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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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『炉辺南国記』で興味深い話発見。コピーを取らなかったので記憶に頼って書くが
島津忠重は長年天璋院の墓参りをしたかったそうなのだが
忠重の姉・正子(なおこ)が徳川本家17代当主・徳川家正の夫人であったにも関わらず
両家の間には交流はほとんどなく、
戦時下の昭和17年になってようやく寛永寺にある天璋院の墓参りが出来たとのこと。
『花葵』で家正・正子の三女である保科順子さんの書いた話が島津家側からの証言でも裏付けられた。



『しらゆき』で徳川為子(忠重の異母妹、紀州徳川家、徳川頼貞夫人)が忠重に寄せた「追悼文」が載っていた。というか、追悼文という体裁になってない。その文で為子が語るには「兄とは腹違いの上別居して、ほとんど交流がなかったので思い出がない」とのこと。…旧習が強く残っていた中で育った大名華族はこんな物かも知れません。
で、その数少ない「思い出」というのが、実は忠重がらみじゃなくて何故か大山巌がらみなのである。それは忠重の屋敷で開かれた宴会に、子供の為子も参加したのだが、その時隣の席になったのが大山巌。この宴会で、大山巌はスピーチ後に給仕の椅子をひくタイミングが悪かったために床にひっくり返るという、吉本興業芸を披露する羽目になってしまうのである。この時、子供の為子でもさすがに笑えず呆然としていたとか。ちなみにこの席には忠重の「家庭教師」であったハワードも同席し、その話をしっかり書き残している。よっぽどおもしろいすごい状況だったので、みんなの記憶に残ったのだろう…。
ところで、この追悼文を書かされた時点では(昭和46年頃)、既に紀州徳川家は財産を失い、為子は貧困の中で暮らしていたと思うのだが…。この依頼をどういう気持ちで受けたんだろうか。

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