拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
yahoo!の「あなたへのオススメリンク」でこんなのが表示されていた。
この記事自体がupされたのは2015年12月14日のようだ。何で今頃こんな古い記事が「おすすめ」に表示されたのか不思議ではある。
さて、この記事では義久をこんな風に評価している。
戦を弟たちに振っていたのは見ように依れば「部下を適材適所に配置した後は部下に任せて」とも見える訳かヾ(^^;)
しかしこの記事
でも一番がっくりしたのは、リンク元の画像の表記が島津義弘のあの有名な肖像画だったことだが_| ̄|○
関連ネタ こちら
時代の転換期はこうして乗り切れ!薩摩藩、島津義久に学ぶ経営術詳しい内容は、リンク先を見てもらうとして
皆さんは島津義久(しまづよしひさ)という人物をご存知ですか?戦国時代、薩摩(現在の鹿児島県)・大隅(現在の鹿児島県)・日向(現在の宮崎県)の三州の守護職を務めた武将です。
島津義久には戦国最強と謳われる3人の弟(義弘・歳久・家久)がいました。幼少期、いずれも勇猛果敢で優秀な弟に比べ、義久は大人しく目立たない子供でした。
しかし、祖父の忠良から叱咤激励を受けた義久は九州を席巻しやがて鎌倉時代から続く名門島津家の最強にして最高の政治家へと変貌を遂げました。
そんな島津義久は時代が大きく変化した戦国時代をどのように生き抜いたのでしょうか?めまぐるしく時代が変化する現代を生きる経営者の皆様に島津義久の経営術を紹介します。
(後略)
http://www.tenpo.biz/tentsu/entry/2015/12/14/090000?utm_source=ycd&utm_medium=yahoojp-topics
この記事自体がupされたのは2015年12月14日のようだ。何で今頃こんな古い記事が「おすすめ」に表示されたのか不思議ではある。
さて、この記事では義久をこんな風に評価している。
戦においては部下を適材適所に配置した後は部下のやり方に任せ、自ら動かずして勝利を収めていた義久
兵力を温存しておいたお蔭で、関ヶ原の合戦で疲弊していた徳川軍は島津藩を攻め切る事ができず、最終的に義久は義弘を差し出すことなく守り通し、所領も削減される事はありませんでした。この事により『この人(義久)の為なら何でもやる』という部下が増え島津家の団結をより一層強固なものにしたと言われています。何かえらい肯定的評価だなおい(^^;)
戦を弟たちに振っていたのは見ように依れば「部下を適材適所に配置した後は部下に任せて」とも見える訳かヾ(^^;)
しかしこの記事
島津藩など、余り歴史用語としては使わない表記がちらほら…
でも一番がっくりしたのは、リンク元の画像の表記が島津義弘のあの有名な肖像画だったことだが_| ̄|○
関連ネタ こちら
PR
Comment
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。