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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
史料紹介。

一唯恕参様御石塔并御葬所為洒箒、鵝目千疋号祠堂物被寄進候、以此旨、到後年拂除等無断絶之様、主務之僧衆へ堅固可被仰渡事、本懐候、抑恕参様御恩情不浅故、雖為微少之法物、顕寸志奉営之者也、仍状如件、

慶長六年五月二十三日            平田太郎左衛門尉
                              増宗(花押)
福昌寺 
衣鉢閣下
「薩藩旧記雑録後編」3-1507(『鹿児島県史料』「旧記雑録後編」3所収)

さっくり訳すと
「一唯恕参様(=島津久保)のお墓と廟所のためにいろいろと寄付しました。今後掃除などの供養を忘れないようにしてくださいね。お坊さんにもちゃんと命令しといてね。ちょっとだけの寄付だけど志を受け取ってね。」
となると思われる。

何気ない一文のように思われるが、寄付した年度や寄付した人物を考えるとなかなかに味わい深い。
慶長6年のこの時期は、関ヶ原の合戦からまだ1年たっておらず、徳川家康と島津家の交渉が難航しているときで、島津家存亡の危機にあったときである。朝鮮出兵で不幸にして急逝した世嗣の霊に対して島津家の加護を願ったとしてもおかしくはない。しかし、それならばほかの先祖に対してもなんらかの供養が行われた史料があってもおかしくないのに、それは残っていない。
この寄付を行った平田増宗というのは、代々島津家の家老をつとめた平田家の出身で、特にこの増宗は関ヶ原の合戦時には大坂屋敷の家老で島津亀寿の脱出に功績があり、その後、島津義久の外孫・島津忠仍をもり立てることを誓う(「旧記雑録後編」3−1737)など、義久派の代表として活躍した物の、それを煙たく思った島津忠恒(当時「家久」)によって慶長15年に暗殺されたという人物である。

ここから考えるに、このときの島津久保に対する供養というのは島津家全体の命として為された物ではなく、島津亀寿か島津義久の個人的な命でされた物ではないだろうか。
つまり、慶長6年時点では亀寿(or義久)の心は、いまだ島津久保の元にあったということになろう。
…これは、島津忠恒はつらいですな。>※島津忠恒は久保の実弟で、島津亀寿の後の夫。
だって、死人は死んだ時点の評価が最高でかつ美化されることはあっても落ちることはないですもん。特に久保は不幸な運命の末の早死にだから評価はあがる一方だったのではないかな。
一方の弟の忠恒といえば、一生懸命やろうとしているのはわかるが、あまりにもボロが…。

だからといって、忠恒(家久)には同情できないが。
だって、義久の死の前後からは、先述の家老平田の暗殺を含め鬼畜としか形容できないほどやりたい放題やったから、すっきりしてたはず。

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平田増宗の最後は?
確かに家久はおぞましい。
功績のあった平田を誅しなくても、、
古記では宮内預かりで切腹とあります。
実証はどちらでしょうか
亀寿から嫌われていたんでしょう。
これから他の史資料も読みます。
今井より URL 2015/07/01(Wed)22:58:43 編集
平田増宗の最後
「今井より」様初めまして…でしょうか?
添付のURLを見ると、以前幾度か訪問させていただいたHPだったので驚きました。桐野作人氏ブログ(膏肓記)にも同件でコメントされていたのを見ました。

さて、返答が遅くなり申し訳ございません。
平田増宗の最後については、御覧になられたとおもいますが、桐野氏ブログや「さつま人国記」にあるとおり、島津忠恒を見送った帰途に押川強兵衛等に襲われ暗殺されたというのが定説になっています。なので「切腹」説というのは初耳で驚きました。平田増宗の弟・宗親はこの数年後に切腹させられているので、それと混同されているようにも思われますが…
また、その問題の“古記”が掲載された書籍名など御教示下されば幸いです。

今回はコメントありがとうございました。
ばんない 2015/07/07(Tue)09:26:18 編集
re:平田の最後について
早速のご回答ありがとうございます。
ページ作成しています。
歴史探訪==>>戦国時代==>>平田で
ご覧下さい。
出典を映しての作成で時間がかかります。
近年は持病悪化で視力も。。
ぼちぼちやってます。
では宜しくお願い致します。
今井より URL 2015/07/12(Sun)06:21:37 編集
re2:
一応古記の内容を

平田越前の事ハ
平田太郎左衛門事二而候
蒙御勘気鹿児島居住不罷成
夫*國分宮内正八幡敷地
沢右近兵衛ヲ頼籠移筈候処二
平田之一族御誅罰二付
越前事ハ宮内二而切腹也
五十嵐長左衛門事ハ
平田越前二相付宮内二居住仕居候処二
越前切腹被仰付
同年曽於郡内松永江■■居之由


==== 止上神社文書p67 ====

只、書き取り年号が記載してないので
詳細までは。。

鉄砲で暗殺されたと伺っていますので
最寄りの書籍を読んでみようと。。

また寺社探訪に精を出します。
今井より URL 2015/07/12(Sun)09:50:58 編集
失われゆく文化財・信憑性の喪失
>以前幾度か訪問させていただいたHPだったので驚きました。
桐野作人氏ブログ(膏肓記)にも同件でコメントされていたのを見ました。

私の歴史探訪のリンクが20006年になってます。
その前のリンク集にも掲載していましたから
多分2003年頃では?

桐野作人氏とは姶良市のセミナーでお会いしました。

実は、このテーマは、2000年頃、
某歴史家の先生方にお話したら一笑に伏された件です。
他にも2,3、神社の由緒や古墳らも同様でした。
(発見者との確執があって、
国分諸古記は一次史資料として、当地の専門家には認知されて
いなかった節があります)
国分諸古記のコピーとGPS&PDAを持参して、
サイクリング探訪を始めました。
今年は、探訪当初、懇意にして頂いた神主さんの15回忌
それも相まって初心に返って、見直しています。
ですが、失われゆく文化財のなんと多いことでしょう。。
残念です。
今井より URL 2015/07/16(Thu)04:57:16 編集
御礼
「今井より」様、ご回答誠にありがとうございました。
また返答が遅くなり申し訳ございません。

「止上神社文書」ですか。どこかで見た様な…後でcopyを発掘してみます。

「国分諸古記」の翻刻は『国分郷土誌』にしか載ってないので一般の認知度はかなり低いでしょうね…わたしはこれで分かったこともたくさんありますが。
なお、今は玉里文庫本がネットでも公開されているようです。崩し字に太刀打ちできませんが(^^;)
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0091-005604
ばんない 2015/07/17(Fri)16:31:10 編集
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