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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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元セゾングループ総帥の堤清二氏(=作家”辻井喬”)が11月25日になくなっていたことが28日にニュースになりました
実はこのセゾングループ配下に私が愛用している無印良品もあったのですが(今は違う)…別館全然更新できてへんのをどうにかしないとね(^^;)

さて、拙別館を抜きにしても、堤清二と拙ブログ(のネタ)は意外に関わりがあったりする。
「つづきはこちら」をクリック。


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もともと拙ブログの本命ネタである島津氏と堤清二、と言うかその父の堤康次郎が深い関わりがあるのはこちらのエントリで紹介している。
堤康次郎が何故か異様に皇族・華族に執着があり、戦後の没落に乗じて彼らが持っていた土地を安値で買いあさったのはご存じの方も多いであろう。
ちなみに、『増上寺 徳川将軍墓とその遺品・遺体』でも紹介されているが、増上寺にあった徳川家墓所を買いたたいたのも堤康次郎である。購入後はプリンスホテルが建ったのかな?
幸運にも島津家の邸宅の後がプリンスになることはなかったようですが…墓場をホテルにされたらかないませんな



そして
今私がはまっている今田新太郎と堤清二は間接的に関係があるのである。

wikipedia「堤清二」を見てみよう
後妻・麻子(元芸妓、元産経新聞社、フジテレビジョン社長水野成夫の養女)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%A4%E6%B8%85%E4%BA%8C#.E5.AE.B6.E6.97.8F.E3.83.BB.E8.A6.AA.E6.97.8F
注目点はこの後妻・麻子夫人の経歴ロンダリングに関わった”水野成夫”と言う人物である。-実はこの人物が実業家として世に出るきっかけを作った人こそ、今田新太郎その人なのである。
これに関して、現在「水野成夫を世に出したのは岩畔豪雄(陸士30期、今田の同期)」という説が罷り通っている
例えばまたまたwikipediaを例に出してみると
1938年、同じく転向者で、その後も水野の片腕として行動を共にする南喜一が米糠を媒体に使い、新聞紙からインキを抜いて再生紙を作るというアイデアを陸軍に持ち込む。陸軍軍事課長・岩畔豪雄は、国策としてパルプ自給をはかるという計画を持っていたため、同年日清紡績社長・宮島清次郎を社長に迎えて国策パルプを設立させた後、若い南と水野を見込み、元共産党員では、という周囲の反対をはねつけ、1940年、二人に国策パルプ工業の全額出資で別会社・大日本再生製紙を作らせた。南と水野を最初に見出したのは岩畔である
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E6%88%90%E5%A4%AB#.E6.9D.A5.E6.AD.B4.E3.83.BB.E4.BA.BA.E7.89.A9
※下線はばんない補足
他には近年出版された『水野成夫の時代-社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで-』でも同様のことが書かれているようである(検索での調査による、本体は未見)

だが、これが実は間違いなのである。
反逆の獅子―陸軍に不戦工作を仕掛けた男・浅原健三の生涯』によれば、南喜一が古紙再生の技術を開発し、水野成夫を巻き込んで事業化しようとしたところまでは良かったが、資金に目処が立たず、社会主義運動仲間であった浅原建三を頼ったところ、当時参謀本部勤務だった今田新太郎を紹介され、更に今田は同期である岩畔豪雄を紹介したのだという。
南喜一の追悼録『蟇将軍南喜一 (1971年)』では当初南と水野は関東軍の援助を取り付けたが、その後いっこうに連絡がないのにしびれをきらしてつてを駆け回り、参謀本部の今田新太郎の助力を取り付け、更に秩父宮、岩畔豪雄のバックアップを得たという。
…内容に小異があるが、岩畔が直接水野、南を取り立てたわけではなく、今田の仲介があったのは事実と見て間違いないだろう。

…実は何よりかにより、当の本人の岩畔が、水野・南と知りあったきっかけが今田にあったことを告白しているのである。南喜一の追悼録で岩畔はこう書いている。
そしてその件を私の親友今田新太郎のところへ持ち込んだ。
化しようと云うことになった。そこで南君は水野君と話合って満洲国政府が再生パルプ
の特許を受けないのなら、我々の手で事業かさえ決定していなかった。ところが、満洲国
p.71
かくて再生パルプ事業化の交渉が始まるのであるが、この事業化の中心的後援者は
朝日新聞経済部にもよるが、それよりも重要なのは南、水野両君の人間的魅力であった
。手を出し南、水野両君をお助けすることになったのは一つには親友今田君の懇請も
p.72
追想南喜一 (1971年)
水野はどうもこのことをかなり感謝していたらしく、戦後公職追放などでつましい暮らしをしていた今田家(前掲書『追想南喜一』の安部鹿蔵回想)に代わって今田の葬儀を執り行ったのは水野なのだという(『日本憲兵小史』)

なお、水野と今田家のその後のつながりに関しては不明なのだが、水野家と堤清二は今も深いつながりがあるらしい
堤 清二さんの死が公表されたと連絡をもらいました。実はきのう密葬でした。引退されてからは作家・辻井喬として活躍されて、、。私たち夫婦の結婚の保証人、優しい方でした。ご冥福を祈ります。
https://twitter.com/kiuchi_midori/status/405954730892881920
※木内みどりの夫・水野誠一の父が水野成夫。

それにしても堤清二の享年聞いてびっくり。86歳。まだ60代のイメージが(^^;)。そりゃ昭和も遠くなるわなあ…さよならバブルの象徴。財産は吹っ飛ばされたようですが、希望通りの文化人としてあちこちで活躍されていたようですから、くいはない人生だったでしょう。たぶん。
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