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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
…って、信長とそれ とか 秀吉とそれ の関係に比べると
全然盛り上がってなかったのは周知の事実かも知れないが。ヾ(^^;)

公称77万石実際の数値は半掛け以下らしい(参考 こちら 保護中ページなのがいまいちだが)の大名の割に、その宝物を管理している尚古集成館にはろくな茶道具がないし(暴言)
※もっとも、昭和初期に連帯責任をとってかなりの財産を処分したという話もあるので、その時に散逸した可能性もあるが。

島津義久の家老の一人が書いた『上井覚兼日記』を見ると「茶の湯」の記事は散見されるので、全くやってなかったわけでもなさそうだが、『鹿児島県史料』所収の「旧記雑録」には茶会記がほとんどないところから見ても、茶道に不熱心だった方の戦国大名であることは間違いない。

最も、戦国大名との結びつきで興隆したように思われがちな茶道ではあるが、実際お茶熱心だった戦国大名といえば松永久秀とか織田信長とか、やはり畿内との結びつきが強かった武将が多く、武田信玄とか上杉謙信とかが茶道楽だったという話は知らない。そういう話をご存じの方がいらっしゃいましたら具体的に史料付きで教えて下さいませ

戦国大名・島津氏が茶道に不熱心だったのは、「中興の祖」として有名な島津忠良のご託宣のせいもあるだろう。
「魔のしょゐか 天けんおかみ 法華教 一向宗に すきの小座敷」
→「天眼拝み」(=キリスト教)、法華宗、一向宗、「数寄の小座敷」(=茶道)に熱中するのは、魔が差した者のすることである、といった意味
ところが。この忠良を尊敬してやまなかった孫の島津義弘は何故かどっぷりと茶道にはまってしまい、関ヶ原の敗戦後、豊臣秀吉の人質となっていた妻・宰相殿が自分の道具は何も持たず、秀吉から拝領した茶入(銘「平野肩衡」)だけを持って大坂から逃亡してきたのを「さすが武士の妻たるもの良き心がけ」と激賞しているくらいである。

しかし、その義弘の息子である島津家久(旧名 忠恒)になると、家老・伊集院忠棟を茶会にかこつけて呼び寄せぶっ殺した所から見て、茶道に関してそれなりの素養はあったようだが、後に徳川家光を江戸の屋敷に招いたときには「式正御成」(室町幕府流儀の接待方法のこと)で準備を整えたところ、最後になって幕府側から「式正とは堅苦しい、お気楽に数寄(=茶道風味)の接待にしてくれ」とクレームを入れられたと言うことがある。※もちろん、支度を1からやり直させられることになったので、島津氏側から見るとちっとも「お気楽」じゃなくて、むしろ嫌がらせですらある。

実は、今日借りてきた、島津氏とは全く関係のない本に、島津氏と茶道の距離感の理由を解決できるヒントがあった。
 
茶碗に限らず、茶道具の中で唐物と高麗物は大きな役割を果たしている。まず唐物は茶の湯以前から禅宗文化及び東山文化に大きく貢献しており、コレがそのま ま茶の湯の世界にも継承されている。(略)ところが茶碗においては室町時代末から桃山時代に掛けてこの唐物を押しのけて高麗茶碗が登場してくる。(略)遂 に桃山期にいたっては唐物茶碗を凌駕することになる。これには茶の湯界における大きな変動が影響していると言えよう。
それは侘び茶の進展と、武士社会における茶の湯の流行とが重なって起きた現象と言えるであろう。
なぜ武将達が茶の湯にのめり込んだのかは、各大名が外来文化に憧れを持ったからだけではなく、その文物を政策の対象にまで持ち上げたからでもある。織田信長や豊臣秀吉が茶の湯政道を掲げた裏には、唐物や高麗者を戦利品とし、また褒賞の対象としたからであった。
(略)かくして諸大名は時の為政者と親交するためにも茶の湯に励むことになる。(後略)
P.12より ※太字は当方補足

島津義久が茶の湯に関心がないように見え、義弘が茶の湯熱心なのには政治的な背景があるのではないかという指摘は『尚古集成館研究』「鹿児島ニ召置御書物並富隈ヘ召上御書物覚帳」(松尾千歳)などでも既に為されているが、『島津義弘の賭け』(山本博文)で指摘されている「秀吉政権に距離を取る島津義久と、秀吉政権に近づこうとする島津義弘」の構図は茶の湯においてはしっかり証明されていると言うことが言えよう。

しかし、その息子の家久の茶の湯に対する態度は父に比べると複雑である。いちおう一般教養としては茶道をたしなんでいるという雰囲気で、父ほどの熱意は感じられない。
徳川幕府には室町幕府風の接待を見せつけることで「島津氏は徳川氏より実は格上ざます」という演出をしようとしたのかも知れないし、幕府側もそれを見抜いて土壇場で一端キャンセルをするという嫌がらせをした可能性がある、と私は考えている。

<おまけ>
『高麗茶碗』を読んで思ったのだが
『上井覚兼日記』に出てきた「茶の湯」は、もしかしたら私たちが思うようなものじゃ無くって、室町幕府風味のお堅い物だったりして(^^;)。島津忠良爺様ヾ(^^;)は「茶の湯」を嫌っている。でも島津氏は熱心な曹洞宗信者で、中国貿易大好き、室町幕府の伝統を嗣いでいるというプライドは高そうなので、古典的な茶道ならOKだったんではないかと。
今度暇なときにでもその辺の記述をあら探ししてみるか…。

<おまけその2>
ちなみに江戸時代中後期になっても「余り茶道熱心じゃない島津の殿様」という風景は変わらなかった模様
---2. 茶道---
華道同様、茶道についても、安土桃山時代より島津家の武将たちに浸透している。島津義弘は、千利休の門下で利休にわび茶の作法等について質問をしている(「惟新様より利休え御尋之條書」)。その家臣たちも利休門下が多かった。
一方、第21代当主の島津吉貴の時代になると、藩主自身茶を嗜むのだが、茶会など多くは専門の茶道役に任せ、藩主は形式的に関わるようになった(「吉貴公 大磯御数寄屋披之記御茶進上記」)。当時薩摩藩の茶道役には、永田元恕、鈴木宗心、高木正籠、指宿宗悦がいたことが知られている。
島津重豪の茶道についてははっきりしないが、『旧記雑録追録』巻150には、文化12年(1815)5月、東照宮二百回忌のため、左大臣近衛基前と甘露寺 篤長が日光へ下る途次、高輪藩邸を訪問した時の記録が残されているが、その中に茶道具の飾り付けも記録されている。賓客へのもてなしの一環として茶が組み 込まれているのである。
なお、重豪の孫の斉興は、将軍家茶道役の二代目伊佐幸琢に茶を学んでいる。幸琢は石州流の流れを汲んでいる(谷瑞昭夫 『茶の潟の文化史』吉川弘文館)。
http://kusv02.lib.kagoshima-u.ac.jp/collec/kicho-3rd/3-4kaisetsu.html

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