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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
先日、本屋でちらっと立ち読みした本関連でネットで検索し、今頃になってトランプ大統領の黒幕?と言われる人物「スティーブン・バノン」という名前を知ったわけだが(汗)
このバノンという人物、ある歴史観を“信仰”しているらしい。その歴史観というのが「フォースターニング」論と言われる物で、国の命運は4つのステージをぐるぐるぐるぐると繰り返している…というもの。これだけでは何が問題なのか分かりにくいが、この論では個人主義が最高潮に達し狂信的な投機が賞賛された(→今の時代に似てますね)後には、一転して国家権力が強化され市民が集団に動員されるという最後のステージが待っている…というもの。この「フォースターニング」論を主張した人は「森は定期的な山火事を必要としているし、川にも洪水が必要だ。社会も同じであり、新たな黄金時代を迎えるためにわれわれには支払わなければならない代償がある」と言う比喩ではあるが、社会制度が硬直したときには戦争をも含めた破壊行動も全然否定してないというかむしろ推奨してるような雰囲気があるのがコワイ

とここまで読んで、これどこかで見たことあるな~と思ったわけです。
これって、石原莞爾の「最終戦争論」そっくりじゃないか?、と。
最も「最終戦争論」は大戦争の後には恒久的な平和が来る=歴史はループしてない、という点で「フォースターニング」論と違う点もありますが。

ともかく、こういうテロや紛争多発の似たような時代に、似たような思想がじわじわ支持を得ているところがコワイ。
石原莞爾自身もそうだった(と私は考えている)ように、自分の信念に基づいて火に油付けて自ら戦争の火種を巻いてしまう場合もありますしね。

ちなみにこの「フォースターニング」論は翻訳本が出たそうです。訳者自身もトンデモ本と思ってられる節がありますが(苦笑)



では気を取り直して本題。

最後の鹿児島藩主であり、明治に公爵となった島津忠義の娘からは2人も皇族妃になった人が出ました。
一人が前回紹介した三女(実際は四女)・常子です

もう一人の宮妃の方が有名かも知れない。
ちうのも、その人は今の天皇陛下の曽祖母になるからです。

ただ、かえってこういう背景があるためからか、有名人の割りにはその生活ぶりとかを伝える資料とか本をほとんど見たことがない。
今回『闘う皇族』(浅見雅男)と『少年皇族が見た戦争』(久邇邦昭 ちなみに今回のネタの孫になる)
を参考に書いてみる。
ただこの二冊の本でも、記述はかなり乏しいのが現状ですが…。

今回のネタは 久邇宮邦彦王妃・倶子(ちかこ) です。
※なおこの記事中に掲載した写真は上記2本及び『近代皇族の記憶-山階宮家三代』から引用した物です





倶子は明治12年10月10日、鹿児島に生まれます。
父は島津忠義、母はその妾の山崎寿満子。ちなみに順番は8女。前回のネタ・常子の妹になります。

さて、後に同じ皇族妃となったと言う事もありマニアの間?では常々常子と比較される倶子ですが、何が俎上に挙がるかというと、その容貌ですね…
申し上げるのも申し訳ないんですが、同父同母姉妹とは思えない程ブ(以下自粛)ヾ(--;)
昭和12年、島津忠義の法事で同席した常子(右から3人目)と倶子(左から3人目)
島津忠秀(同母弟・島津忠重の長男)誕生日パーティーの1葉。前から3列目・立っている女性陣の真ん中にいるのが常子と倶子
wikipediaに引用されているのは、倶子史上一番よく取れてる一枚じゃないかと思いますヾ(^^;)
常子と倶子を比べると、同じ両親を持ちながら、神様ってとても不公平だな~ということを思い知らされますヾ(--;)
他の倶子の写真はこちらのサイトが沢山集めています。

明治32年12月13日、倶子は結婚。
結婚相手は久邇宮邦彦王(27歳)。邦彦王の父は中川宮朝彦親王と言い、幕末史に詳しい人ならご存じの方が多いかと思いますが、元々坊さんだったのが還俗して幕末の政局に一会桑側の要人として深く関わったという人物でした。明治24年10月24日に既に死去しています。
この縁談を斡旋したのは川村純義伯爵(あの白洲正子の母方の祖父)と長崎省吾(当時宮内省勤務)(『闘う皇族』p。266)。『闘う皇族』著者の浅見正男氏は「(川村、長崎とも)薩摩藩出身だから、旧主の娘のふさわしい結婚相手を探していたのであろう」(『闘う皇族』p.266)「(薩摩藩のことを余り良く思ってなかったと思われる)父・朝彦親王がいなくなっていたことが、結果的に縁談を順調に進ませた可能性が高い」(『闘う皇族』p.266)としています。
また、邦彦王始め久邇宮家の人々は「他の宮家に比べて一会桑側についていた自分たちは新政府に虐げられている」と思いこんでいたらしく(『闘う皇族』p.249、但し実際の給金額や屋敷規模を見るとそうとは言えないらしい)、「逆境にある」と思い込んでいた邦彦王本人が自らの地位の「向上」のため、新政府での“勝者”である旧薩摩藩関係者との結婚を望んだ可能性もあるのでは?と私は考えます。
上掲本2冊には掲載されていないのですが、ネットで検索したところ、「倉富日記」に東久邇宮稔彦王妃聡子内親王(明治天皇の娘)の談話として「本当は久邇宮家の嫁は細川侯爵家の悦子に決まっていたのだが、久邇宮が難癖を付けて断った」と言う話を載せており、私の想像もあながち間違いではないかと。
なお新居は京都でした(前年地震で東京の本邸が損壊していたため)が、邦彦王は陸軍大学校に在籍していたのですぐに東京に転居しています。

あ、蛇足ですが、邦彦王もブ男写真写りが悪い人(棒読み)でした。まさか倶子が選ばれたのはそれが理yうわ何を
※邦彦王の容姿については大量に写真もありますが、ニコライ2世の貴重な証言もあります

明治34年2月2日には長男・朝融王誕生。
明治35年には次男・邦久王
明治36年には長女・良子女王(後の香淳皇后)
明治37年には次女・信子女王
明治39年には三女・智子女王
明治43年には三男・邦英王
…と合計3男3女の子供が生まれます。
なお、邦彦王の父・朝彦親王は大変な艶福家で正室無し+妾が分かっているだけで6,7人いたようですが、邦彦王に愛人がいたのかどうかは未詳ヾ(--;)
『少年皇族の見た戦争』で孫の久邇邦昭は邦彦と倶子がどんな悪天候の時も宮代町の本邸内にあった稲荷神社にお参りしていたことを記憶しています(『少年皇族の見た戦争』p.49)稲荷神社は島津家の祖先と関係があると言われている神社であり、興味深いです。

姉・常子が早くに未亡人になったのに対し、倶子は夫も長く健在でまた陸軍の重職にあっという間に昇ったので(→何しろ皇族と言うことで下駄が履かされているヾ(--;))、夫と同行して外遊したり、国内でもイベントに呼ばれることが多かったようです。
訪米時に当時のアメリカ大統領のウィリアム・タフトと

大正7年1月14日には良子女王と時の皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)との婚約が内定。何と次期天皇の姑になることに。

ところが。
倶子は母・山崎寿満子から「色盲」という遺伝病を引き継いでいました。倶子自身は色盲じゃなかったらしく全然知らなかったようなのですが、後に長男・朝融王、三男・邦英王が発病し、更に邦英王の健康診断をきっかけにして同母弟の島津忠重まで色盲だったことが発覚(『闘う皇族』p.30)したことから重大な事件に発展します。
それがあの有名な「宮中某重大事件」です。
この事件の顛末については上掲の『闘う皇族』で詳細に描かれていますので、そちらを参考にして頂きたいのですが、結局邦彦王が杉浦重剛(裕仁親王/良子女王の教師だった)や頭山満などの右翼勢力、果ては当時の首相・原敬の反対勢力など大勢の人間を巻き込んで大抵抗したことから、ほぼ確定寸前だった婚約取り消しが撤回されることになり、宮内大臣まで辞職に追い込みます。
ちなみにこの騒動に今田新太郎閣下の父上・今田主税がちょっと関わっていることは公然の内緒ヾ(--;)
…こうしてすったもんたの末、大正13年1月に裕仁親王と良子女王は結婚。

ところがこの結婚のわずか1ヶ月後。今度は長男・朝融王が婚約を破棄したいと言い出します。
婚約相手は酒井伯爵家の娘・菊子。
しかもこの婚約はどうも朝融王が先に熱を上げて、妹・信子女王なども使って猛プッシュの末に決まった物であったらしく、当然酒井伯爵家は朝融王の勝手な言い分に激怒、先述の某重大事件の顛末で振り回されていた宮内省も朝融王/邦彦王親子に婚約履行を要請します。倶子の義理の弟(妹・為子の夫)である徳川頼貞侯爵を仲介人にまでして何とか解決しようとしますが、朝融王の態度は強硬で、結局酒井伯爵家側が泣く泣く婚約辞退に追い込まれることで終了します。
この件については上掲『闘う皇族』でも触れていますが、ネット上に更に詳細な論文(「朝融王婚約破棄事件と元老西園寺」永井和)があるのでそちらを見た方が参考になります。
実はこの年、この婚約で仲立ちをしていた信子女王が三条西公正と結婚することになっていたのですが、その発表と婚約破棄の発表が何と同日。これは久邇宮家の行状に嫌気が差した宮内省側の嫌がらせだったのではないか、と浅見雅男氏は推測しています。

朝融王は婚約破棄したわずか3ヶ月後に別の女性と結婚します。新しく見つけたお相手は皇族で、伏見宮家の皇女だった知子女王。
ただ、この結婚は破談相手だった酒井菊子がその後すぐ縁談が決まったのに焦った久邇宮家の様子を見た伏見宮博恭王(知子女王の父)の温情で決まった物のようです(『闘う皇族』p.207)。
朝融王と知子女王の間には3男5女が生まれます
前列右端が知子女王、左端が先述した三条西公正・信子女王夫妻。
ちなみに倶子の横+知子の後ろに一人離れてぽつんといるのが、若き日は美女で知られていた東伏見宮妃周子(岩倉具視の孫)何もここまで祖父に似て劣化しなくてもヾ(^^;)
朝融王一家
が、朝融王は父譲り、いや祖父譲りの「絶倫」でした…。
昭和3年より以前に、海軍の仕事で住んでいた鎌倉の別邸で、今度は侍女を襲って妊娠させるという騒動を起こします。この時知子女王は久邇宮家に使えていた事務官に「父(=伏見宮博恭王)には知らせないでくれ、自分はこの話を父から言われて受けたときから犠牲になる覚悟はできている」とこぼしたそうです…(『闘う皇族』p.209)
昭和22年に9人目の子どもを懐妊中の知子女王は、その時の妊娠中毒症の悪化により40歳で死去。
ところがその後、朝融王は以前婚約を破棄した菊子(夫が戦死したためにこの時未亡人になっていた)に再婚を申し込んだという話があります(『元華族たちの戦後史』。著者の酒井美意子は菊子の娘)。さすが朝融王ヾ(--;)というか、いくら何でもそれはないんじゃないの?と勘ぐりたくなるような話です。が、朝融王の息子である久邇邦昭氏は著書で先述の某宮中重大事件や朝融王婚約破棄事件は頑強に否定している(『少年皇族が見た戦争』p.86~91)のですが、この酒井美意子の話は何故か否定してないんですな…ということは…ガクブル

ところで、その邦昭氏。自著のp.56で母方祖母の伏見宮博恭王妃・経子(徳川慶喜の娘)については「優しい祖母だった」と思い出を語っているのですが、倶子については優しかったとか言うことをちっとも書いてない_(。_゜)/と言うことはつまり…いやつっこみはやめにしておこうヾ(--;)
箱根の別荘で倶子が孫・邦昭(当時邦昭王)と撮った一枚

…おっと、強烈な倶子の夫や息子の話ばかりで尺を採ってしまいました(^^;)
上記の騒動が起きている間ですが、
1928年(昭和3年)、夫・邦彦王が台湾で朝鮮人からテロを受けるという大事件が起きます。ただこの事件はずさんな物で、邦彦王自身も大したケガは負わずに帰国しています(但し、韓国ではこの時のテロ犯人について「愛国義士」として現在は記念館まであるとのこと 『闘う皇族』p.295~298)。その翌年に熱海の別荘で死去。享年57歳。
1931年(昭和6年)、三男・邦英王が臣籍降下します。邦英王は以前から親戚の東伏見宮家で養子同様に育っていましたが、当時の法制上宮家を養子相続することができませんでした。この時、通常宮家の3男以下は「伯爵」にすることになっていましたが「東伏見宮家の祭祀を継ぐのだから伯爵じゃなく1階上の侯爵にして」とごねるという騒動がありました(『闘う皇族』p.299~300)。なおこの邦英王は後に出家して京都青蓮院の門主となりますが、2004年に跡を息子に継がそうとして天台宗本部と対立したという事件は地元の新聞でも大きく報道されました。
1935年(昭和10年)には次男・久邇邦久侯爵に先立たれます。ちなみに邦久は最初島津忠済公爵(倶子の叔父)の娘・量子と結婚していましたが離婚、その後松浦靖子爵の娘・董子と再婚します。この董子こそ戦後創価学会の広告塔になったという問題の女性です…。

やがて、宮家として、そして皇后の実家として安泰だった久邇宮家も戦争の荒波をかぶることになります。
戦争中の当主はあの朝融王でしたが、流石に上記の立場が物を言ったのか、激戦地に送られることはなく、しかも昭和17年には少将、昭和20年に中将と言うスピード出世をします。が、これは皇族といえども前例のない高下駄ヾ(^^;)だったようで、同じ皇族の高松宮が日記で批判しています(『高松宮日記』8巻)。
しかし、昭和20年8月15日終戦。
早くもその年の11月に朝融王は長男(倶子には孫)・邦昭王をアメリカ留学させようと計画しますが、宮内大臣、宗秩寮総裁に猛反対されます。
そして、昭和22年10月22日。昭和天皇の兄弟以外の宮家はすべて廃止されます。
同年6月に妻・知子女王を亡くして「一家の大黒柱をなくした」(『少年皇族の見た戦争』p.200)状態だった久邇家の没落はあっけない物でした。まだこの時倶子は健在でしたが孫・邦昭にして「当時祖母は健在だったが、一家の大黒柱を失った痛手は大きかった。母は判断に優れた人で、あの戦後の難しい時代にもっと長生きしてくれていたら」(『少年皇族の見た戦争』p。200)と書いているくらいですから、世間の荒波に放り出された宮家の采配は無理だったのではと推測されます。
その前年(昭和21年)頃、宮代町にあった久邇宮家の東京本邸を売却します(邦昭氏によると「国有地として取り上げられた(中略)登記もしてなかったから取られてしまった」(『少年皇族の見た戦争』p.198)としていますが)。
売却直前の宮代町邸にて 香淳皇后が別れのために訪問したときの一枚
その後朝融一家は倶子が隠居していた常磐松の屋敷へ転がり込みます。が、この屋敷も朝融王の事業の失敗が原因で売却されてしまいます。売却先は飯野海運の社長だった俣野健輔でした(なお、邦昭氏は大学卒業後飯野海運に就職しています)。その後の倶子の居所については邦昭氏の著書にも何も記述が無く不詳。

昭和32年、邦昭は結婚。結婚相手は邦昭氏の著書には「父の学習院の三級下(中略)の三女」(『少年皇族の見た戦争』p.211)としかかいてないのですが、この”朝融王の3年下の人”というのが当時日本生命代表だった弘世現のことです。現は元々尾張藩筆頭家老の成瀬家の末裔だったのですが、日本生命の創始者だった弘世家の婿養子となった人物でした。弘世家は華族ではありませんでしたが、皇室とは縁の深い家柄で、現も高松宮らと若い時から親しくしているという関係でした(『高松宮日記』昭和4年1月2日など)。現はこの結婚に反対していたそうなんですが、倶子がこの結婚をかなりプッシュしたようで(『少年皇族の見た戦争』p.212)、結局この頃久邇家の世話役をしていた山梨勝之進らが根回しして現を説得したようです。
日本生命は当時日本最大の生命会社ですし、この頃経済的に苦しかった久邇家が弘世家の財力をアテにして倶子がこの結婚を一押ししたというのは、私の考えすぎでしょうか。
なお、この結婚式で座り仲人をしたのは島津忠重夫妻でした(『少年皇族の見た戦争』p.214)

但し、この結婚式を倶子は見ることができませんでした。
前年の昭和31年(1956年)9月9日に死去。享年76歳。
お騒がせの長男・朝融はそのわずか3年後の昭和34年12月7日「飲めないのに肝硬変で」(『少年皇族の見た戦争』p.239)死去。享年58歳。朝融の長女・正子が入信していた新興宗教を信じて病院に行かなかったのが手遅れになった原因とする説もあります。



次回は常子の別の妹たちを取り上げてみます。
倶子どころじゃない転落ぶりに涙が…続く。

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