先日桐野氏から紹介された物です。
読んでみると中々に興味深い内容なので、拙ブログで全文紹介
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結構長い_| ̄|○ 頑張って入力します…
前回の拙記事でだいたいの解説は済んでいるが、前回では分からなかった部分など追記昨日薩摩の国より肥後の国まで退き申し候間、御心やすく候べく候。六月五日頃に筑前の国博多まで参り申すべく候。これは、はや/\半分退き申し候。大坂へは半分道にて候。博多にて普請申しつけ、六月中にて門司、七月は十日頃に大阪へ帰り申すべく候。御心安く候べく候。壱岐・対馬の国まで人質を出だし、出仕申す事。又、高麗の方まで日本の内裏へ出仕申すべきよし、早船を仕立て申しつかはせ候。出仕申さず候はゞ来年成敗申すべき由、早船をしたて申しつかはせ候。唐国まで手に入れ、我ら一期のうちに申しつくべく候。さげすみをいたし候へば、一段骨折れ申し候。今度の陣に、白毛多くでき申し候て、抜き申す事もなり申さず候。御目にかゝり候はんこと、はもじに、そもじへばかりは、苦しからずと存じ候へども、迷惑に候、
五月廿九日
五月十日の文、今月廿八日、肥後の国佐敷にて拝見候。明日は八代まで越し申すべく候。島津走り入り候、其の済ましやうの事。
一、島津義久人質、十五ばかりの娘ひとり子。
一、義久在京の事。
一、宿老ども人質、十人ばかりの事。
一、島津兵庫頭人質、十五になり候惣領の子大坂に詰めさせ、又、八になり候子を人質に出し候事。
一、島津中書女子を連れ、在大阪致し候間、薩摩の国・大隅両国取らせ、ゆるし、ことごとく、いへ
(ママ)
んいさせ
桑田忠親氏も後の解説で触れているが、天正15年時点ですでに秀吉の頭の中には朝鮮出兵の意思があった事が伺える文章である。しかし、対馬・壱岐(=宗氏)と高麗(=朝鮮王国)が同列というのが…秀吉の世界観が見えて興味深いです。又、高麗の方まで日本の内裏へ出仕申すべきよし、早船を仕立て申しつかはせ候。出仕申さず候はゞ来年成敗申すべき由、早船をしたて申しつかはせ候。
(また、朝鮮の方にも日本の御所へ仕えるようにと早舟を使って連絡させた。もし仕えないといった場合は、来年攻撃するぞと、早舟を使って連絡した ※以上拙訳)
そして、桐野氏も指摘していた、この問題の記事。
(ママ)
拙訳すると島津中書女子を連れ、在大阪致し候間、薩摩の国・大隅両国取らせ、ゆるし、ことごとく、いへんいさせ
「島津家久が妻子を(人質として)連れ、大坂にいる間に、薩摩・大隅両国を与え、(反抗の)罪を許し、(以下翻訳保留)」
つまり、義久・義弘の弟である家久に、島津家の本領である薩摩/大隅を与えてしまおうという事である(○。○)。
しかし、それならば何故義久を上洛させ、更にはその娘(亀寿)をわざわざ人質に取ったのか、又義弘の息子(島津久保、喜入萬千代丸)は2人も人質に抑えたのか、合点がいかないところがある。
秀吉は、家久に島津家の本拠を与える代わりに義久・義弘は別の土地に飛ばす計画でももっていたのだろうか?それとも、家久に島津家の本拠を与えるという事は家久を島津家の当主に定めるとも取れるから、家久の配下に義久・義弘を置こうとしたのだろうか?
実は良く意味が取れなくて翻訳保留にした「ことごとく、いへんいさせ」と言う所に謎を解決する糸口があるのかも知れないが…ご意見お待ちしています<(_ _)>
ところで。
この本、古い(初版は昭和30年代)ためだろう、いろいろつっこみ所があるのだか、特に上の文章の解説のこれ。
…「菊若」って…だれ?ヾ(^^;)義久の女とあるのは娘の菊若のこと、
(p.125)