拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
以前「今田新太郎も気になる。2」で、阪本芳直氏も石原莞爾と今田新太郎のつながりがいつから始まったのか調べたが分からなかった、との旨を書いたのだが、
検索していて非常にアヤシイ記述を見つけた。もしかしてこれか?
つまり、莞爾がベルリンに留学させられてた大正12年(1923年)には既に今田新太郎と莞爾の間に接点があったということになる。
…
どうやって知りあったのよヾ(^^;)
なお、今田新太郎は東京出身ですが、陸軍幼年学校は仙台幼年学校に通ってました。ので莞爾の後輩という事になります。
<追記>
上記の文章の確認のため、『石原莞爾選集2 ベルリンから妻へ』取り寄せてみました。
なお、この他に今田が出てこないか読んでみたのですが、どうも出てないっぽい。しかも、この後ご存じの関東大震災があり、莞爾は親戚や友人いろいろのことを案じているのですが、その中に今田のいの字も出てこないので、この頃はまあそれくらいの間柄だった、ってことでしょうね。
検索していて非常にアヤシイ記述を見つけた。もしかしてこれか?
锑子君ノ懇切ナル御骨折一一対シ押火様、今田新太郎君及ビ五月十三日綈子君ノ御これ、『石原莞爾選集2 ベルリンから妻へ』の一節。
手紙ロロ「戦争カ平和カ」到着。帯伯林人士ノ遊覧所也。
http://books.google.co.jp/books?ei=7AeCUZeuMsaOlQXaq4C4Ag&hl=ja&id=zLvTAAAAMAAJ&dq=bibliogroup%3A%22%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE%E9%81%B8%E9%9B%86%22&q=%E4%BB%8A%E7%94%B0#search_anchor
つまり、莞爾がベルリンに留学させられてた大正12年(1923年)には既に今田新太郎と莞爾の間に接点があったということになる。
…
どうやって知りあったのよヾ(^^;)
なお、今田新太郎は東京出身ですが、陸軍幼年学校は仙台幼年学校に通ってました。ので莞爾の後輩という事になります。
<追記>
上記の文章の確認のため、『石原莞爾選集2 ベルリンから妻へ』取り寄せてみました。
(大正12年)六月二十一日おおむね間違いないようです。
(中略)
押火様、今田新太郎君、及ビ五月十三日テイ子君ノ御手紙□□「戦争カ平和カ」到着
(以下略)
p.118
なお、この他に今田が出てこないか読んでみたのですが、どうも出てないっぽい。しかも、この後ご存じの関東大震災があり、莞爾は親戚や友人いろいろのことを案じているのですが、その中に今田のいの字も出てこないので、この頃はまあそれくらいの間柄だった、ってことでしょうね。
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