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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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悲報 阿闍梨餅減産のお知らせ
(T∀T)
京都土産でお手軽でおいしいの代名詞だったのですが…原料不足じゃ仕方ないか

では気を取り直して本題
幕末三百藩 古写真で見る最後の姫君達
と言う、いかにもミーハーな本を借りてきました(^^;)
その本に一人だけ、島津家のお姫様がネタにされていました。
 島津常子
最後の薩摩藩主・島津忠義の娘の一人です。
ちなみにこのコラム執筆の担当は尚古集成館学芸員の寺尾美保氏。肩書きにもうひとつ「東京大学大学院博士課程在籍中」とあったのでちょっとビックリ。鹿児島から飛行機通学でしょうかねヾ(^^;)

では本題にもどって、島津常子がどういう生涯を送ったのかと言うことについて、上記の本に書かれた寺尾氏のコラムなどを元にして紹介してみる
気になる方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ
※以下記事中に出てくる写真は上掲本、または『近代皇族の記憶-山階宮家三代-』より引用した物です。



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島津常子は明治7年(1874年)、鹿児島に生まれます。
常子3歳の時の写真 既に将来の容貌が偲ばれる
当初は「つねこ」と読んでいましたが明治21年に「ひさこ」と読み方を変更します。変えた理由は記載が無く不明です。
父は先述の通り、最後の薩摩藩主だった島津忠義。島津久光の長男です。
忠義は先代藩主の島津斉彬の婿養子という形式を取って後を嗣いだのですが、先妻(テル子、斉彬の三女)、後妻(寧子、斉彬の五女)とも若くして亡くなってしまいます。
そのためこの頃には妾がおり、常子の母も実は妾・山崎寿満子でした。

さて、寿満子はどういう女性だったのか。
常子の同母弟・島津忠重が自著『炉辺南国記』で山崎寿満子について回想していますが、ともかく存在感が無く目立たない女性だったようです。また、島津家の家政はもちろん、実子の養育についても全く口出しできなかったのは忠重の家庭教師だったエセル・ハワードの回想録『明治日本見聞録』で全く山崎寿満子が登場しないことからもうかがえます。
江戸時代に於いては絶大な権力をふるった側室(島津家に於いてもお由羅の方とかいましたね(^^;))がゴロゴロいましたが、これが明治時代になると一転、日陰の立場に置かれたのは興味深いです。今回のネタ本でも松平春嶽の側室・婦志(ふじ)は春嶽が死ぬまで女中扱いだったという微妙なエピソードが紹介されています。

脱線はこの辺にして常子の話に戻る。
ともかく常子は早くから生母と離れて奥女中に養育されていました。
撮影時期不詳だが10代前半ぐらいに撮られた物か。既にこのレベルである
常子16歳頃の写真 何で行き遅れたのか不思議でならない一枚
それは忠義の他の子供達も同様で、それぞれに「号」(花の名前が多い)が付けられていました。また、奥女中達も常子達の名前を呼ぶことはなく、どうしても名前を言わなければいけないときには「○印様」と呼んでいました。常子の場合は「福印」です。
鹿児島暮らしの常子は当然東京にある華族女学校(1885年設立)に通うこともできず、家庭教師に習い事をしていた物と思われます。現在伝えられているところでは、音楽(ピアノ)と英語を得意としていたようです。

こうして明治時代にしてもかなり前時代的な育てられ方をしていた常子の人生に一大転機がやってきます。
明治30年(1897年)、父・島津忠義が58歳で病死。
この時常子は24歳になっていました。この当時、華族の娘は20代になるまでには婚約し、10代で結婚する者も多かった中、これは「売れ残り」と言われてもおかしくない年齢でした…。明治維新の立役者である薩摩藩の姫であった常子がこんな状態になってしまったのはかなり謎なのですが、これを説明してくれる本は今までありませんでした。
…今回のネタ本では担当が寺尾氏と言うこともあり期待して読んだのです
が、全く言及すらされてませんでした_(。_゜)/
うーむ、実は常子行き遅れには島津家の重大なタブーがあるのかも知れない?
なお、常子の妹の内2人(貞子、俔子)は常子より先に結婚していました。

忠義の死後、元薩摩藩士-と言うか、薩摩藩出身の明治政府元勲を中心として、島津家に関わる重大な決定がされました。
島津家を鹿児島から東京に引っ越しさせるというものです。
これを特に推進したのが松方正義。松方は忠義が前時代的な家風を守っていることは島津家、ならびに元薩摩藩士にとって良くない影響があると考え、余り良く思っていなかったようです。そして島津家の子弟を欧米風に教育し直すため、忠義の死をきっかけに東京に移住させたのです。当然、鹿児島在住の元藩士達は松方らの計画を良く思ってはおらず、いろいろ妨害もしたみたいなのですが、松方は忠義の後を嗣いだばかりの忠重(当時12歳)に
「家督を相続したんだから、陛下(=明治天皇)に挨拶しないと」
とか何とか騙して無理矢理東京に引っ越しさせてしまいます(^^;)
当主を失った残りの島津家の人もそのまま鹿児島に暮らすというわけにはいかず、後を追うように常子等も東京に引っ越します。

東京に引っ越した後の常子ですが、やはり男兄弟とは離れて暮らしていたようです。先述の『明治日本見聞録』で、「忠重ら男兄弟とは別に、常子という婚期を逃した姉と知子、為子という妹が暮らしていた」という旨のことが書かれています。
東京で同居していた妹たちと(左から常子、知子(後徳川家正夫人)、為子(後徳川頼貞夫人))
エセル・ハワードは女子の教育については担当していなかったらしく、常子等女子の記述はこれくらいしかありません。ちなみに、同居していた妹の内、知子は既に徳川家正(家達公爵の長男)と婚約していました。

このままいけばまさかの一生独身も考えられた矢先の明治35年(1902年)、26歳になった常子ににわかに縁談が持ち込まれます。相手は何と皇族。この当時ではかなりの売れ残りの常子に何でこんな結構な話が…と思われるでしょうが、相手は実は再婚でした。
相手の名前は山階宮菊麿王。常子より1歳年上で、ドイツに5年間も留学した経験があり、この頃は気象学の研究に没頭しているという学究肌の人物でした。
常子との再婚話が浮上したのは、前年に先妃・範子(九条道孝娘)を亡くしたからでした。 範子妃 貞明皇后の同母姉に当たる
範子との間に幼少の子供が3人(武彦王、芳麿王、安子女王)おり、彼らの養育のためにも再婚が急がれた物と思われます。同年3月10日には婚約、11月15日に納采の儀(結納)、同月26日には結婚式を挙げるというスピード結婚でした。披露宴は芝離宮(現在の芝離宮公園)で政府高官や陸海軍の高級将官など400人を招待するという大がかりな物でした。
結婚式の時の菊麿王 常子
菊麿王と常子の仲は良かったようで、タバコをたしなんでいた常子のために、菊麿王が煙草に火を付けて勧めたりする光景も見られたそうです。なお菊麿王自身は全くタバコが駄目でした(^^;)
常子は明治38年2月25日に藤麿王(後の筑波藤麿侯爵)、翌39年4月21日に萩麿王(後の鹿島萩麿伯爵)、41年4月29日に茂麿王(後の葛城茂麿伯爵)を産みます。
後年撮影された藤麿(真ん中)、萩麿(右)、茂麿(左)と共に写った写真

ところが茂麿王を産んでわずか3日後に、夫・菊麿王が急死してしまいます。死因は急性肺炎、享年36歳という若さでした。
※亡くなったのは茂麿王を産む2日前という説もあり
結婚生活はわずか4年半でした。
常子は産後のつらい身体でしたが、菊麿王の死後の処理に奔走する毎日を送ります。一番大きな仕事は菊麿王が私費で作った筑波の観測所を文部省に寄付することでした。
結婚4年で未亡人になってしまい、夫の連れ子を含めると6人の子供を抱えた常子に世間の同情はかなり集まったようで、大正3年2月24日付読売新聞朝刊に「若き未亡人山階宮常子妃殿下」という記事が記載されたこともありました。
明治天皇の葬儀の時に撮影された菊麿王の遺児達(武彦王は写っていない)の写真

大正6年、常子は久しぶりに鹿児島に帰郷します。義理の祖父・斉彬、実祖父・久光、父・忠義を顕彰する銅像の落成式に招かれたのです。
その時に撮影された写真がこれ。

本来の主役であるべき当主(常子実弟)の忠重ではなく、常子が真ん中です。これは皇室中心のこの時代では普通だったみたい。
(例)鍋島家の集合写真 真ん中にいるのは李王家夫妻 当主の直英はかなり後方に(苦笑)
大正11年には長男(母は先妻の九条範子)の武彦王が賀陽宮佐紀子女王と結婚 、常子もようやく肩の荷を下ろせる

かと思われた翌年9月1日。
関東大震災により、佐紀子女王圧死。その時懐妊中でした。
突然の災害で妻と子供を同時に失った武彦王は次第に心を病み、その後、私設で飛行士養成所を設立したりしたものの、精神病は更に悪化、結果養成所はわずか1年で閉鎖、本職であった海軍も昭和7年には退職に追い込まれています。
武彦王は梨本宮規子女王と再婚する手はずまで整っていたのですが、当然破談に。以後、発狂した武彦王に大事な娘を再婚させようという酔狂な皇族も華族もいるわけが無く、また武彦王の弟たちも既に独立して別家を建てていたので、この時点で山階宮の絶家はほぼ確定となりました。
発狂した武彦王により身辺に危険が迫った常子が、一時は別荘に待避しなければいけないほど大変な状況だったようです(『破約の時代』筑波常治(※常治は常子の孫に当たる))。

更に昭和7年には、出生の3人の息子の内、真ん中の萩麿に27歳という若さで先立たれます。

ただ多くの絶家した宮家が子供もない状況だったのに対し、皇族から独立していたとはいえ多くの子孫に恵まれていた常子は幸せな方だったのではないかと思われます。
これが晩年の写真。

昭和13年死去。



この本には常子の妹たちもちょっと載っていたので、項を変えて紹介する予定です。
<つづく?!>

※おまけ
別件で『高松宮日記』を読んでいたら、賀陽宮恒憲王が常子が嫌いとか言ってたという話が出てた(1巻、昭和2年1月19日)詳しい理由は書いてないんだが、何があったんだヾ(^^;)
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