拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
12月
1日 北郷讃岐守(注1)と早朝に話し合い
2日 申刻に清水へお参り、戌刻にご帰宅。大雪だったので道中の難儀は言うに及ばず…
3日 早朝にご出発され(注2)、北野(注3)へお参り、この日も終日雪だった
4日 ひび野(注4)へお参り、この晩幽斎にお願い、武庫様もご出席、石田殿もやってきて、薩・隅辺りの領地処分について。
この日、青蓮院様においとまごいをしに行ったが留守とのことだった。途中で出会うのも道理かと(注5)、
雑事など嘉竺(注6)へ申しつけられ、駕籠で帰られた。
5日 石田殿(注7)、御家門様(注8)へお暇乞いのために出られた。この日、幽斎その他おいとまごいをする人が多数やってきた
6日 辰刻に京を出発、東寺の茶屋の人がお酒をプレゼントしてくれた。鳥羽から船で大坂へ、大坂には戌刻到着
7日 <空欄>
8日 住吉(大社)へお参り、この日龍山様から馬をプレゼントしてもらう
9日 <空欄>
10日 <空欄>
11日 <空欄>
12日 武庫様のお宿へ用があると、終日
13日 この日、平戸肥州(注9)が御字を申請する刀
14日 御前からも、腰刀をプレゼントした
15日 舟本(注10)までおいでになったよ、すぐに武庫様のお宿でご対面、宴会はなし
16日 武庫様が上洛されました。急なこと。その理由は東国の方で一揆が起きたことらしい。中納言殿(注11)、石田殿、真下殿(注12)が出発されるとの話を聞かれてご出発されたとか。この日、大雪だった。
注1:北郷忠虎か?
注2:原文「早朝為御門出」
注3:北野天満宮
注4:該当場所不明
注5:原文「中途迄出合申理」
注6:八木正信 詳細は拙ブログのこの記事参照
注7:ご存じ石田三成
注8:近衛信尹
注9:松浦久信か?
注10:該当場所不詳
注11:不明、小早川隆景? ※豊臣秀次らしい
注12:不明 ※増田長盛らしい
※注11,注12に関してはコメントも併せて参照下さい
1日 北郷讃岐守(注1)と早朝に話し合い
2日 申刻に清水へお参り、戌刻にご帰宅。大雪だったので道中の難儀は言うに及ばず…
3日 早朝にご出発され(注2)、北野(注3)へお参り、この日も終日雪だった
4日 ひび野(注4)へお参り、この晩幽斎にお願い、武庫様もご出席、石田殿もやってきて、薩・隅辺りの領地処分について。
この日、青蓮院様においとまごいをしに行ったが留守とのことだった。途中で出会うのも道理かと(注5)、
雑事など嘉竺(注6)へ申しつけられ、駕籠で帰られた。
5日 石田殿(注7)、御家門様(注8)へお暇乞いのために出られた。この日、幽斎その他おいとまごいをする人が多数やってきた
6日 辰刻に京を出発、東寺の茶屋の人がお酒をプレゼントしてくれた。鳥羽から船で大坂へ、大坂には戌刻到着
7日 <空欄>
8日 住吉(大社)へお参り、この日龍山様から馬をプレゼントしてもらう
9日 <空欄>
10日 <空欄>
11日 <空欄>
12日 武庫様のお宿へ用があると、終日
13日 この日、平戸肥州(注9)が御字を申請する刀
14日 御前からも、腰刀をプレゼントした
15日 舟本(注10)までおいでになったよ、すぐに武庫様のお宿でご対面、宴会はなし
16日 武庫様が上洛されました。急なこと。その理由は東国の方で一揆が起きたことらしい。中納言殿(注11)、石田殿、真下殿(注12)が出発されるとの話を聞かれてご出発されたとか。この日、大雪だった。
注1:北郷忠虎か?
注2:原文「早朝為御門出」
注3:北野天満宮
注4:該当場所不明
注5:原文「中途迄出合申理」
注6:八木正信 詳細は拙ブログのこの記事参照
注7:ご存じ石田三成
注8:近衛信尹
注9:松浦久信か?
注10:該当場所不詳
注11:不明、小早川隆景? ※豊臣秀次らしい
注12:不明 ※増田長盛らしい
※注11,注12に関してはコメントも併せて参照下さい
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16日条
こんにちは。
16日条ですが、
中納言:羽柴秀次
真下:増田長盛
ではないかと。
先日の秀吉消息、家久に関する記述の最後の部分、意味がよくわかりませんね。校注者は文字の脱落があるのではとしていますが……。
16日条ですが、
中納言:羽柴秀次
真下:増田長盛
ではないかと。
先日の秀吉消息、家久に関する記述の最後の部分、意味がよくわかりませんね。校注者は文字の脱落があるのではとしていますが……。
ご指摘感謝>16日条
こんばんは。
>中納言:羽柴秀次
>真下:増田長盛
>
>ではないかと。
なるほど、確かに小早川隆景が中納言になるのは文禄4年(権中納言ですが)ですし、「真下」は「増田(ました)」の当て字ですね。
>秀吉消息
そのまま読むと
「ことごとく、異変いさせ」
となりますが、何とも意味が通らない文章です。それとも、現在では考えられない解釈をするのでしょうか?
>中納言:羽柴秀次
>真下:増田長盛
>
>ではないかと。
なるほど、確かに小早川隆景が中納言になるのは文禄4年(権中納言ですが)ですし、「真下」は「増田(ました)」の当て字ですね。
>秀吉消息
そのまま読むと
「ことごとく、異変いさせ」
となりますが、何とも意味が通らない文章です。それとも、現在では考えられない解釈をするのでしょうか?
いへんいさせ
ばんないさん
問題の個所ですが、翻刻間違いでないとすれば、秀吉の書き損じか、何文字かの脱漏があるのかもしれませんね。
文脈上から類推すれば、家久が大坂にいるので、薩摩・大隅両国を与え、許し、ことごとく○○○させる、というわけですが、
あくまで愚見として、
悉く何辺居させ、
という風に読めるかも知れません。
「いへん」に脱漏があり、「いづれへん」(何辺)ではないかというものです。
誰かをどこかに移して居させるというわけですが、家久とその娘だとすれば、「ことごとく」はオーバーな表現なので、島津一族や重臣たちの人質をまとめて(=ことごとく)、どこかに集めるという意味にとれないかとも思います。
あくまで当て推量です。
問題の個所ですが、翻刻間違いでないとすれば、秀吉の書き損じか、何文字かの脱漏があるのかもしれませんね。
文脈上から類推すれば、家久が大坂にいるので、薩摩・大隅両国を与え、許し、ことごとく○○○させる、というわけですが、
あくまで愚見として、
悉く何辺居させ、
という風に読めるかも知れません。
「いへん」に脱漏があり、「いづれへん」(何辺)ではないかというものです。
誰かをどこかに移して居させるというわけですが、家久とその娘だとすれば、「ことごとく」はオーバーな表現なので、島津一族や重臣たちの人質をまとめて(=ことごとく)、どこかに集めるという意味にとれないかとも思います。
あくまで当て推量です。
いへんい仮説
横合いから失礼します。興味を持ったので、私なりに考えてみました。
ここの部分、条書であった前項と全く異なる内容となっていますよね。第1条を除いて「~事」で終わっているものが、「いへんいさせ」で途切れています。宛所が欠けていることから、この後に何か続いたのかも知れません。とはいえ、追而書をたっぷり書こうと思って右を空け過ぎ、最後の条項で紙幅が足らないことに気づいた可能性の方が高いように思えます。
本来であれば、
「一、島津中書女子を連れ、在大坂致し候事、
右を以て、薩摩国・大隈両国取らせ、ゆるしまいらせ候、」
と締める筈が、慌ててつなげた結果おかしなことになったのではないかと……。そうなると、「ことごとくいへんいさせ」は返し書きの冒頭ともつながるかも知れません。「昨日薩摩の国より肥後の国まで退き申し候間、御心やすく候べく候」との関係を考慮すると、
1島津氏からの人質はこういう構成である
2薩摩・大隈を島津領として赦免した
3「ことごとくいへんいさせ」
4薩摩から肥後へ撤退したので安心してほしい
ということで、島津氏への赦免と薩摩国からの撤退の間をつなぐものとして、「いへんい→いへゐ→家居」という仮説を考えてみました。「ゐ」が「んい」になっているのは見かけたことがないのですが、秀吉と北政所の間では成り立っていたのかもと。『家居』を全島津方の帰宅=武装解除とすると、上記3とも適合します。敵方が臨戦状態にあるのに「退き申し」では敗退になってしまいますが、武装解除後であれば戦勝後の撤収になりますから。
あくまで仮説ではありますが、ご参考になれば幸いです。
ここの部分、条書であった前項と全く異なる内容となっていますよね。第1条を除いて「~事」で終わっているものが、「いへんいさせ」で途切れています。宛所が欠けていることから、この後に何か続いたのかも知れません。とはいえ、追而書をたっぷり書こうと思って右を空け過ぎ、最後の条項で紙幅が足らないことに気づいた可能性の方が高いように思えます。
本来であれば、
「一、島津中書女子を連れ、在大坂致し候事、
右を以て、薩摩国・大隈両国取らせ、ゆるしまいらせ候、」
と締める筈が、慌ててつなげた結果おかしなことになったのではないかと……。そうなると、「ことごとくいへんいさせ」は返し書きの冒頭ともつながるかも知れません。「昨日薩摩の国より肥後の国まで退き申し候間、御心やすく候べく候」との関係を考慮すると、
1島津氏からの人質はこういう構成である
2薩摩・大隈を島津領として赦免した
3「ことごとくいへんいさせ」
4薩摩から肥後へ撤退したので安心してほしい
ということで、島津氏への赦免と薩摩国からの撤退の間をつなぐものとして、「いへんい→いへゐ→家居」という仮説を考えてみました。「ゐ」が「んい」になっているのは見かけたことがないのですが、秀吉と北政所の間では成り立っていたのかもと。『家居』を全島津方の帰宅=武装解除とすると、上記3とも適合します。敵方が臨戦状態にあるのに「退き申し」では敗退になってしまいますが、武装解除後であれば戦勝後の撤収になりますから。
あくまで仮説ではありますが、ご参考になれば幸いです。
家居
高村さん
はじめまして。
コメント拝見しました。
なかなか興味深いご意見ですね。
本文末尾が尻切れで終わっているのは、尚々書に続くためというのはなるほどと思いました。
「家居」という読みも魅力的な解釈ですね。
武装解除というのは現実的でない気がしますが、降伏したのち、人質を出してそれぞれの居城で謹慎ということなら、ありえそうです。
大変勉強になりました。
桐野
はじめまして。
コメント拝見しました。
なかなか興味深いご意見ですね。
本文末尾が尻切れで終わっているのは、尚々書に続くためというのはなるほどと思いました。
「家居」という読みも魅力的な解釈ですね。
武装解除というのは現実的でない気がしますが、降伏したのち、人質を出してそれぞれの居城で謹慎ということなら、ありえそうです。
大変勉強になりました。
桐野
口語表現
桐野様
コメントへのご返信ありがとうございます。こちらこそ色々と勉強させていただいておいます。ご指摘の通り、さすがに武装解除までは行かないですよね。失礼しました。
現在ちょうど解釈を試みている文書の中に、北条氏政が弟の氏邦に「はやぬた」という言葉を使っているものがあります。文語だと「早計」とか「浅慮」とするものを、兄弟間の気安さからか、口語っぽい表現にしているのが印象に残っていました。これが頭にあったので『家居』を思いついた次第です。
「いへんい」については今後も留意してみようと思います。
コメントへのご返信ありがとうございます。こちらこそ色々と勉強させていただいておいます。ご指摘の通り、さすがに武装解除までは行かないですよね。失礼しました。
現在ちょうど解釈を試みている文書の中に、北条氏政が弟の氏邦に「はやぬた」という言葉を使っているものがあります。文語だと「早計」とか「浅慮」とするものを、兄弟間の気安さからか、口語っぽい表現にしているのが印象に残っていました。これが頭にあったので『家居』を思いついた次第です。
「いへんい」については今後も留意してみようと思います。
妙満寺文書
こんばんは。
お二人の会話に全くついて行けてない私です(滝汗)
そもそもの発端になったこの秀吉の消息は妙満寺文書の中に含まれているとのことですが、この妙満寺って京都市左京区岩倉にある妙満寺のことでしょうか?
もしそうなら京都市歴史資料館で写真で翻刻版が見られそうなんですが(URL参照)。
原文を見ると不可解な謎も解けるかも。
…もっとも翻刻版が見られたとしても、私は崩し字が読めないのですが(涙)
お二人の会話に全くついて行けてない私です(滝汗)
そもそもの発端になったこの秀吉の消息は妙満寺文書の中に含まれているとのことですが、この妙満寺って京都市左京区岩倉にある妙満寺のことでしょうか?
もしそうなら京都市歴史資料館で写真で翻刻版が見られそうなんですが(URL参照)。
原文を見ると不可解な謎も解けるかも。
…もっとも翻刻版が見られたとしても、私は崩し字が読めないのですが(涙)
「いへんい」
こんばんは。
秀吉消息のなかにあった「いへんい」という難物ですが、秀吉の別の朱印状案(文禄4年7月20日付)があり、秀次事件後の知行替えや加増を記したものです。
石田三成以下子飼いの大名に対する加増を「○万石かさおん」と何カ所も記しています。
「かさおん」の注記は「加増」となっており、朱印状の趣旨からそれは間違いないと思います。
秀吉か右筆には、ある単語の末尾に「ん」を付ける癖があったことがわかります。当時の名古屋弁かもしれませんが(笑)。
それで、「いへんい」のヒントにもならないかと思っています。
つまり、「いへ・ん」でいったん切り、「い」が続くのかと。高村さんご指摘のように「家居」と読むのが一番自然かもしれませんね。
秀吉消息のなかにあった「いへんい」という難物ですが、秀吉の別の朱印状案(文禄4年7月20日付)があり、秀次事件後の知行替えや加増を記したものです。
石田三成以下子飼いの大名に対する加増を「○万石かさおん」と何カ所も記しています。
「かさおん」の注記は「加増」となっており、朱印状の趣旨からそれは間違いないと思います。
秀吉か右筆には、ある単語の末尾に「ん」を付ける癖があったことがわかります。当時の名古屋弁かもしれませんが(笑)。
それで、「いへんい」のヒントにもならないかと思っています。
つまり、「いへ・ん」でいったん切り、「い」が続くのかと。高村さんご指摘のように「家居」と読むのが一番自然かもしれませんね。
妙満寺、「かさおん」
高村様
実は妙満寺は実家の近くにあるお寺で(苦笑)窓から不可思議な仏塔がよく見えてます。元々は別の場所にあったのですが、最近お騒がせの防衛大臣の義父の「列島改造計画」政策の余波で市中からこちらに引っ越したようです。
ここがそんな文書を持ってる(らしい)という事を今回初めて知って驚いてます。秀吉との縁がありそうなお寺には思えなかったので。今では文頭に書いた妙な仏塔と、実物を見たらみんながっくりの「安珍清姫の鐘」と、「雪の庭」で有名でしょうか。
桐野さん
名古屋弁だとしたら、秀吉の口癖だったのかも知れませんね(苦笑)
今ふと思いついたのですが、もしかしたら『日葡辞書』に載ってるかなあ…とか。
実は妙満寺は実家の近くにあるお寺で(苦笑)窓から不可思議な仏塔がよく見えてます。元々は別の場所にあったのですが、最近お騒がせの防衛大臣の義父の「列島改造計画」政策の余波で市中からこちらに引っ越したようです。
ここがそんな文書を持ってる(らしい)という事を今回初めて知って驚いてます。秀吉との縁がありそうなお寺には思えなかったので。今では文頭に書いた妙な仏塔と、実物を見たらみんながっくりの「安珍清姫の鐘」と、「雪の庭」で有名でしょうか。
桐野さん
名古屋弁だとしたら、秀吉の口癖だったのかも知れませんね(苦笑)
今ふと思いついたのですが、もしかしたら『日葡辞書』に載ってるかなあ…とか。
日葡辞典
桐野様・ばんない様
「かさおん」の情報びっくりしました。訛っているというか……通じるのかぎりぎりかも知れません。
日葡辞典と時代別辞典は、近所の図書館に何故かあります。今日時間が空いたので、見てきました。
『いへゐ』
【Iyei】人が自分の家にいること。また、家を造り、管理しながら、そこに住むこと。
『かぞう』
【Cazô】 加え増す。増加すること。
※ポルトガル語のôは「0u」と読むようです。
こちらでは「ん」が入る余地はなさそうです。
1552(天文21)年に加藤延隆が次男を叱った書状(http://rek.jp/?p=2286)で「折角」と思われる語を「せんかく」としていますから、ご指摘のように「いへんい」「かさおん」は尾張独特の言い回しでよいと思います。
妙満寺文書には上杉謙信書状もあるようです(岐阜県史)。奇妙な塔のことは初めて知りました。京に行く機会があれば見てみたいです。
「かさおん」の情報びっくりしました。訛っているというか……通じるのかぎりぎりかも知れません。
日葡辞典と時代別辞典は、近所の図書館に何故かあります。今日時間が空いたので、見てきました。
『いへゐ』
【Iyei】人が自分の家にいること。また、家を造り、管理しながら、そこに住むこと。
『かぞう』
【Cazô】 加え増す。増加すること。
※ポルトガル語のôは「0u」と読むようです。
こちらでは「ん」が入る余地はなさそうです。
1552(天文21)年に加藤延隆が次男を叱った書状(http://rek.jp/?p=2286)で「折角」と思われる語を「せんかく」としていますから、ご指摘のように「いへんい」「かさおん」は尾張独特の言い回しでよいと思います。
妙満寺文書には上杉謙信書状もあるようです(岐阜県史)。奇妙な塔のことは初めて知りました。京に行く機会があれば見てみたいです。
無題
初めてコメントします。
あの・・・武庫様も(注)入れた方がいいかも・・・
普通の人は武庫様=島津義弘って知らないです。
まぁ、ここに来る人なら大丈夫だろうけど、広く紹介したいならいると思う^^;
あの・・・武庫様も(注)入れた方がいいかも・・・
普通の人は武庫様=島津義弘って知らないです。
まぁ、ここに来る人なら大丈夫だろうけど、広く紹介したいならいると思う^^;