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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今回紹介するのは表題の本。
昭和12年~昭和13年、石原莞爾が参謀本部作戦部長となり、軍での権勢のピークを迎えた後、自らを左遷して関東軍参謀副長となり、東条英機と対立して失脚するまでを、莞爾が残したかなり汚い筆跡のヾ(^^;)メモ帳を元にたどったものです。
…いや、本当に汚いんだから(^^;) これ後で本人読めたのかしら

これに今田が何カ所か登場するようです。
後今田が関係ない部分でも興味深い文はピックアップしていきたいなと。

ではまいる。

昭和12年9月28日、石原はこの日、三宅坂の参謀本部を去った。高級参謀の高嶋辰彦に会うと、「俺もとうとう追い出されたよ」と破顔一笑した。高嶋は無念の涙をこらえて、顔を伏せて見送った。
p.25
高嶋辰彦は今田とは陸軍士官学校、陸軍大学校で同期で親友だった人物。この時は同じ参謀本部作戦計画課に所属していて、莞爾の直属部下だった。
但し、上記で莞爾は「追い出された」と言っているが、実際は不拡大路線を主張した物の全面的に孤立してしまい、本人自ら関東軍転出を決めたというのが真実らしい(同書p.24~25)。
北支さわぐな 津○やれ
今田少佐
p.51
これだけでは何の事やらさっぱり分からないが、「北支」とは北支那派遣軍のことであり、そこから参謀本部に派遣要請があったのだが、どうもそれを今田新太郎に断らせたらしい。
なお、メモ帳の同じページには満州での航空燃料開発のデータがびっしり書いてあったようだ。日満産業5ヶ年計画で頭いっぱいの莞爾。
ソ連情報は前モスクワ駐在で、現在は参謀本部第一部戦争指導課参謀の堀場一雄大尉(35期)と第二部(情報部)ロシア班による。堀場は石原莞爾によって参謀本部に迎えられるまで(3月1日付)、極東ソ連からモスクワ及びヨーロッパ各地を視察し、参謀本部に現状を報告した。ソ連の戦力、組織力、経済力を最も知る陸軍情報大尉である。
特に堀場の調査力と統計的な資料の分析処理能力は、陸軍省内でもずば抜けていた。石原は、10年8月に参謀本部作戦課長となるが、その日以来、ソ連から送られる極東ソ連及びモスクワの情報から、片時も目を離さなかった。
中でもソ連の五ヶ年計画の進み具合や、鉄鋼供給、石油資源の開発、軍需産業、輸送力などの調査報告は、驚くほど詳細で、石原自身も分析している。今回の堀場の報告は、これまでの対ソ連観を一変させる内容だった。
なかでも、ソ連極東軍の兵力装備の調査には、流石の石原も圧倒された。
堀場の他に、ロシア班の甲谷悦雄大尉のソ連情報も、堀場の調査を補足するに十分だった。堀場は多くの情報員を使った。その中の何人かはスパイ容疑で殺されるなど、多くの血を流している。
p.61
実はまだ堀場一雄の伝記『或る作戦参謀の悲劇』を読んでないので余り堀場さんのことは知らなかったのだが、すげーじゃん。服部卓四郎と西浦進とこの人で三羽がらすって、堀場さんに対して失礼なんじy(以下自粛)しかし、こんな丸顔の温厚な感じなのに情報員を使いまくって、何人かは殺害されたんですか…結構えげつないな…
甲谷悦雄という人も、戦後は公安調査庁に移ってソ連分析に精出してたという切れ者らしい。
陸軍省に軍務局軍務課が新設されたのは昭和11年8月1日。それまでは軍務局(永田鉄山局長)の下には軍事課のみだった。
軍務課は陸軍の政策を決定する重要なポスト。12年3月の定期異動で、石原が推薦した河辺虎四郎に変わって、河辺とは同期の柴山兼四郎が軍務課長になる。更に9月の移動で和気忠夫と交代するなど、11年、12年は慌ただしい異動があった。
p.78
<毎度恒例当てにならない解説>
・河辺虎四郎 もう何回もご出演された切れ者。この後戦争指導課長になって、とっても苦労する羽目に。
・柴山兼四郎 参考こちら
・和気忠夫 詳細不明 皆様の御教示宜しく御願いします
十月一日
今田氏、東宮伝言
一、軍事調査部、政治部、宣伝よし
二、兵力を縮小→産業開発に
  給養を良好に、呉○○の度三十円
三、日系軍官、贈賄
  ↓私的道徳不良、岸亮一にゆすり
  一年志願兵出身不可
四、顧問手当
------
五、顧問の整理
  独立守備参謀を顧問兼務
p.86~87
著者の早瀬氏による解説では
「今田氏、東宮伝言」:参謀本部にいる今田新太郎からの電話のことだろう
「一、軍事調査部~産業開発に」:軍事調査は終了した、兵力を縮小して満州の産業開発に回すように
「三、日系軍官、贈賄~顧問手当」:日系軍官の間で贈賄をする者がいて、モラルが悪い、顧問(軍事教官)を整理しないといけない。
「五、顧問の整理」:それならいっそ、独立守備隊の参謀達を顧問に兼務させたらどうか→これは石原莞爾の考えである。
最初の「東宮」というのが気になる。まさかこの人のことか。でも東宮鉄男はこの年(昭和12年)の8月には内地に転勤になり11月には戦死してるようだし、時期的に合わないか。
片倉衷は昭和6年、旭川の7師団から関東軍にスカウトされた。それも7師団の師団長や参謀長を通さずに、陸軍省人事局から発令され、「事情不明、半信半疑」(今岡豊「石原莞爾の悲劇」)のまま、満州の関東軍へ移った。どうやらこの人事は、石原が片倉ほしさに、旭川の師団長とは相談無く、頭越しにやった物だと言われる。
p.96
え、そーなん?片倉は石原のスカウトだったん?
昭和12年3月、石原は部長になると、ソ連駐在から帰朝して戦争指導課(石原が新しく作った課)員となった堀場一雄大尉(34期)に日満産業五ヶ年計画の推進を託し、石原は側面から支持してきた。
起案してから約1年後の12年5月、「重要産業五ヶ年計画要綱」がまとまり、参謀本部は陸軍省に移して、法案化を要望した。陸軍省はこの要綱をあらかじめ政府に提出。6月15日、近衛内閣は閣議で、参謀本部起案の要綱による五ヶ年計画を決定し、同時に陸軍が研究していた国防五ヶ年計画も取り入れて立案することになる。
「重要産業五ヶ年計画」では、戦時下の陸軍の兵力を正規60個師団、次等30個師団、合計90個師団、航空兵団250中隊を、海軍の兵力は艦隊が現有勢力の約2倍、海軍航空は陸軍と同等を想定している。
この計画は、昭和12年度より16年度の五ヶ年を第1次として、それ以降を第2次計画とした。なかでも、満州における製鉄、電力の生産力を昭和11年より2~3倍、飛行機は10倍に上げるという生産拡充計画である。自給自足によって国防の独立を確保しようという石原の考えだった。
しかし12年7月、蘆溝橋事件で大狂いした。陸軍省提案の国防五ヶ年計画案を取り入れて一つ前進した「重要産業五ヶ年計画」は、暗礁に乗り上げて凍結、やっと14年1月に企画院案として、その姿も「生産力拡充計画要綱」として決定されるが、結果的には遅く、16年の太平洋戦争には間に合わなかった。
p.176~177
東亜連盟は、昭和6年から満鉄社員や文治派の満州人の間で「東亜連邦」「東亜連盟」の呼称が唱えられていた。昭和8年3月9日、満州国協和会が「王道主義に基づく建国精神を普及徹底させ、民族協和を東亜に広める」と声明を発表する前から、満州人の間でスタートしていた。
石原は13年に満州を去るときから、日本の協和会本部(東京)で、東亜連盟を広める構想を持っていた。会員を広く集め、機関誌「東亜連盟」(月刊誌)を発行して中国本土まで広める考えである。
月刊誌の「東亜連盟」が創刊されるのは昭和14年秋で、創刊後は毎月発行された。多いときで会員は10万人に達した。
「東亜連盟」の題字を書いたのは板垣征四郎である。創刊の辞は、戦後国務大臣になる木村武雄であった。
同志の中で、執筆したのは「満州五ヶ年計画」の立案者、宮崎正義、満州国公使の中山優、国柱会の里見岸雄、協和会の金子定一、神田栄一、それに石原莞爾など14名。
(中略)
第2号目は昭和14年12月号だが、この号の題字は公爵近衛文麿が書いている。題字は毎号、人が変わった。3号目は陸軍大将本庄繁、4号目は陸軍大臣畑俊六である。その後は内閣総理大臣米内光政(海軍大将)と続く。
もっとも企画から編集の中心になったのは宮崎正義と木村武雄で、執筆者は多岐にわたる。満州国総理の張景恵、国民政府院長の汪兆銘、農民運動家の加藤完治、その他主なところでは安岡正篤、多田駿(前参謀本部次長)、三木清(哲学者)、鈴木文史朗(朝日新聞)、国民党の重鎮・繆斌、作家の尾崎士郎、朝日新聞記者の尾崎秀実、右翼の児玉誉士夫などもいる。
p.227~228
晩年の石原莞爾が熱を上げた「東亜連盟」運動ですが、会報書いた人みると右から左までバラエティにとんでるのな。
<あてにしないで欲しい解説>
・板垣征四郎 有名すぎる満州事変での石原莞爾の相方。十河信二曰く「板垣陸軍大臣が駄目なのは石原を次官に付けないからです!」
・木村武雄 戦前も戦後も国会議員。石原莞爾が軍人でおおっぴらに政治活動できないので、取りあえず名目上東亜連盟の会長になってもらった人。
・宮崎正義 満鉄調査部研究員から石原莞爾のスカウトで先述の5ヶ年計画の立案に当たるが、莞爾の失脚の煽りで不遇な晩年を送る。経済計画の立案能力はモスクワ仕込みですごかったらしい。
・中山優 建国大学教授。石原莞爾の面前で「柳条湖事件って関東軍の自演だったんでしょ」とズバリな指摘をしたコワイ物知らず
・里見岸雄 莞爾が信者になっていた国柱会の教祖・田中智学の3男。莞爾の親友。名字が違うのは養子に出されたから。
・金子定一 陸軍少将、のち衆議院議員。石川啄木の同級生。くわしくはこちら
・神田栄一 不詳
・近衛文麿 有名なので書くこと無いが、莞爾との因縁は『反逆の獅子』等でも詳しい。
・本庄繁 柳条湖事件時に関東軍司令官だったと言う巨大な貧乏くじを引いた人。莞爾の才能は誉めつつも、「厄鬼」と言ってたとか。
・畑俊六 板垣征四郎の次の陸軍大臣。実は多田駿が内定していたのだが、昭和天皇の鶴の一声でひっくり返りこの人になる。その後、陸軍の幹部の前で「陸軍は昭和天皇の不信をかっている」と言って怒られる。事実を言ってどこが悪いのだ(ヲイ)東条英機vs石原莞爾の仲裁に心労を重ねたらしい(『毅然たる孤独』)
・米内光政 有名すぎて書くこと無い…が、確かトラウトマン工作とかその他諸々、莞爾とは不仲だったような…
・張景恵 こういうひと
・汪兆銘 こういう気の毒な人
・加藤完治 東宮鉄男とタッグを組んで満州への武装移民を推進した人 外見は仙人風。
・安岡正篤 有名すぎて書くこと無い あの細木数子の夫だったって本当か
・多田駿 参考こちら
・三木清 こういう人。敗戦後1ヶ月経っても釈放されず獄死したという悲劇の哲学者。
・鈴木文史朗 こういう人
・繆斌 敗戦直前の最後の和平交渉の窓口になった人 参考こちら
・尾崎士郎 有名な作家さんで書くこと無い(^^;)実は水野成夫の友達なので間接的に今田とつながりがある(直接面識があったかどうかは不明)
・尾崎秀実 有名すぎて書くこと無い。ゾルゲ事件。実は今田の親友・中江丑吉の友達の一人。
・児玉誉士夫 この人も有名すぎて書くこと無い。ロッキード事件。
最初の訪問先が四国とあるのは、高松には田中久(元大佐)がいたからである。田中久は高松の生まれで、最初に満州で参謀長東条の刺殺に走った一人である。刺殺は失敗に終わり、このため軍を辞め、高松に引きこもっていた。その後、田中は高松を中心に、四国全域で東亜連盟運動を展開した。
p.292
実は『石原莞爾 生涯とその時代』を読んだときに時々この「田中久」ちう人が出てくるのだが、検索してもさっぱり分からなかったのだが…初代東条英機暗殺計画犯かよ。よく軍を辞めただけですんだな。
(名刺)
「拝啓、只今田中君より大兄の御近状、特に近来ご健康を回復せられたるを知り
中心より喜び、且つ安神仕○候、小生御陰様
 <陸軍大佐 安江仙弘>
にて元気、静かに民族の研究を続け居り候
                   11月12日
石原中将閣下」
(中略)
p.316~317
安江仙弘はもしかすると日本よりイスラエルの方で有名かも知れない、満州でユダヤ人へのビザを大量発行した人。この頃(昭和13年11月)は大連特務機関長。この後、この人も東条英機とケンカして予備役になってしまう。しかし、その後も満州で暮らしたため、敗戦後ソ連に連行され悲劇的な最期を遂げた。ユダヤ人フェチとして有名で、「静かに民族の研究」というのも、当然ユダヤ人研究のことなんだろう。
ところで、著者の早瀬利之氏は「安江は今田新太郎と会い、石原の健康状態を聞き、旧友石原を訪問している。」(p.318)と書いてられるが、この文をみると「只今田中君(ただいま田中君)より大兄の御近状」と読めるので、別人と混同しているのでは無かろうか。



主な関係分は以上。
正直言って文体に独特の癖のある人で、解説文がちょっと読みにくかったかな。でも貴重な資料であることは変わりないんで…(あのゴミのような文字ヾ(--;)を解読したと言うだけでも驚嘆に値する)

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