拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
本文に日付がありませんが、天正18年6月頃に詠まれた物と思われます
あれ?もしかして女性宛に挽歌書いたの、増えた?ヾ(^^;)
この挽歌を捧げられた足利義輝正室とは近衛前久の妹(実名不詳)です。
義輝の母も近衛家出身で前久の叔母(慶寿院)に当たりますが、この人は息子と一緒に戦死しました。
義輝夫人に義久が挽歌を送ったのは、義輝に偏諱をもらったと言うこともありますが、近衛家の関係者であるという事情もあるかと推測されます。
ちなみに最後の将軍・足利義昭が亡くなったとき(慶長2年)には義久は全くの無反応でした。挽歌書いてたけど単に残らなかったのかも知れないが。
関連ネタ 1 2
「義久公御譜中」
一将軍家義輝光源院殿後室大陽院殿かくれさせ給ひし時読之、御霊前にそなへ奉るなり、
「在御文書方」
末の露消にし野辺の跡とへは
なをもとつ葉を忍ぶ草かな
(「薩藩旧記雑録 後編」2-669)
あれ?もしかして女性宛に挽歌書いたの、増えた?ヾ(^^;)
この挽歌を捧げられた足利義輝正室とは近衛前久の妹(実名不詳)です。
義輝の母も近衛家出身で前久の叔母(慶寿院)に当たりますが、この人は息子と一緒に戦死しました。
義輝夫人に義久が挽歌を送ったのは、義輝に偏諱をもらったと言うこともありますが、近衛家の関係者であるという事情もあるかと推測されます。
ちなみに最後の将軍・足利義昭が亡くなったとき(慶長2年)には義久は全くの無反応でした。挽歌書いてたけど単に残らなかったのかも知れないが。
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