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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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今回の大河、御覧になっている方はいらっしゃいますでしょうか。
前回のに比べるといろいろスケールが小さいのでヾ(--;)1年持つかな~と言う心配はありますが。
とりあえず、わたしは今川義元@春風亭昇太師匠が登場した場面ではBGMに「笑点のテーマ」をかけることにしますヾ(--;)いやだってそうでもしないとこれから胃の痛い展開が連続する予定なんで…

しかし義元、予想以上に壁塗りされてしまいましたな~まあ横に寿桂尼@ルリ子様のような芸能界一の白壁さまがいるからそんなに気にならn うわ何を



さて、今回のネタ「井伊直虎」。
NHKのBSプレミアム「英雄たちの選択」でも取り上げられていたが、昨年末に長年放置されていた古文書から、なんと井伊直虎は男だった?!と書いてある物が見つかったらしい。
え~?!今回の大河ドラマ、設定の根幹からひっくり返されてしまうのか?
この「上杉謙信女性説」ヾ(--;)の逆パターンのようなお話、ちょっと考えてみる。
※興味のある方は「つづきはこちら」をクリック

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まず、問題の「井伊直虎男性説」の史料を紹介しよう
「井伊直虎」女性でなかった? 井伊美術館が新史料
2016/12/15 2:00

 戦国時代の領主、井伊直虎が通説の女性ではなく、別人の男性であることを示す史料が見つかったと、井伊家ゆかりの遺品を所蔵する井伊美術館(京都市)の井伊達夫館長が発表した。直虎は戦国大名、今川氏の家来の息子だったとしている。学説の主流は、井伊家の一人娘で尼僧の次郎法師が直虎を名乗り領主になったとの見方で、新説は論議を呼びそうだ。

 井伊谷(現在の浜松市北区)を治めた直虎は2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公で、謎が多い生涯への関心は高い。今回明らかになったのは、江戸初期の1640年に井伊家の家老が聞き書きして残した書を、1735年に家老の子孫がまとめ直した写本。井伊館長が約50年前に滋賀県彦根市の骨董品店で入手した史料の中にあり、読み返して発見したという。

 それによると、戦国大名の今川氏真(うじざね)が「家来の関口氏経(うじつね)の息子を井伊次郎とし、井伊家の領地を与えた」との意が複数箇所に記されている。戦乱で井伊家の跡取り候補が次々と亡くなり、領内で争いごとが頻発したため、今川氏が新領主を送り込んだという。

 京都女子大学の母利美和教授(近世史)は「史料は井伊家の筆頭家老の木俣氏がまとめた。他の木俣氏の記録書と筆跡が同じで信ぴょう性が高い」と語る。

 これに対し、直虎に関する本を今年発刊した静岡大学の小和田哲男名誉教授(戦国史)は「井伊家の跡取りが代々『次郎』を名乗っていた。娘の次郎法師がいた同時期に、次郎を名乗る別の男性がいたとは考えられない」と反論。新説は今後、検証が求められそうだ。
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO10673470U6A211C1CR8000/
朝日新聞では関係者の系図と問題の史料「守安公書記」の実物写真が掲載されている。
…って、それって井伊家の公式史料「井伊家伝記」が嘘書いてるって事なのか?

-先述の「英雄たちの選択」でも冒頭で紹介されたが、戦国時代に「女性当主」というのはそこそこいたのはご存じの方が多いかと思う。
例えば「英雄たちの選択」では以下の方が紹介されていた
立花誾千代(立花道雪の一人娘)
寿桂尼(今川義元の母)
おつやの方(織田信長の叔母)
…亀寿は入らないのか(´・ω・`)…という感想はおいといて(^^;)
この3名だが、実際に「当主」とまで言い切れるかというと疑問が残る。と言うか名実共に当主だと断言できるのは主君の大友宗麟にも「城督」として認められていた立花誾千代だけだろう。
寿桂尼は病弱/幼少の当主の補佐を行ったので、実態は「垂廉聴政」に近いかと。
おつやの方は夫の急死+跡継ぎがいないために当主代行を行ったのだった。

しかもこの「女性当主」の例としてあげられた3人だが、井伊直虎のように「男性の名前」を名乗ったという史料は存在しないのである。
と言うか、今のところ「男性名前を名乗った女性当主」は井伊直虎一人しかいない…と言うのも今回の史料出現で怪しくなってきたわけだが(^^;)



視点を変えてみる。

今回の史料、「井伊直虎は女じゃなかった!(な、何だって~)」という点ばかりが問題になっているが、読んでみると更に不思議なことが書いてある。上記の日経記事から再度引用。
戦国大名の今川氏真(うじざね)が「家来の関口氏経(うじつね)の息子を井伊次郎とし、井伊家の領地を与えた」との意が複数箇所に記されている。戦乱で井伊家の跡取り候補が次々と亡くなり、領内で争いごとが頻発したため、今川氏が新領主を送り込んだという。
つまり、今川氏真が面倒な状態になった井伊家に自分の家来(の息子)を送り込み押しつけ養子とした、と言う事のようだが、こういう事は戦国時代では普通にあることだったのだろうか?

このブログのネタ元である島津家ではこういう例がある
・島津義弘:豊州島津家からの要請により一時養子となる。なお、豊州家では一応跡継ぎの男子もいた(後の島津朝久)
戦略的な臭いがする養子と言えば、江戸時代初頭ではあるがこういう例もある
・島津忠紀:跡取り息子がいなかった垂水島津家・島津久敏の養子となる。但し、久敏には異母弟が大勢おり、跡取りが全くいなかったわけではなかった。忠紀の前には同母兄の忠直(後の北郷久直)も久敏の養子になっており、垂水島津家に含むところのあった島津家久(忠恒)の戦略的な押しつけ養子だったと思われる。
他にも養子縁組の例は多数有るが、殆どが「跡取りの男子がいなくなったので近しい親族から男子を迎える」というごく一般的な例が多い。

他家で例を探すと、あの吉川元春が挙げられるかと。
今私が思いつかないだけで、言うこと聞かない国人や家臣に養子を押しつけて当主に据える例は多いかも知れない。

ただ、今回の井伊「直虎」の場合は今川家が送り込んだ押しつけ養子に対抗して?女性が当主に担がれた可能性も考えられるわけで…
またまさかとは思うが、後に井伊家の初代藩主となった井伊直政の正当性を主張するために、「井伊本家の一人娘で当主となり直政を養子にした井伊次郎法師」という人物が後世の文書で創作された可能性も考えられなくもない。

事の真相はいかに?
…でもそもそも史料自体が乏しいので真相は永久に謎のままかも知れませんな。


拙ブログ関連ネタ こちら

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