拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009041000124&genre=J1&area=K1I豊太閤花見行列
伏見区・醍醐寺で12日
醍醐寺で行われた豊太閤大名行列(07年4月8日、伏見区)=写真は資料
豊太閤花見行列が12日、京都市伏見区の醍醐寺で行われる。
豊臣秀吉が行った「醍醐の花見」の様子を再現するイベント。秀吉は1598(慶長3)年春、秀頼や淀殿、家臣ら大勢を伴って醍醐で豪勢な花見を行ったという。
上記のニュースは4/10の予告ですが、今日は好天に恵まれて無事催行されたようです。
もっとも、近年の温暖化ですっかり葉桜になってましたが(苦笑)
この花見は豊臣秀吉晩年最後のイベントで、見た目の盛大さとは裏腹に、実際はかなり暗い影が差していました。小和田哲男『豊臣秀吉 (中公新書 (784))』だったと思うのですが、この花見をねらって秀吉暗殺団がやってくるという噂が根強かったようで、厳重な警備の上行われたという指摘がされています。しかも、朝鮮出兵中のこの大浪費のしわ寄せは諸大名にのしかかりました。秀吉の懐は少しも痛まなかったのでした。
この花見に参加した北政所はじめとする女性陣や御殿女中の衣装のすべての調製は島津氏に命じられました。そのときの島津義久の心情を吐露した手紙がどこかにあったのですが…後で見つけたら追記します。
まあ、桜には罪はないんですけどね。でも醍醐の桜を素直にみられない私がいる。それは醍醐の桜が豊臣秀吉そのものを象徴しているからかもしれない。
<<追記>>
文書が見つかりましたので追記しておきます。
文書が見つかりましたので追記しておきます。
「薩藩旧記雑録後編」3−385(『鹿児島県史料』「旧記雑録後編」3所収)(前文略)ここ元此比めつらしき事無之候、然共於醍醐ニ御花見の御もよほしにて候、女房衆の出たち被仰付候、小袖一人ニ三ツつつ、おひモ三筋ツツ、又ぼし とてかミまきヲ地ニ付計有ハ、たて筋有ハよこすち、又はめゆい、かのこ、さてハすりはく、色々のだて出たち御用意、千三百被仰付候と京にて承候、三所にて 出たち替候すると申候、京中の細工隙ヲ不得由申候、見物モ女房ハ見候へ、男ハ三里四法ヲ御のけ候由申候、猶委ハ竹兵(=竹内兵部か?)渡海之折節可申候事 候、恐々謹言
慶長三年三月七日 竜伯(花押)
又八郎(=島津忠恒)殿
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