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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
本能寺、を知らない人は少ないだろう。
なぜなら、天正10年(1582年)、織田信長が明智光秀に突如攻められあっけなく自害に追い込まれたときに宿所としていたのが本能寺だからである。
元々あった場所から、豊臣秀吉の京都大改造計画により現在の寺町御池下るに移転したのも有名な話と思う。

ところが、ここに何故か島津家の縁者のお墓があるとなると、知っている人はかなりマニアなのではないかと思う。
詳しくはこちらのブログ(膏肓記)で。
ブログの方でも紹介されているが、本能寺は幾度も火災にあったためか史料の残存状況が良くないようである。
近年、『本能寺史料 中世篇』 という本能寺所蔵の史料集が刊行されたが、それも日蓮の関連資料が大半で(当たり前だな開祖なんだから)特に織豊時代は本能寺に深く関わった先述の織田信長の書状が数通、その後の再建関係で織田家遺臣の書状が数通などが目立つところ。後は檀家関係の寄贈に関する資料が多い。…いわゆる大商人っぽい人が多いようで、それはそれで興味深いが。

しかし、その中に1点のみ気になる史料を見つけた。
本能寺史料中世編214「妙法蓮華経(版本)奥書」
奉寄進御経三十部
為悲母妙蓮レイ(「ヨ」条の文字の下に「火」、unicode7075)魂
文禄四暦己未五月十二日
施主藤女敬白
補注によると「折本二〇八帖ノ内、年次ノ明ラカナ第四巻奥書を翻刻シタ。」とあります。
ちなみに「膏肓記」元記事(南日本新聞、もうちょっとしたら消されるかも)にも紹介されているように、義久後室・種子島時堯女の戒名は「円信院殿妙蓮大姉」あるいは「円信院殿実渓妙蓮大姉」(「御家譜」参照)で、「妙蓮」は種子島時尭女を指す可能性がある。
しかし、法華宗(日蓮宗)信者の女性で「妙蓮」なる戒名を持っている人は、実は非常に多い。法華宗の経典「華経」にかぶるので雅字と思われたのであろう。現に、この本能寺史料にも「妙蓮」という女性は何度も出てくるのである。中世編214と同じ頃の史料では204「本能寺本堂勧進帳」(天正17年頃)の寄進者名簿にも金子3枚を寄付した「一四屋隆正後室妙蓮」、この後も本能寺にたびたび寄付をした(本能寺史料中世編二〇五)建部家の夫人「妙蓮」が登場する。
それでも、私が二一四番文書に出てくる「妙蓮」=種子島時尭女ではないかと疑っているのは、この本能寺に経典を寄付した施主が「藤女」と書かれているからである。島津氏が公式に「源氏末裔」を吹聴し始めるのは一九代当主・光久になってからで、それ以前は「藤原氏」を称していた。具体的例を挙げると「高野山朝鮮役敵味方戦没者供養碑」など。この「施主藤女」は当時京に人質に取られていた島津亀寿本人ではないだろうか。


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すごい
管理人さま

お久しぶりです。

すごい発見ですね。
亀寿の生母供養の可能性ありそうですね。
私も23回忌法要あたりではないかと思っていましたが、かなり近い年です。
また、これが亀寿なら、当時「藤」と名乗っていたのでしょうか? これも面白いですね。
亀寿は前から幼名だと思っていたので。

その史料本、たしか私も持っていたはずですが、すぐ見つけだせずにおります。

なお、義久後室種子島氏は上京したという説がありますね。もしそうなら、在京中病死したのかもしれません。もっとも、なぜ上京する必要があったのか不明ですが。
桐野 2009/08/18(Tue)22:28:15 編集
無題
こんばんは。コメントありがとうございます。ただ、ご存じのように本能寺は本当に古い史料が残ってないみたいで、『本能寺史料』を管見で見た限りでは薩摩島津氏関係史料(らしい物)はこれだけです。

『本能寺史料』すごく高い本でした(^^;)。地元の大きな図書館にも所蔵がないので、私は京都府立図書館で拝見しました。こういう地味な仕事をして下さった故・藤井学氏には感謝しなければいけませんね。

「藤」は島津氏の本姓(当時)「藤原氏」の略ではないかと考えております。

ところで
>なお、義久後室種子島氏は上京したという説がありますね。
初めて聞く説ですね。よろしければ詳しく御教示お願いしたいのですが。
ばんない 2009/08/19(Wed)23:06:10 編集
義久後室上京説
管理人さん、こんにちは。

『本能寺史料』は西国末寺篇もあるようですね。種子島氏のことは出ていないのでしょうか?

義久後室上京説は、最近刊行された『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺』家わけ十一所収「末川家文書 家譜」114頁にあります。
ご存じのとおり、この末川家は明治以降の名乗りで、それ以前は新城島津家です。義久二女の嫁ぎ先である垂水島津家の系統ですね。そのため、義久と二女にまつわる史料が残っているようです。
二女もまた後室種子島氏の娘ですから、その関係で、生母の情報も少し収録されていて、この一節は生母種子島氏の菩提寺妙蓮寺・浄珊寺を新城に建立した話です。以下の通りです。

「建立之儀者、御父母 竜伯[公]并御簾中さま為御菩提建立ニ而御座候、懐之母上者種子嶋左近将監時堯之息女ニ而候故、元来法華宗ニ而候、然者母上者元亀三壬申歳十二月廿三日、於京都御卒去ニ而、法号圓信院殿実渓妙蓮大師(姉カ)与奉申候」

これを見ると、後室種子島氏は元亀三年までに上京して京都で他界しています。本能寺に墓があるのはそのためでしょうね。
なぜ大名夫人が上京したのか理由が不明ですね。
あるいは島津家久の上京に同行したのでしょうか? いやそれなら家久上京日記に何か書かれていてもよさそうです。
熱烈な法華信者で、本山に参詣したかったのでしょうかね? あるいは義久と不仲だったか(笑)。
ともあれ、大名夫人の上京というのは、あまり例のない興味深い事例だと思います。

この件は拙著「さつま人国誌」続編単行本のネタにするつもりでした。
桐野 2009/08/20(Thu)17:08:29 編集
布教に仁義なし
こんにちは。御教示ありがとうございます。
『鹿児島県史料家分け11』の末川家文書全部コピーしたつもりなんですが、思いっきり見落としてました(汗)。確かに書いてありますね。
ただこの家譜の新城の既述については、有名な島津義久の「秀吉から娘を取り返してきた和歌」を島津亀寿を取り返してきた時の物のではなく(これが『島津氏正統系譜』にも書いてあって通説かと)、島津新城を取り返してきた時の物としているなど、やや他史料と齟齬をきたしている点がありますね。種子島時尭女元亀3年12月23日没は他の史料と一致しているようですが、島津亀寿出産の翌年に京都に行っていたというのも体力的にどうなのかなと言う気がします。
巻頭の五味克夫氏の解説を読んでみても、この家譜の成立時期はよく分かりませんでした。今後慎重に検討が必要な史料ではないかと思います。

『本能寺史料』西国末寺編も期待を持って拝見したのですが、残念ながら戦国時代の種子島氏についてつっこんだ史料はなかったような記憶があります。
ただ、明治時代に入って廃仏毀釈が一段落した後に種子島の末寺の再建に当たった僧侶の日記が載っていましたが、その時には既に西本願寺系の僧侶が種子島を布教で席巻してかつての信者を取っていたらしく、それに対してすごく不満を書いていたのが興味深かったです(苦笑)
ばんない 2009/08/21(Fri)17:30:56 編集
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