拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
思うところあって『黒田家文書』を取り寄せてみたら、肝心の1巻が入手できない_| ̄|○
やっぱり今年の大河ドラマ関連で予約詰まってるんだろうな…
時期的に大河ドラマとかぶらない2巻と3巻(江戸時代初期黒田長政以降江戸中期黒田宣政まで)は入手。
私の欲しい情報は載ってなかったのですが、興味深い話が何点かありましたので紹介します。
<注記>
・史料は原文そのままではなく、ばんない超絶口語訳です。正確に読みたい方は『黒田家文書』をご入手されることを強く強くお奨めします(^^;)
・文書番号は「文書(巻)-(文書番号)」で表記します。<例>『黒田家文書』2巻の1番文書→2-1
・黒田長政と糸姫(蜂須賀小六の娘)の間の子供のその後
ネタバレになるのだが、慶長4年頃、長政は突然糸姫を離婚して徳川家康養女(実は家康の姪、実父は保科正直)・栄姫と再婚してしまう。秀吉死後、婚姻政策で派閥を広げようとした家康の作戦に乗ったのだった。
実は長政と糸姫の間には一人子供がいた。慶長元年生まれの菊姫である。両親が離婚した際、彼女は黒田家に残ることになった。成人後、黒田家の家老であった井上之房の息子/庸名の妻となっている(ちなみに庸名は黒田家の家臣ではなく、幕府旗本にスカウトされている)。異母妹達が大名家に嫁いでいるところから見て、やはり「格下」というように見られていたのだろう。このような境遇に置かれた彼女に対して、長政は大変気を使っていたと思われ、遺言で(1)2000石の化粧領を与えること(文書2-70)(2)母(櫛橋光)分の財産は、母の死後すべて菊姫に渡すように…と命じている(文書2-72)。化粧領2000石は異母妹/徳姫(後述)と同等である上、更に櫛橋光の財産まで相続すると妹を上回ることになる。
・長政の姑 久松多劫
実はこちらのコメントで「徳川家は女性の再婚OKだった家風だったらしい」という情報を頂いていたのだが、その徳川家の家風を最大限に生かした?女性が長政の後妻・栄姫の母である多劫姫のようである。多劫姫は徳川家康の父違いの妹(父・久松俊勝、母・お大の方)で、当初は松平忠正(桜井松平家)に嫁に行ったが最初の夫が早世した後、今度はその弟/忠吉の嫁になったという、島津亀寿みたいな人物である。最も亀寿は最初の夫や次の夫との間にも子供がいなかったのだが、この多劫姫は何と最初の夫との間に男子一人(松平家広)を産んだ後、次の夫との間にも男子2人(松平信吉、忠頼)を産んでいる。しかし、もっとすごいのはこの次の夫が死んだ後またまた再婚して、今度は2男4女を産んだらしい…(○。○)(文書2-79,80)その内の一人が栄姫というわけである。ちなみに栄姫も3男2女の母で多産だった。幸運にも栄姫は死別再婚はなかったですが。
・もしかしたら徳川家光の嫁になってたかも知れない?黒田長政の姫
実は『江戸城の宮廷政治』で山本博文氏が細川忠興リアルメールに載っていた話として上記のことを紹介していた物の、「まーた忠興が好物の噂話書いてるよ」ヾ(^^;)…ぐらいに受け流していた私。が、今回入手した『黒田家文書』により、その噂話は嘘800ではなく、どうも事実だったことが判明。
長政次女・徳姫は徳川家光の婚約者として、徳川秀忠正室(家光の母)/お江与の方の内諾まで得るまでに至っていたようです…が、徳姫が「丙午生まれ」というのがネックとなり破談となった、そうです(文書2-80)。最も徳姫の産まれ年なんて最初から分かっていそうなことで、おそらくは縁談が進んでいく内に「やっぱり次期将軍の正室は一大名家より、公家とか宮家から迎えた方が」という案が出て来て徳川側の事情で破談になったように思われます。なおこの徳姫はその後榊原忠次に嫁に行きますが、結婚1年目で難産のため死去、残された遺児・お万は黒田家に引き取られ栄姫によって養育されますが、彼女も8歳の時に病死してしまいます。以上から見て薄幸の人だったと思われます。最も家光はアレな人ヾ(--;)だったので、徳姫が家光御台所となっていたらそれは又別の意味で薄幸だった可能性が大。
・黒田長政のたった1回の?浮気???
黒田長政は初妻(糸姫)との間に女子一人、後妻(栄姫)との間に3男2女、特に後妻は徳川家康の養女だからおとなしくしている…かと思っていたのだが、『黒田家文書』により、そうじゃなかったことが判明。それどころかその浮気相手???というのが筑紫広門の娘というのでぶっ飛んでしまった。筑紫広門は名前の通り筑前の有力国人で、そのしたたかかつ優柔不断な態度は島津義久を始め多くの九州戦国大名を悩ませた厄介な人物なのである。この筑紫広門、関ヶ原の戦いでは西軍について改易、ようやくそのUPDOWN人生も終わりか…と思っていたのだが、この様子を見ると、黒田長政にお近づきになって復活を狙っていたくさいです。なお、広門の娘は長政の次男(黒田甚四郎政冬)を産んだ物の、この次男はとっても長政の悩みの種だったようで、結局、長政は遺言で次男に条件付きで8000石の領地を与えて分家させています(「甚四郎は短慮で30歳になるまで随分堪忍してきたが、30過ぎても全く変わらないようだったら、この領地は忠之(長政長男)が取り上げて良いから」(文書2-70))。
・黒田綱政の正室 立花心空院
黒田綱政は長政から見たらひ孫、官兵衛孝高から見たら玄孫になる福岡藩4代藩主なのですが、彼が藩主になるまでに家中ではいざこざが絶えず(有名な黒田騒動然り、同母兄/綱之が突然廃嫡されたりとか…そのため弟の綱政が藩主になった)、実はなにげに福岡藩は安定していませんでした。そんな中に嫁いできた柳川藩主/立花鑑虎の妹。実名は『黒田家文書』には残念ながら記入が無く不明、立花家側の史料を見たら分かるかも知れない。『黒田家文書』では彼女が綱政の妻に選ばれた理由がよく分からないのですが、藩同志が九州で近所というよしみもあったのかも知れません(ちなみに綱政の父/光之はやはり隣の小倉藩小笠原家から妻を迎えています)。
彼女はなかなか出来た人物だったようで、ぎくしゃくしていた光之/綱政親子の間を取り持ったり(文書3-230)とか、実子3人の他に夫が側室に産ませた娘(お久)も手元に引き取り養育したりしています(文書3-228)。しかしなによりすごいのは、筑前で荒廃の一途だった立花氏関連史跡の整備に力を入れたこと。立花(戸次)道雪の菩提寺・梅岳寺を再建したりしています。(文書3 p.248解説)なお、彼女は立花家の出身ではありますが、幕府の妻子江戸集住策のため江戸生まれ江戸育ち江戸で結婚江戸で没(1647生~1708/9/4没)、一度も九州に上陸したことはないようです…_(。_゜)/
・黒田綱政の次男の「丑年の禁忌」?
黒田綱政の次男は5代藩主になった黒田宣政なのだが、当初は兄・吉政が健在だったので所謂部屋住の存在だった。この時に名乗っていた名前が何故か「守山政則」という。一人だけ突然黒田以外の名字を名乗り、しかも家臣の養子になったわけでもない。この様子が幕府にも不審がられたらしく、質問されたときの回答文書(案文)が残っている(文書3-144~146)。それによると(1)宣政は丑年生まれなので、そのタブーを避けるため黒田ではなく「守山」という名字を名乗ることになった。(2)「守山」という名字にしたのは、黒田家は近江佐々木氏の出身であり、その縁の地である「守山」からとった…ということらしい。ちなみに守山は現在のここだとか。なお文書3-146によると、他に「乾」「馬渕」「沢田」も候補に挙がったが、たまたまその時黒田光之が参勤交代で中山道守山宿に泊まっていたのが守山に決まった理由だとか。結構いい加減(^^;)
それにしても「丙午の女」のタブーは今でも有名だが、「丑年生まれのタブー」って聞いたことがない。誰か詳しい方御教示お待ちしてます<(_ _)>
やっぱり今年の大河ドラマ関連で予約詰まってるんだろうな…
時期的に大河ドラマとかぶらない2巻と3巻(江戸時代初期黒田長政以降江戸中期黒田宣政まで)は入手。
私の欲しい情報は載ってなかったのですが、興味深い話が何点かありましたので紹介します。
<注記>
・史料は原文そのままではなく、ばんない超絶口語訳です。正確に読みたい方は『黒田家文書』をご入手されることを強く強くお奨めします(^^;)
・文書番号は「文書(巻)-(文書番号)」で表記します。<例>『黒田家文書』2巻の1番文書→2-1
・黒田長政と糸姫(蜂須賀小六の娘)の間の子供のその後
ネタバレになるのだが、慶長4年頃、長政は突然糸姫を離婚して徳川家康養女(実は家康の姪、実父は保科正直)・栄姫と再婚してしまう。秀吉死後、婚姻政策で派閥を広げようとした家康の作戦に乗ったのだった。
実は長政と糸姫の間には一人子供がいた。慶長元年生まれの菊姫である。両親が離婚した際、彼女は黒田家に残ることになった。成人後、黒田家の家老であった井上之房の息子/庸名の妻となっている(ちなみに庸名は黒田家の家臣ではなく、幕府旗本にスカウトされている)。異母妹達が大名家に嫁いでいるところから見て、やはり「格下」というように見られていたのだろう。このような境遇に置かれた彼女に対して、長政は大変気を使っていたと思われ、遺言で(1)2000石の化粧領を与えること(文書2-70)(2)母(櫛橋光)分の財産は、母の死後すべて菊姫に渡すように…と命じている(文書2-72)。化粧領2000石は異母妹/徳姫(後述)と同等である上、更に櫛橋光の財産まで相続すると妹を上回ることになる。
・長政の姑 久松多劫
実はこちらのコメントで「徳川家は女性の再婚OKだった家風だったらしい」という情報を頂いていたのだが、その徳川家の家風を最大限に生かした?女性が長政の後妻・栄姫の母である多劫姫のようである。多劫姫は徳川家康の父違いの妹(父・久松俊勝、母・お大の方)で、当初は松平忠正(桜井松平家)に嫁に行ったが最初の夫が早世した後、今度はその弟/忠吉の嫁になったという、島津亀寿みたいな人物である。最も亀寿は最初の夫や次の夫との間にも子供がいなかったのだが、この多劫姫は何と最初の夫との間に男子一人(松平家広)を産んだ後、次の夫との間にも男子2人(松平信吉、忠頼)を産んでいる。しかし、もっとすごいのはこの次の夫が死んだ後またまた再婚して、今度は2男4女を産んだらしい…(○。○)(文書2-79,80)その内の一人が栄姫というわけである。ちなみに栄姫も3男2女の母で多産だった。幸運にも栄姫は死別再婚はなかったですが。
・もしかしたら徳川家光の嫁になってたかも知れない?黒田長政の姫
実は『江戸城の宮廷政治』で山本博文氏が細川忠興リアルメールに載っていた話として上記のことを紹介していた物の、「まーた忠興が好物の噂話書いてるよ」ヾ(^^;)…ぐらいに受け流していた私。が、今回入手した『黒田家文書』により、その噂話は嘘800ではなく、どうも事実だったことが判明。
長政次女・徳姫は徳川家光の婚約者として、徳川秀忠正室(家光の母)/お江与の方の内諾まで得るまでに至っていたようです…が、徳姫が「丙午生まれ」というのがネックとなり破談となった、そうです(文書2-80)。最も徳姫の産まれ年なんて最初から分かっていそうなことで、おそらくは縁談が進んでいく内に「やっぱり次期将軍の正室は一大名家より、公家とか宮家から迎えた方が」という案が出て来て徳川側の事情で破談になったように思われます。なおこの徳姫はその後榊原忠次に嫁に行きますが、結婚1年目で難産のため死去、残された遺児・お万は黒田家に引き取られ栄姫によって養育されますが、彼女も8歳の時に病死してしまいます。以上から見て薄幸の人だったと思われます。最も家光はアレな人ヾ(--;)だったので、徳姫が家光御台所となっていたらそれは又別の意味で薄幸だった可能性が大。
・黒田長政のたった1回の?浮気???
黒田長政は初妻(糸姫)との間に女子一人、後妻(栄姫)との間に3男2女、特に後妻は徳川家康の養女だからおとなしくしている…かと思っていたのだが、『黒田家文書』により、そうじゃなかったことが判明。それどころかその浮気相手???というのが筑紫広門の娘というのでぶっ飛んでしまった。筑紫広門は名前の通り筑前の有力国人で、そのしたたかかつ優柔不断な態度は島津義久を始め多くの九州戦国大名を悩ませた厄介な人物なのである。この筑紫広門、関ヶ原の戦いでは西軍について改易、ようやくそのUPDOWN人生も終わりか…と思っていたのだが、この様子を見ると、黒田長政にお近づきになって復活を狙っていたくさいです。なお、広門の娘は長政の次男(黒田甚四郎政冬)を産んだ物の、この次男はとっても長政の悩みの種だったようで、結局、長政は遺言で次男に条件付きで8000石の領地を与えて分家させています(「甚四郎は短慮で30歳になるまで随分堪忍してきたが、30過ぎても全く変わらないようだったら、この領地は忠之(長政長男)が取り上げて良いから」(文書2-70))。
・黒田綱政の正室 立花心空院
黒田綱政は長政から見たらひ孫、官兵衛孝高から見たら玄孫になる福岡藩4代藩主なのですが、彼が藩主になるまでに家中ではいざこざが絶えず(有名な黒田騒動然り、同母兄/綱之が突然廃嫡されたりとか…そのため弟の綱政が藩主になった)、実はなにげに福岡藩は安定していませんでした。そんな中に嫁いできた柳川藩主/立花鑑虎の妹。実名は『黒田家文書』には残念ながら記入が無く不明、立花家側の史料を見たら分かるかも知れない。『黒田家文書』では彼女が綱政の妻に選ばれた理由がよく分からないのですが、藩同志が九州で近所というよしみもあったのかも知れません(ちなみに綱政の父/光之はやはり隣の小倉藩小笠原家から妻を迎えています)。
彼女はなかなか出来た人物だったようで、ぎくしゃくしていた光之/綱政親子の間を取り持ったり(文書3-230)とか、実子3人の他に夫が側室に産ませた娘(お久)も手元に引き取り養育したりしています(文書3-228)。しかしなによりすごいのは、筑前で荒廃の一途だった立花氏関連史跡の整備に力を入れたこと。立花(戸次)道雪の菩提寺・梅岳寺を再建したりしています。(文書3 p.248解説)なお、彼女は立花家の出身ではありますが、幕府の妻子江戸集住策のため江戸生まれ江戸育ち江戸で結婚江戸で没(1647生~1708/9/4没)、一度も九州に上陸したことはないようです…_(。_゜)/
・黒田綱政の次男の「丑年の禁忌」?
黒田綱政の次男は5代藩主になった黒田宣政なのだが、当初は兄・吉政が健在だったので所謂部屋住の存在だった。この時に名乗っていた名前が何故か「守山政則」という。一人だけ突然黒田以外の名字を名乗り、しかも家臣の養子になったわけでもない。この様子が幕府にも不審がられたらしく、質問されたときの回答文書(案文)が残っている(文書3-144~146)。それによると(1)宣政は丑年生まれなので、そのタブーを避けるため黒田ではなく「守山」という名字を名乗ることになった。(2)「守山」という名字にしたのは、黒田家は近江佐々木氏の出身であり、その縁の地である「守山」からとった…ということらしい。ちなみに守山は現在のここだとか。なお文書3-146によると、他に「乾」「馬渕」「沢田」も候補に挙がったが、たまたまその時黒田光之が参勤交代で中山道守山宿に泊まっていたのが守山に決まった理由だとか。結構いい加減(^^;)
それにしても「丙午の女」のタブーは今でも有名だが、「丑年生まれのタブー」って聞いたことがない。誰か詳しい方御教示お待ちしてます<(_ _)>
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戦国丑男
お久しぶりです。品切れといえば、何かの拍子で売り切れた小田原市史の北条1は1990年以来ずーっと欠品です。もしやと思って小田原の古書店に行ったら3冊ほど並んでいましたっけ……。
丑年の話は面白そうだったので少しネットで調べてみました。『丑年に生まれ,次男,兄』という論文があるようです(東北地方では丑年の次男を忌避する迷信があるとのこと)。戦国期だと池田輝政(永禄8年生)が条件に合致しますが兄とは対立せず。堀直寄(天正5年生)は色々あったので、ここら辺から迷信が始まったのかも知れませんね。
丑年の話は面白そうだったので少しネットで調べてみました。『丑年に生まれ,次男,兄』という論文があるようです(東北地方では丑年の次男を忌避する迷信があるとのこと)。戦国期だと池田輝政(永禄8年生)が条件に合致しますが兄とは対立せず。堀直寄(天正5年生)は色々あったので、ここら辺から迷信が始まったのかも知れませんね。
筑紫広門の娘が
長政の側室になった話は、稀少な筑紫オタでは有名ですよ。
筑紫の姫と言えば立花宗茂実弟に押し掛け婚した姫が美人と知られてますが、
長政の室になった方も大変な美人だったとか。
幕臣ロビー活動で筑紫の姫に手をつけたのか、
筑紫氏に流れる名門少弍氏の血統が魅力だったのか、
そこは判りません(ノ´∀`*)
筑紫氏は去就が下手な国衆よりエゲつな、、、ゲフゴホ、、
複雑で魅力的ですが、元々が少弍氏一門だから自分は純然たる国衆の括りとは、一線引いて史料を見るようにしてました。(*^^*)
筑紫の姫と言えば立花宗茂実弟に押し掛け婚した姫が美人と知られてますが、
長政の室になった方も大変な美人だったとか。
幕臣ロビー活動で筑紫の姫に手をつけたのか、
筑紫氏に流れる名門少弍氏の血統が魅力だったのか、
そこは判りません(ノ´∀`*)
筑紫氏は去就が下手な国衆よりエゲつな、、、ゲフゴホ、、
複雑で魅力的ですが、元々が少弍氏一門だから自分は純然たる国衆の括りとは、一線引いて史料を見るようにしてました。(*^^*)
丑年の次男
高村様コメントありがとうございます。
「丑年の次男はヤバイ」という迷信があったのですね。調査ありがとうございました。ネットで改めて調べてみると、北陸にも似たような迷信が数十年前まではあったようです。財産を食いつぶすからとか言われていたようですが…???
蛇足ながら今ネットで見たら、江戸時代は「丑年生まれの人は鰻を食ってはいけない(不幸な事件が起こるから)」なんて言う迷信もあったみたいですね。なんだか江戸時代の丑年生まれがかわいそうになってきました。
「丑年の次男はヤバイ」という迷信があったのですね。調査ありがとうございました。ネットで改めて調べてみると、北陸にも似たような迷信が数十年前まではあったようです。財産を食いつぶすからとか言われていたようですが…???
蛇足ながら今ネットで見たら、江戸時代は「丑年生まれの人は鰻を食ってはいけない(不幸な事件が起こるから)」なんて言う迷信もあったみたいですね。なんだか江戸時代の丑年生まれがかわいそうになってきました。