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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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今回も史料のご紹介。
当事者の証言を再構成した『目撃者が語る昭和史』シリーズの3巻「満州事変」です。
監修は現東京都知事の猪瀬直樹氏、編集は平塚柾緒氏
集められた証言は玉石混淆という印象ですねー
「私は関東軍を告発する」(田中隆吉)とか、「お前が言うなよ~」と思ってしまう
そんな中から興味深い物をピックアップ 今田に関係ない文も含まれます

ではまいる

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その間に部内にはびこった、薩長の陸軍と言われた部内の派閥が、更に石川、佐賀閥を加えたのに対抗するための秘密の会を組織し、渋谷道玄坂のフランス料理屋「二葉」に同志が会合した。小畑敏四郎、磯谷廉介、永田鉄山、板垣征四郎、岡村寧次、山岡重厚、後輩の東条英機、山下奉文などに上級では、荒木貞夫、真崎甚三郎などとも連携があったが、ほかには鈴木貞一、黒木親慶、小笠原数夫などを始め全国的に青年将校とも結び、閥族的色彩がある者の陸大入学を阻止したりして暗躍し、(以下略)
「戦争放火犯の側近」平野零児 初出「特集文藝春秋 昭和31年12月号」
p.50
平野零児は河本大作の義弟(姉の夫が河本)
満州建国当時の陸軍大臣であった荒木貞夫大将は、関東軍の建設せる傀儡政権であって断じて王道楽土にあらずとして、後年満州国の建国祝賀会に参加を拒否した。また満州国の外交部次長の大橋忠一氏は、満州国は関東軍が満州人の民意を無視して、中央部の反対を顧みず強引に建設をした関東軍軍閥の私物であるに過ぎないと罵倒した。如何なる王道楽土であったかと言うことは想像できる。この満州事変に関し、清水規矩中将という人がなかなか面白いことを述べている。すなわち、「本庄軍司令官以下、三宅、板垣、石原氏など悉く陸軍幼年学校の出身である。幼年学校は年少の少年に軍事一点張りの教育をするから非常識な軍人が出来て、これら非常識の幼年学校出身者が満州事変を起こし、遂に日支事変を誘発し、ひいては大東亜戦争をも引き起こし、祖国を滅亡寸前に陥れた。なるほど満州事変はその動機においては不順な物がないが、結果的にはその罪は大である」と。
「私は関東軍を告発する」田中隆吉 初出「人物往来 昭和40年5月号」
p.68
田中隆吉は今まで幾度か出て来た「GHQにつながりのある某田中隆吉少将」のこと。よくWeb上でお見かけする「陸軍幼年学校悪玉論」の出元らしい清水規矩も実は陸軍幼年学校出身の様だ(^^;)
「陸軍幼年学校悪玉論」については、近年かなり詳しい論考が出ている こちら※pdfファイル
満州事変はこの柳条溝事件を契機として勃発した。この爆破事件は戦前は「暴戻なる支那軍」によって引き起こされたことになっていたが、戦後になって関東軍の一部将校と少数の部外者の手で行われた謀略工作であることが明らかにされた。この謀略計画に参加したのは、板垣、石原の両参謀を中心に、奉天特務機関の花谷少佐、張学良顧問の今田新太郎大尉が主なところで、ことに直接の爆破工作は今田が当たった。そして、工作を成功させる為には軍人を使うのが最も安全だとして「爆破後直ちに兵を集めて行動を開始する以上、在奉天の中堅幹部にはどうしても秘密を漏らさねばならぬ」(花谷正『満州事変はこうして計画された』)ため、川島大尉、小野大尉(いずれも在奉天独立守備隊島本大隊中隊長)、小島少佐(在奉天第29連隊付)、名倉少佐(同大隊長)、三谷少佐(奉天憲兵隊)などが加わり、補助作業には甘粕正彦予備大尉、和田勁予備中尉などが参加した。更に、事が起これば隣接朝鮮軍からも適宜増援を受ける必要があるため、同軍参謀神田正種中佐にも連絡をつけ、中央に対する同志としては参謀本部の支那課長重藤千秋大佐、支那班長根本博中佐、ロシア班長橋本欣五郎中佐等にも多少の予備知識を与えた程度で、同志は少人数に限られていた。
「証言構成 柳条湖事件の真相」
p.82
私が並行して読んだ『満州事変の裏面史』(これも当事者へのインタビューで構成された本)を読むと、これとはちょっと異なるような。片倉衷の証言にもあるが「花谷は途中から外されてた」というのが正解だと思う。
鈴木貞一(当時参謀本部軍事課員・中佐)談
「軍事的な面から見ると、列強の植民地政策は盛んになり、ことにソ連の脅威から日本を守るために「国防」と言う考えが新しく出てきた。政治家は、国防と言うことに関しては何も分からなかった。第一次世界大戦で武器の飛躍的進歩がみられ、我が国でも急速に軍の近代化を図らねばならなかった。また大戦中多くの観戦武官を欧州の戦場に送り、研究させた結果、若い将校達の間に、不勉強な幹部を馬鹿にする風潮が生まれ、幹部またこれを押さえることができなかった。ここに下克上の風潮がおきた。近代的軍備拡張の要請と同時に、出て来たのが戦後の軍縮の問題。これに不況が絡んで官吏の減俸問題や農村の疲弊が著しく、社会不安の元となった。ことに軍では兵隊の供給源を農村に仰いでいるため、農村の不安は直接国防の不安にもつながる。このため青年将校は次第に既成の政治体制に不信と反感の念を抱き、昭和初年にかけて国家改造思想が生まれてきた。荒木教育総監本部長より、青年将校の思想善導に当たるよう命を受け、今田新太郎など青年将校を家に呼んで話したりしたのも、このころだったと思う」
「証言構成 柳条湖事件の真相」
p.86
鈴木貞一談
「昭和5年11月、永田と重藤が満州を視察して北京に来た時、永田は私に陸軍省の軍事課に帰るようすすめながら、奉天には大砲が少ないので24サンチ砲を旅順から移すよう、板垣大佐に話してきた、と言った」
p.92
永田は永田鉄山、重藤は重藤千秋参謀本部支那課長
ところが、建川の派遣の公式電報が入る前に、大川周明門下の中島信一がこの情報を旅順にもらし、また15日には参謀本部の重藤千秋及び橋本欣五郎から板垣の元に同様の連絡があったという(中野雅夫編『橋本大佐の手記』)
p.93
事変が起きてからの私の仕事は多忙をきわめた。だが、その中にも心を暗くしたのは部下、腹心の人々の離反であった。作戦課員数十名の大部分は、関東軍を統制しようという私の方針を助けてくれたが、2,3名の急進派は、不快の言辞を弄し、暗々裏に私を参謀本部から追い出す工作を試みた。
10月上旬、世田谷の私の自宅に、池田純久大尉(後の中将)と田中清大尉が訪ねてきた。「夜分突然お邪魔致しましたが、国家の大事と思われますので御相談に上がりました。桜会の連中は重藤大佐(参謀本部支那課長)を中軸とし、時局解決の方法を研究して来ましたが、その中心はロシヤ課の橋本欣五郎中佐に移行してしまい、次第に急激となり”非常手段により現政府を転覆するのでなければ、到底満州問題は解決できない”と決断し、クーデターの計画を進めております。私に右の立案を依頼してきたが、承知できません。この件につきどう考えますか」(以下略)
「帝国陸軍の"非行少年"」今村均 初出「人物往来 昭和39年8月号」
p.111
池田純久は統制派を代表する将校の一人(と言うか「統制派」という用語の言い出しっぺらしい)、田中清はあの田中新一の弟。
甘粕の挨拶はいつも簡単であった。開会の辞でも「開会します!」とだけ言って降壇する。そこにえもいわれぬ味があった。協和会の指導部長をした中野琥逸が昭和13年、ベトナムで死に(毒殺されたらしい)協和会館で葬式があった時、甘粕は次のように葬儀の辞を述べた。
「国事のために一身を捧げる志士は、妻子を持たず、独身であるべきだと私は考えておりました。私には妻子があり、故人は妻子がありませんでした。しかしこうなってみると、妻子のないことは寂しいものです」
消極的ではあるが、これほど深みを持つ弔辞を私はかつて聞いたことがない。
「満州建国の黒幕・甘粕正彦」武藤富男 初出「人物往来 昭和41年3月号」
p.178
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