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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
タイトルの文書の詳しい説明はこちら(東大史料編纂所)

実はかなり以前、図書館で拝見したことがある。貴重本なので当然禁帯出だったけど(涙)
そのころすでに興味があった島津亀寿(この人も島津義久の娘なので「公子」である)の手紙が所収されているのではないか?という期待からであった。
しかし、上記リンクの説明
〔御文書 諸公子 六通〕は、島津義弘の子忠清の書状三通と、義弘の娘帖佐屋地の文書二通、同じく義弘の娘千鶴の消息一通を収める。慶長元年閏七月の大地震の状況を在朝鮮の忠恒(家久)に報じた同月二十九日の帖佐屋地書状(一四〇七号)、慶長十八年末頃、人質として江戸に下向した千鶴から父義弘あての消息(一四〇八号)などが含まれている。
でわかるように、これには
・島津義弘の長女・御屋地
・島津義弘の四男・島津久四郎忠清
・島津義弘の次女・御下
の手紙しか所収されていない。
この本を読んだそのときには、それほど気を止めてなかったのだが…

今改めて考えてみると、これは非常になことである。
「島津家の公子」といえば先述のように島津義久の娘もいる。また、歴代当主にもそれぞれ「公子」がいる。他家に養子にいったりした場合なら、そちらに文書の管理の所管が移るからともかくとして、この「公子」御文書には島津義弘の子供たちの分しか所収されなかったのである。

これは、わざとそうなるように保管したのではなかろうか。
その目的は、島津義弘の子供だけを別格に扱おうという意図の上でまとめられたと思われるのである。

『薩藩旧記雑録』などの文書をみていると、島津義弘の孫・光久の頃に徳川幕府からの命で家系図を献上する必要が生じ、かなり文書の整理が進められた様子がうかがえる。しかし、光久は母系でみると島津義久の玄孫(系図上でみると島津亀寿の養子なので孫)にもあたるため、義久系の子女(特に島津亀寿は)の文書を冷遇する理由が見あたらない。

しかし、光久の父・義弘の子で初代鹿児島藩主となった島津家久(忠恒)は、晩年島津義久と対立、義久の死後に正室・島津亀寿を離縁し冷遇した、など島津義久系の子女に対して非常に恨みを持っていたことが伺えるのである。おそらくこの家久によって島津義久の子女の文書類がかなり整理、あるいは廃棄された可能性はあるのではなかろうか。
そして、島津家文書「御文書 諸公子 六通」に島津義弘の子女の手紙ばかり所収されたのは、島津義弘の子供だけを別格にしようとし、自分の家督相続を正当化しようとする島津家久(忠恒)のもくろみがあったのではないかと考えられないだろうか。



あくまで現状からの推測ですが。また何か思いついたら続くかも?

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