受講者から、「堀川様」は公家ではなく、高家の堀川広益ではないかと意見を頂戴した。すごいそれは気づかなかった。堀川広益は公家久我通名の子だし、石高は500石と低いが、官位は従四位上、兵部大輔である。
が、堀川広益の没年は宝暦6年(1756)である。だから、さきほどの文化2年(1805)から文化13(1816)かという推定にあてはまらない。
それ以後の堀川広益の子孫はどうかであるが、彼以後は「有馬」苗字をなのり、「堀川様」ではなくなる。ここにも矛盾が発生する。
http://siseki-kukan.way-nifty.com/heiankyokyoto/2009/08/814.html
実はネット上で「有馬」氏といえば、上記の高家よりも、下記の方が有名なのではないだろうか。
wikipedia「北畠家」でも一時期「根拠不明」で編集が大荒れになった「有馬」氏である。
※現在は問題の記述は削除されている。
この謎の記述の根拠となったのが、ネット上では北畠家研究で一番詳しいと思われるこのHPである。特に問題なのが「逃避行から有馬氏としての再興」「武闘集団公卿としての有馬家」「幕末の活躍から消滅へ」の3章である。歴史に詳しくない人が見たら一見納得させられてしまう迫真の既述が続くが、ちょっとこの時代に詳しい人が見たら
・有馬氏は幕末に中川宮(後の久邇宮朝彦親王)や会津藩に近かったために新政府に追求され、その存在を抹消させられたとするが、それほどまでに大活躍した人物なら、中川宮関係や会津藩関係の史料に名前が出てきてもおかしくないはずで、史料がほとんど残ってない古代ならともかく、幕末史料から完全に痕跡を消すなんて不可能。
平泉澄とか、なかなかニヤニヤさせられる人物も絡んでいるようですが…。ちなみに上記で対立したとされる大西源一は三重県の郷土史家らしい。・北畠有馬家・有馬昌範が再興してから、範顕まで公家として過ごすが、幕末の動乱により滅亡してしまい、範顕とその子・丑之助麿、酉松麿は浪岡に隠遁した。明治6年に範顕が死去したあと有馬家は帰農、丑之助は子が無かったので相続権を放棄して、弟・酉松に相続権を譲って若くして隠居した。酉松は北海道に農業技術者として渡道し、地方を経て旭川に至った。
酉松の子・有馬範治は明治33年(1900)に生まれ、大正末期から先祖である北畠氏の研究を進め、遺跡や土地を歴訪して、北畠昌教の墓所を発見、「北畠氏学」の原型を構成していった。「北畠氏の研究」の著者・大西源一や歴史学者の平泉澄らとは同志で共同研究や、昭和3年の北畠神社別格官幣社昇格に尽力した。昭和30年ころに北畠神社先代宮司(当時新任宮司)の宮崎有祥氏らと「北畠氏学」を完成させたが、神社行政中枢部に強いパイプを持って文学博士となった大西源一ら非地元・非関係の諸氏が、地元軽視と文献学のみを基調とし、遺跡伝承を無視しはじめたために同調せず、「北畠氏学派」と「大西学派」に分裂、歴史学会と神社界に強大な力をもつ大西学派により野に下った。これにより、後継者育成も極度に困難となった。大西源一の死後はこの傾向はかすかに緩んだ。
「北畠氏学」を完成させた有馬範治も平成5年に死去した。子孫は札幌に居住である。このように、伊勢北畠宗家は現在は「有馬氏」として残っている。
と、前置きが長くなったが(^^;)
中村氏の記事に寄れば、どうも上記のような根拠のアヤシイ有馬氏じゃなくて、久我家系の高家にまでなった有馬氏というのが別に存在していたということなのである。
謎の説の「幕末に活躍した(自称)有馬氏」というのはどうもこの辺の史実とかごちゃ混ぜにして創作されたような気がするのだが…。
一般向けの高家の入門書とか、寡聞にして見かけたことがないんですよね。この辺の研究で分かりやすい物があれば参考になるのでしょうけれど。
9年前の記事にコメントして困惑させてしまったら申し訳ありません
北畠氏についてブログを書いているものです
貴殿の記事を私のブログにリンクさせていただけませんか?
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