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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前の話はこちらです。 前編 後編



実は、図書館で検索していて偶然に『学徒出陣の記録』には続編があったことを知る。
今回借りて参りました。
 『学徒出陣から五十年』
前作は中公新書というメジャーどころから出されたのですが、こちらはどうも自費出版だったようで、それが気が付かなかった一因かと思われます。ただ、本自体のパッと見た目は中公新書っぽいんだよなあ(^^;)

実はこの本がだされた1993年(平成4年)時点で、この記事のネタ主ヾ(--;)・土田直鎮氏はガンのため死去されています…なので、前回(昭和43年)以後の考え方の変遷などを伺う文章が載せられていないのが残念なのですが、亡くなる直前に書かれたコラムなどが掲載されており、戦後の土田氏の歩みを伺うことは可能です。
こちらの本と、『歴史と私』(中公新書)を併用して、「過激な歴史学徒」土田直鎮青年がその後どうなったのかを、簡単にたどってみる。

ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。



事実上の特攻隊志願だった土田青年でしたが、思いとは裏腹に、ほんとに死ぬような目に遭いながらも日本へ生還します。昭和21年1月のことでした。

…が、帰国した日本は、以前とは激変。
すっかりついて行けなくなった土田青年は、東大に復学はする物の、ほとんど通学せずに卒業(○。○)…とご本人は語っておられるのですが、事実は全く行ってなかったわけではなく、史料の読書会にはお顔を出してられたらしい(『学徒出陣から50年』p.165 菱刈隆永の回想より)。
それにしても「通学もしてないのに卒業認定もらえたの?」というのが現在の私たちからすると不思議なのですが、何しろ戦後すぐの大混乱の中、学制も1947年(昭和22年)の「学校教育法」と1949年(昭和24年)の「国立学校設置法」で大幅に変わってしまい、土田青年のように戦前からの学生だった人は卒業認定がかなりややこしくなってしまいました。そんな背景もあって大学側も早く卒業させてしまわないといけないと思ったのかどうか、土田青年は論文提出だけで卒業できたのです。
空襲や疎開で蔵書を失い、論文を書くにも苦労した学生が多い中、土田青年には幸いにも父・土田誠一の蔵書がまるまる残っており、そのために大学に通わずとも論文を完成させることができました。この卒論のタイトルは「奈良時代に於ける律令官制の衰頽に関する一研究」(現在は『奈良平安時代研究史』に所収)。この論文はその後切り売りヾ(--;)されて「奈良時代に於ける舎人の任用と昇任」(『歴史地理月報』所収)、「兼官と位季録」(『日本歴史』所収)という2つの学術論文に化けたヾ(^^;)のですが、土田氏はこの卒論を後に自身でこう評価しています
何しろ昔の未熟な仕事で、それも六国史は朝日本令集解は国書刊行会本格式は旧輯国史大系本、頼むに足る索引類はない(朝日本六国史の索引は脱落が多くて駄目)といふ頃だから、能率も至つて悪いし、考へも不十分でインチキな点もある。
『学徒出陣から50年』p.177~178
とりわけ、タイトルにうっかりヾ(^^;)使ってしまった「官制の衰頽」と言う用語については
どうも落ち着きが悪く、論文の題目届出の時に坂本太郎先生もちょっと首をかしげられたが、まあ、いいか、といふことで判を頂戴した。私自身もいまだにすつきりしない。
『学徒出陣から50年』p.178
という「勢いで書いてしまった論文」だったようだ(ヲイ)。
それにしても坂本先生が論文を見て「うーん」と首をかしげる姿を想像すると、申し訳ないが苦笑してしまう…。

…で、「戦後の大学はなじめない…」と言われた割りには、卒業と同時に東京大学史料編纂所に就職してしまいます。これも今では考えられませんが、大学院には一度も在籍されてません。博士号取らんでもこの手の学術機関に就職できる時代だったのですよ。いい時代だったんだなー うらやましいヾ(^^;)
史料編纂所時代の仕事は『大日本史料』第二編の編集。平安時代中期の史料が主な担当分野でした。この時代の史料と言えば「貴族の日記」が主な物ですが、土田氏曰く「結局30年近くかかって昔の10年分の史料を整理し刊行したに留まりました」(『学徒出陣から50年』p.173)というめんどくさい物。論文を書く余裕もなく?、実際ciniiで「土田直鎮」で検索すると引っかかるのは13件。実働年数から見ると少なすぎるような。土田氏当人は
勉強して研究論文を書くことはもちろん結構なことであるが、それはいはゆる「公務の余暇」の仕事であるといふのが大方の了解であった。
いささか弁解がましくて気が引けるが、私には公務として平安時代などの諸史料に接することが何よりの勉強であつて、物書きはもとより、論文作りも一種の余技としてできるだけ逃げたいといふ不精者の精神があつたことも事実である。さう思ってしまへば学会の動向なるものの悪い面-単なるはやりすたり-にも振り回されずに済む。
『学徒出陣から50年』p.175
といささか謙遜気味に書かれていますが、実際の所は「学会に深入りしたくない」というのがホンネだったんじゃ無かろうかと。前の引用でも分かるように、戦後の日本社会にどうもなじめなかった土田氏、実は学術論文も新旧仮名遣い混合。「新仮名には結局なじめなかった」(『学徒出陣から50年』p.176)ともこぼしています。ところでこの一節を読んだときに『大日本史』(文春新書)で佐藤優氏が「一つの文明つぶすには言葉を奪えばいい、GHQが新仮名を導入したのもその一例で、戦後生まれの人間は戦前以前に書かれた文が読めなくなってしまった」とか書いていた話を思い出しました。
また、『学徒出陣の記録』の末尾には土田氏の同期の当時の肩書き一覧があるのですが、既に大学教授になっている人も多い中、土田氏は1968年(昭和43年)当時まだ史料編纂所助手でした。博士号などの資格を持ってなかったと言うこともあるでしょうが、当時の学会の主流からわざと外れてられたことが出世が遅れた原因じゃないかというのは深読みしすぎでしょうか。
しかし、この翌年にようやく助教授になり、そのわずか3年後の1971年(昭和46年)に教授に就任します。

その4年後の1976年(昭和51年)に、『東京大学百年史』の編纂室長を兼任することになります。これは、前任の笠原一男が定年退職したのでその後任に、というのが表向きの理由でした。
しかし伊藤隆によると、『東京大学百年史』編纂事業に対しては“新左翼の攻撃”が激しく、笠原一男は講義中に攻撃されるというパワハラにもあって精神的に参ってしまったようで、編纂室に来なくなってしまいます。他の編纂部員も「こりゃ笠原さんが編纂委員長である限りは作業進まないね(´・ω・`)」と見限られ、更に残された編纂部員の間にも内輪もめが発生して辞職してしまう人が続出するという状況の中、見るに見かねた井上光貞と残された編纂部員の一人であった伊藤が相談して「この人なら適任だろう」というので担がれたのが土田氏だった…と言うのが実情だったようです(『歴史と私』p.148)。
確かに、今までの話しを見てもらうと分かるように土田氏はいわゆる“新左翼”の思想をどうも忌諱してられたようですし、更に義理の姉を「ピース缶爆弾事件」で亡くすという不幸にもあっています。どう考えても「『東大百年史』ふんさ~い」…を叫んでいる学生運動家向けの防御バリアーであることは間違いない(^^;)。事実、土田氏が『東大百年史』編纂室長になると「ようやく百年史が実現する確信を持つことができた」(『歴史と私』p.148)と伊藤氏は回想しています。

…ところで。
土田氏はかなりの酒豪だったらしい。伊藤氏はこんな思い出も書いてられます。
土田さんは強い信念を持って事に当たる方ですが、同時に、とことんお酒を飲まれる方でもありました。
昭和55年の冬、土田さんを先頭に一同で京都に出張したときのことです。同志社の社史史料編集所や陽明文庫に行き、夕方からおでん屋でずいぶん飲み、それから宿舎に戻ったのですが、帰り道に土田さんは酒屋によって、オールドパーを1本仕入れたのです。
宿舎の部屋で皆でこれを飲みながら、土田さんの話を聞きました。(中略)オールドパーが空になる頃には、一同かなり酩酊状態だったのですが、土田さんは「まだあるぞ」と言って、列車で売っているお茶のプラスチックの入れ物、最近は見なくなりましたが、それに詰めたウイスキーを持ち出します。逃げ腰だった私たちが、何とかこれを空にして、ようやくお開きになったのは深夜2時頃でした。
『歴史と私』p.147
しかし、この酒量が土田氏の命取りになったようです。
1983年には先述の井上光貞の急死の後を受けて国立歴史民俗博物館の2代館長に就任しますが、1988年に食道ガンで倒れてしまいます。一時持ち直した物の、1992年からは体調不良で入退院を繰り返し、翌年1993年1月24日死去。
『学徒出陣から50年』では土田氏をこう回想しています
この文集の刊行が相談される頃から、あるいは原稿依頼が行われた後に、土田直鎮兄と川副武胤兄は体調を崩し、遂に不帰の客となり、一杯機嫌で巧みな座談を展開する友と舌鋒鋭く談論風発する友を失ってしまった。
p.170


なお国立歴史民俗博物館就任時に、土田氏は興味深いコラムを残しています。
当時の史料の最も主な物は、朝廷の廷臣たちが書き記した日記-ふつうこれを記録と呼んでいますが-で、今日風の日記とは異なり、ほとんどが朝廷の行事に関する内容のものでありますが、おのずから当時の社会万般のことにも触れる所があります。従って私も多くの精力を、これらの日記を少しでも正しく、具体的に読解することに用いました。到底十分な理解は望み得ないのですが、多方面の細かい調べを付けながら感じたことは、第一に、千年近い昔の人は、今日の我々の生活状況や感覚などとは関係なく生きていたのであって、その姿を我々がとらえようとするのはこちらの勝手である、従って我々の方から昔により具体的に、親身になって付いていかねばならないこと、第二に、それにしてもいずれの時代にせよ、その頃もっとも普通のはずだったことが一番後に伝わりにくい物だなあと言う印象でありました。これはすなわち個人の生活や感覚の基本的な部分を我々が知っていないと言うことでありますから、今日の我々を基準にして軽率に古を論評するのは、危い場合があることも覚悟せねばなりません。
『学徒出陣から50年』p.174(原文『歴博』創刊号所収)
現在も当然の常識と思われていることほど残らないかも。特に現在はtwitterやLINEなどネットの世界に残っている記録が膨大になっているけれど、後世になったらそれらは綺麗さっぱり消滅、21世紀前半の日本はなーんもない状態!…と後世の人に誤解される可能性はかなり高いかもね。
…あ、このブログもそうか(苦笑)

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