
拙ブログ参考エントリ こちら
さて、西欧列強と国交を開き、そして彼らを学ぶことによって国を強くしよう、ということになれば、そこで当然に欧米の政治制度、政治思想の強い影響を受けることになる。そして新しい西欧的な絶対主義体制の道を歩み始めることにより、急速に近代国家としての様相を呈し始める。
そして自由民権主義運動が出現する。その自由民権運動は、日本の国内政治史では進歩的な、かつ善なる物としてしばしば描かれる。しかし、その自由民権運動の活動家が明治の中期以後、多くが大陸への進出論者であり、大陸浪人としての後半生を辿る。
(中略)
当時、幕末以来の国家的な危機感の中で成長した日本の知識人達は、多く世界の大勢を強弱という軸で考えた。しかも国際社会は弱肉強食の世界である。と同時にまた専制は強であり、自由は弱とも映じた。そして、この専制を、あるいは東洋を侵略した欧米列強の植民地支配に見、あるいはまた朝鮮や清国における権力者に見いだしたのである。とすれば、専制に反対する自由民権論者は弱の側に立って専制とは対決すべきである。しかも自由が正義である以上隣国の自由を足助、断固として自由の側に立たなければならない
(中略)
だから専制を侵すために他国に干渉して何が悪い、ということになるのである。このような括弧付きの「正義」と明治日本人が持っている思春期ナショナリズムが結合したとき、それは大変な国民的エネルギーと成って、朝鮮のみならず中国に対しても爆発した。
このエネルギーの赴くところ、当初は隣国に対する解放ないし独立の役割を果たしながら、たちまち日本のナショナリズムの大波に乗じて、新たなる専制者植民地権力として隣邦の民に臨むのである。およそすべての歴史には光と影がある。日本の近代史もまた光と影に充ち満ちており、その影の部分が、まさに、強者として隣邦に臨んだ傲然たる近代日本の軌跡となったのである。
この歴史の光と影の論理を十分に理解すれば、何故かつての自由民権の闘士たちのうちその多くが、明治中期以後、大陸進出の急先鋒となり、偏狭な愛国者に変化していったかもまた理解されるであろう。これを無理に、あれは侵略主義者、これはアジア主義者というふうに峻別することは歴史の真実ではない。日本人の対外態度を決定する座標軸が、あるいは東洋対西洋という軸となり、あるいは専制対自由という軸になり、人により時に応じてその軸が変わっていく。しかし大多数の同時代の日本人にとっては、日本が富強になることは、強い西洋に対して弱い東洋が立ち上がることであると理解されたし、台湾や朝鮮の植民地化は圧政に対する近代的な統治の導入と理解されたのである。
もちろんこれら同時代の多くの日本人の発想は虚妄であり、現実は遙かに醜い物であった。そして強者ナポレオンの軍隊がいったんは解放軍としてイタリアに入りながら、たちまち圧制者と化したこと、ソ連軍が解放軍として東ヨーロッパに入り、たちまちソ連流社会主義の鉄の枠をはめてしまったことなど、そういった歴史の諸現象と同じ軌跡を辿ったことは、否定できない鉄のような事実である。
『衛藤瀋吉著作集』第7巻「日本人と中国」p.248~250
衛藤瀋吉の文章は非常にこなれていて、素人の私でも読みやすかったです(そういう文を書くように心掛けていたとのこと 『衛藤瀋吉著作集』第8巻)。
ちなみに衛藤瀋吉の父は、あの満鉄の中央図書館の館長を勤め、満州国での学問の興隆に貢献していましたが、後に満州事変が関東軍の陰謀という事実を知ってしまい、傷心の内に仕事を投げ出し日本に帰国したという履歴があるそうだ(『石原莞爾 生涯とその時代』)。

あと衛藤瀋吉は佐藤栄作を高く評価されてるようなんですが、高島辰彦調べてるときに、この佐藤が"昭和の天才"仲小路彰をブレーンにしていたちう話を知りまして…何となく微妙(^^;)

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