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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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『おんな城主 直虎』やっぱりというか、途中でギブしてしまいました(^^;)
日曜日の夜8時のテレビ視聴権無くなってしまったんで(T∀T)…録画して後から見ればいいと思いつつも、そこまで気がのらず…。途中からは低視聴率にあえいだのに制作者サイドが逆ギレ?サブタイトルが名作映画やベストセラー小説のタイトルのパロディばっかりになっていたのには、毎週苦笑してました。
来年は西郷丼ですが、原作者が林真理子氏ですから(*´・ω・)(・ω・`*)ネー。あの名作『翔ぶが如く』を越えられないという予感しかしないヾ(--;)

では、その大河関連のネタ。でも直虎の話は全くない。ごめんなさい<(_ _)>



井伊直虎の所で「戦国時代、家督を継いだ女性はいても、男名前まで名乗った例は直虎ぐらいしかない」と言うことを話した
のだが
男名前を名乗っていた女性?がもう一人いたのを思いだした。
ところが、これが武家じゃなくて公家の女性なのである
その上、後述するがこの「女性」には“疑惑”がある。

ではまいる。
ご興味のある方は「つづきはこちら」ボタンをくりっくぷりーず。



拍手[3回]



先日のエイプリルフールネタでもご登場頂いた(^^;)近衞前久。
この前久の後を嗣いだのが能書家としても有名な近衞信尹である。
が、信尹には男子がいなかったために、その後の近衞家は信尹の甥(信尹の妹・中和門院前子の次男)を養子にとって跡を嗣がせた。

…と言うのがいわゆる通説。

ただ、この頃の近衞家に関しては家族関係がはっきりしていない部分が大きい。
戦国の混乱のため、前久も信尹も京にいられなかった時期が長かったのも原因の一つであろう。
特に信尹の子女関係については「?」の部分が多い。

信尹が朝鮮出兵に連れて行けと発狂?し、後陽成天皇の勅勘を食らって薩摩の坊津に流刑にあった話、しかしこの流刑先が近衞家縁の島津家の領地内だったために、実際は楽しい流刑ライフヾ(^^;)だったらしい、と言うのは拙ブログをお読みの方ならよくご存じかと。
この流刑先で信尹、地元の女性に息子まで産ませていたらしい(○。○)という話は『東西ルネサンスの邂逅』(根占献一)で指摘されている。
が、この妾も息子も現在近衞家側の系図等では全く見られず。存在を確認できるのは信尹の日記『三藐院記』に出てくる
今夜、竹、誕ス。男子也。但、即時空。可惜、可嘆。
(文禄3年7月20日)
この一節のみ。
「但、即時空。可惜、可嘆」(ばんない意訳「ただ、すぐに空に行ってしまった。惜しむべし、嘆くべし」)と言う文から見るに、この男子は出生後すぐになくなってしまったようだ…。
なお「竹」というのはこの時誕生した男子の名前ではなく、信尹の現地妻?の名前らしい。この後も信尹はこの「竹」あての書状を何通か書いているそうだが、ここから見るに、この後信尹が許されて上洛したときにはついていかなかったようだ。

もう一人確認できる信尹の子どもとして知られているのが「太郎」と言う人物。
ところが、この「太郎」、名前から見ればどう見ても男なのに、江戸時代から殆どの学者がと比定しているのである!
何でこういう事になったかというと、それはこういう史料が残存しているかららしい。
京都国立博物館に「源氏物語画帖」という“絵本”が所蔵されている。この京都国立博物館所蔵のものは土佐光吉ら土佐派の画家が描いた物として有名で、また、後陽成天皇を始めとして当時の皇族/公家のそうそうたるメンバー23名が詞書を添えているのだが、この23名の中に「近衛太郎」が父・信尹と義理の兄弟・信尋と共に加わっている。この詞書の紙背の注記に「近衛前関白左大臣信尹公御息女」と書かれているのが”「近衛太郎」=女”説の根拠となっている。

ところが、この「近衛太郎」。上記の「源氏物語画帖」のほかにもいくつか書跡を残しているが、すべて漢文or漢字仮名交じり文で、当時の女性が仮名文しか書かないというルールに全く合致していない。

ここから「近衛”太郎”はやっぱり男性だったんじゃないか?」という説を唱えているのが、橋本政宣氏。
橋本氏の論旨は
(1)「太郎」は男子の名前であること
(2)太郎筆と伝来されている消息や絵に描かれた花押の形状は男性の物であること
から、近衛“太郎”は男性と考えざるを得ないとのこと。
(『近世公家社会の研究』p.644~645)

一方、これに対する反論もある。

古筆研究家の前田多美子氏は『三藐院 近衛信尹―残された手紙から』で、当初は橋本氏同様、書状の形式がすべて漢文であり仮名消息がないこと、信尹が遺言で“太郎”に相当の財産を分与し縁談などの手配を取った様子がないことから近衛太郎=男子と考えていた(前掲p.165など)物の、信尹が楊林院(柳原淳光(※前田氏は「敦光」と書いているが誤字)の妻)に都度都度“太郎”の世話を頼んだり、”太郎”と共に訪問したりしていることから、
しかし、これらの楊林院宛の太郎の手紙の、信尹が書き与えた手本を見ていると、なぜか太郎は姫であるような気がしてならないのである。
(中略)
姫であれば、信尹にとって太郎はまさに鍾愛の玉である。わずかの事でも傷が付いてしまいそうな、はかなげで純真無垢の玉である。あるいは生来の病弱、蒲柳の質であったのだろうか。それ故に、信尹は太郎に男子の鎧を着せて、守ってやりたいと思う。太郎という男児の名前も、花押を用いた男性的な書状も、いわゆる変成男子の願望の所産であったか、と想像力を働かせてしまうのであるが、いかがであろう。それ故に、信尹は自分の死後も、太郎が近衞家という楽園で安寧に過ごすことを思案したのではなかろうか。
(前掲書 p.176)
と考えを変え、「近衛“太郎”は女子」説に転向している。

橋本氏の説であれば、近衛信尹自体も身分の低い女性出生でありながら近衞家の跡を継いだのに、どうして近衛“太郎”は近衞家の後継者になれなかったのか?と言う謎が残る。
前田氏の説であれば、この時代女性に男名前を付ける例が他にあってもいいのに、類例は井伊直虎ぐらいしか見あたらない、と言う疑問が湧く。

果たして真実は?
なお、この近衛“太郎”についてはその後の近衞家の史料などには全く名前が見えなく、残した書状などもないので、信尹死後の消息は全く不明である。
前田氏の説を採れば、信尹死後すぐ出家して尼になった(なので記録が残ってない)というのもあり得そうだが。さてさて。


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