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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
西武グループの創始者・堤康次郎が異様に華族・皇族に執着心があり、戦後、没落した華族や皇族の屋敷や土地を二束三文で買いあさっていたというのは有名な話だが 参考こちら

島津家もその例外ではなかったらしい。

意外に思われるかも知れないが、戦前から戦後に掛けて、島津家は東京に持っていた広大な家屋敷を売却したりして転々とする羽目になっている。理由はいくつか挙げられるが
(1)松方財閥の破たんの時、筆頭株主だったため連帯責任をとった(参考 『日本の大名家はいま』
(2)太平洋戦争の激化により、屋敷の維持が不可能になった
(3)ご存じ戦後の華族制度廃止やGHQによる過剰な財産税、それによる財産の処分に伴う物
最後の(3)はほとんどの皇族・華族がそういう目にあったのでともかくとしても、「明治維新の果実は薩長閥が持っていった」と一般的に言われるが、昭和に入ってからの島津家はとてもそんな通説とはかけ離れた実態だったことが分かる。


…で、その土地の売却に絡んだのが堤康次郎なのである。
『しらゆき』(島津忠重・伊楚子追悼文集)に島津公爵家の屋敷の変遷が詳しく記載されているが、残念ながら禁帯出図書だった上、copyを取ってないのでおぼろげな記憶に頼って書く。
・島津家の屋敷として有名な袖ヶ崎邸は太平洋戦争の激化のため日本銀行に売却されるが、この時に仲介したのが堤康次郎
・戦後、財産税の捻出のため、鎌倉の別荘などを売り払うが、それらを購入したのが堤康次郎
・その後、居所を転々とする島津一家の家屋敷を斡旋したのが堤康次郎
ところが『しらゆき』には残念なことに、いつ何をきっかけとして堤康次郎なるいかがわしい人物が島津家に深く関わることになったのか、そのいきさつは全く書かれてなかった。

おまけ
最終的に島津家は杉並区の300坪のお屋敷に落ち着かれたそうだが、忠重長女・経子氏の回想によると、母の伊楚子さんは
「300坪なんて狭すぎる!着替えてるのが隣から見えるじゃないの!」
…と、ちょーごきげんななめだったらしい(^^;) …感覚ずれてられるのがさすが元公爵夫人か?

おまけ2
『しらゆき』によると、忠重の孫・修久(現島津本家当主)が結婚式を挙げたのが赤坂プリンスホテル(現グランドプリンスホテル赤坂)。説明するまでもないが、堤康次郎が李王家から二束三文で買いたたいた事で有名であり、現在残る旧館はその当時李王家が使っていた建物そのものである。…何でこんな因縁のあるところで…昭和40年代は披露宴の出来るホテルは多くなかったとはいえ、他に帝国とかオークラとかニューオータニとかあるのに…。

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