拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
先日、ひこにゃんフィーバー築城400年祭りに沸く彦根に行って参りました(・∀・)
実は○○年ぶりだったんですが(^^;)余り変わってない?ヾ(--;)
町の雰囲気はなだらかーな寂れ加減も含め松阪市と似ています。城下町で、牛肉の名産地というところも似てますね。唯一違うのは、彦根は立派な城の建物が残っていると言うことだが。
彦根城は国宝・重文の建物も勿論すばらしいが、城郭の復元にも比較的熱心。
その中の一つ
彦根城博物館。
彦根城の政庁であった表御殿をそっくりそのまま復元した物で、コンクリ部分と宮大工による完全木造部分があります。木造部分は江戸時代の図面や解体直前の写真から復元した正確無比の物で必見。
一応彦根市立の歴史博物館と言うことになっているのですが、場所柄「井伊家専用博物館」の雰囲気があります。私が行ったときには、井伊直政と直孝の展示が中心だったのだが…直政と直孝をヨイショする内容だったのはまあともかくとして(^^;)
興味深かったのは「幻の2代藩主」とされた井伊直勝(直継)の展示。…彦根市(というか井伊氏)的には、直勝(直継)はなかったことになってるんですね…一応10年近く当主だったのですが。
直勝(直継)についてはwikipediaの当該項目がまとまっていると思う。正室出生の嫡子だったのに「病弱」と言うことで徳川家康の命で井伊家の当主から排除させられたと言っても過言ではない人物である。
ところが、今回の展示では別の説が紹介されていて興味深かった。直政の死後、井伊家の家中でお家騒動が勃発しかかっていたという物である。
井伊直政というのは、滅亡寸前の井伊家を一代で再興したと言っても過言ではない人物で、武功ばかりでなく交渉でも能力を発揮し、豊臣秀吉からも独立大名同様の扱いを受け(島津家の伊集院忠棟と似た扱いなのかな)、徳川家中では別格の存在だったらしい。最もそのためか、自分にも厳しく、他人にも厳しく(同僚の本多忠勝とはよく言い争いをしていたらしい)、特に家臣には超厳しかった人物のようだ。近藤秀用は、直政の性格に愛想が尽きて、家康の元に脱走したくらいである。
…そんな鬱憤が家中にたまっていたのも原因したのか、直政の死後に家中のごたごたが爆発した物と推測される。
が、展示では、家中の対立は
そして、当時の書状
により、徳川家康の命によって井伊直勝(直継)は強制的に当主の座から追われて別家を建てさせられたとする。博物館の説明では
「京に近い交通の要所を守る譜代大名・井伊氏には当主も統率力のある人物が期待されたのです」
とあった。確かにそれはその通りだと同意するが、上記の処分は徳川家康の命による強制隠居も同然の物であり、しかも対立していた家臣団の内、古くから井伊氏に仕えていた有力者が直勝(直継)と共に実質的に追われるような形になったのは興味深い。
直勝(直継)に代わって井伊家当主となった井伊直孝は謎の多い人物でもある。生母・伊具(印具)氏は直政正室・奥山氏(但しこれも諸説があって、松平康親の娘とか鳥居元忠の娘とかの異説多数、どうなってるの?)の侍女だったと言われる(博物館でもこの説明で、これが公式見解のようだ)が、遠江の農民の娘だったとも言われる。どっちにしろ、直孝は長くに渡って井伊家中から離れた別の場所で成長したようで、父・直政に対面したのはその死の前年の慶長6年(1601年)だったという。井伊家の史料では「病弱な兄・直勝(直継)に代わって早くから家中を切り盛りしていた」とも言われるが、実は直政が死んだ時点では直孝はまだ数え13歳に過ぎない。いくら昔の人物が揉まれてしっかりしていたとはいえ、子供であることには変わりないのである。
上記の史料でわかるように
そういえば、井伊直孝には土井正勝などと同様、早くから「家康ご落胤説」が流れていたようだが、上記の流れを見るとこういう噂が流れても最、と思われるし、いや実は…とも考えさせられてしまうのである。
なお、興味深いことに、安中藩に「隠居」させられてから直継は「直勝」と改名したのだが、これは実質的”隠居”により井伊家の宗家を継いだという意味が強調される「継」という字を幕命で取り除かれた物であろう。
更に、その後の安中藩(後転封を重ね最終的に越後与板藩)主は代々幼名「万千代」を名乗っているが、この「万千代」、井伊直政が徳川家康から直々にもらった由緒ある幼名なのである。
これには直勝(直継)系の
「こっちこそが本当の井伊の正統なるぞ!」
…という自己主張がかいま見えるような気がする。
ただ、残念なことに直勝(直継)系の血統は直勝から5代後に断絶し、その後は彦根の本家からの養子でつないでいる(ちなみに次期与板井伊家御当主は井伊家との血縁関係すらない(苦笑))
おまけ
井伊直政木像(井伊美術館蔵) 井伊直孝木像
…確かに親子にしては似ていない?
最も井伊直政についてはこんなの(井伊家菩提寺龍潭寺所蔵)とかこんなの(彦根城博物館蔵)とか三物三様でバラバラですが…(^^;) ちなみに井伊直孝はいろいろ肖像画が残っているがみんな同じような鬼顔のおっさんでした_(。_゜)/
実は○○年ぶりだったんですが(^^;)余り変わってない?ヾ(--;)
町の雰囲気はなだらかーな寂れ加減も含め松阪市と似ています。城下町で、牛肉の名産地というところも似てますね。唯一違うのは、彦根は立派な城の建物が残っていると言うことだが。
彦根城は国宝・重文の建物も勿論すばらしいが、城郭の復元にも比較的熱心。
その中の一つ
彦根城博物館。
彦根城の政庁であった表御殿をそっくりそのまま復元した物で、コンクリ部分と宮大工による完全木造部分があります。木造部分は江戸時代の図面や解体直前の写真から復元した正確無比の物で必見。
一応彦根市立の歴史博物館と言うことになっているのですが、場所柄「井伊家専用博物館」の雰囲気があります。私が行ったときには、井伊直政と直孝の展示が中心だったのだが…直政と直孝をヨイショする内容だったのはまあともかくとして(^^;)
興味深かったのは「幻の2代藩主」とされた井伊直勝(直継)の展示。…彦根市(というか井伊氏)的には、直勝(直継)はなかったことになってるんですね…一応10年近く当主だったのですが。
直勝(直継)についてはwikipediaの当該項目がまとまっていると思う。正室出生の嫡子だったのに「病弱」と言うことで徳川家康の命で井伊家の当主から排除させられたと言っても過言ではない人物である。
ところが、今回の展示では別の説が紹介されていて興味深かった。直政の死後、井伊家の家中でお家騒動が勃発しかかっていたという物である。
井伊直政というのは、滅亡寸前の井伊家を一代で再興したと言っても過言ではない人物で、武功ばかりでなく交渉でも能力を発揮し、豊臣秀吉からも独立大名同様の扱いを受け(島津家の伊集院忠棟と似た扱いなのかな)、徳川家中では別格の存在だったらしい。最もそのためか、自分にも厳しく、他人にも厳しく(同僚の本多忠勝とはよく言い争いをしていたらしい)、特に家臣には超厳しかった人物のようだ。近藤秀用は、直政の性格に愛想が尽きて、家康の元に脱走したくらいである。
…そんな鬱憤が家中にたまっていたのも原因したのか、直政の死後に家中のごたごたが爆発した物と推測される。
が、展示では、家中の対立は
- 遠江時代からの井伊家代々の家臣
- 徳川家康が直政を取り立てるときに新たにつけた家臣
そして、当時の書状
- 慶長19年(1614年)頃、直勝(直継)は徳川家康の命で留め置かれ、安中(現群馬県安中市)に幽閉状態に置かれていたこと(大阪市天守閣所蔵「日下部家次書状 木俣守安宛」)
- 慶長20年(1615年)、徳川家康により大坂の陣へは直勝(直継)ではなく弟・直孝が井伊家軍を率いて出陣するように命じられ、直勝(直継)は安中に別に所領を与え、鈴木氏など井伊家に古くから使えていた家臣は家康の指示により直勝(直継)の家老とすること(井伊達夫氏所蔵「井伊直孝書状 木俣守安宛)
により、徳川家康の命によって井伊直勝(直継)は強制的に当主の座から追われて別家を建てさせられたとする。博物館の説明では
「京に近い交通の要所を守る譜代大名・井伊氏には当主も統率力のある人物が期待されたのです」
とあった。確かにそれはその通りだと同意するが、上記の処分は徳川家康の命による強制隠居も同然の物であり、しかも対立していた家臣団の内、古くから井伊氏に仕えていた有力者が直勝(直継)と共に実質的に追われるような形になったのは興味深い。
直勝(直継)に代わって井伊家当主となった井伊直孝は謎の多い人物でもある。生母・伊具(印具)氏は直政正室・奥山氏(但しこれも諸説があって、松平康親の娘とか鳥居元忠の娘とかの異説多数、どうなってるの?)の侍女だったと言われる(博物館でもこの説明で、これが公式見解のようだ)が、遠江の農民の娘だったとも言われる。どっちにしろ、直孝は長くに渡って井伊家中から離れた別の場所で成長したようで、父・直政に対面したのはその死の前年の慶長6年(1601年)だったという。井伊家の史料では「病弱な兄・直勝(直継)に代わって早くから家中を切り盛りしていた」とも言われるが、実は直政が死んだ時点では直孝はまだ数え13歳に過ぎない。いくら昔の人物が揉まれてしっかりしていたとはいえ、子供であることには変わりないのである。
上記の史料でわかるように
- 井伊家の相続問題は徳川家康の直接の差配で決着したこと
- その問題に乗じて古くからの井伊家家臣が「追い出し」を食らって、その後の井伊氏の重臣は家康が直政につけた元徳川家臣で占められたこと
そういえば、井伊直孝には土井正勝などと同様、早くから「家康ご落胤説」が流れていたようだが、上記の流れを見るとこういう噂が流れても最、と思われるし、いや実は…とも考えさせられてしまうのである。
なお、興味深いことに、安中藩に「隠居」させられてから直継は「直勝」と改名したのだが、これは実質的”隠居”により井伊家の宗家を継いだという意味が強調される「継」という字を幕命で取り除かれた物であろう。
更に、その後の安中藩(後転封を重ね最終的に越後与板藩)主は代々幼名「万千代」を名乗っているが、この「万千代」、井伊直政が徳川家康から直々にもらった由緒ある幼名なのである。
これには直勝(直継)系の
「こっちこそが本当の井伊の正統なるぞ!」
…という自己主張がかいま見えるような気がする。
ただ、残念なことに直勝(直継)系の血統は直勝から5代後に断絶し、その後は彦根の本家からの養子でつないでいる(ちなみに次期与板井伊家御当主は井伊家との血縁関係すらない(苦笑))
おまけ
井伊直政木像(井伊美術館蔵) 井伊直孝木像
…確かに親子にしては似ていない?
最も井伊直政についてはこんなの(井伊家菩提寺龍潭寺所蔵)とかこんなの(彦根城博物館蔵)とか三物三様でバラバラですが…(^^;) ちなみに井伊直孝はいろいろ肖像画が残っているがみんな同じような鬼顔のおっさんでした_(。_゜)/
ところで、井伊直政自体も井伊家の傍流だった?らしい。
今回の展示で、直政の幼少時、一時井伊家の当主は女性だったことを初めて知る。
井伊直虎
「…何だ男じゃないか」というなかれ。確かに男名前を名乗っていたのだが、正真正銘、女だったのである。ちなみに正式名称「井伊次郎法師直虎」…確かにどう見ても女には見えない…ヾ(^^;)。詳しい説明は上記リンク先のwikipediaに譲るとして、彼女が出したという領土安堵状も展示されていたが、確かに女性の物っぽくはなかった…。戦国時代の家督相続に関わった女性は多いです(立花誾千代とか島津亀寿とか)が、彼女のように男名前まで名乗った例はさすがに少ないんじゃないかなぁ。興味深かったです。
今回の展示で、直政の幼少時、一時井伊家の当主は女性だったことを初めて知る。
井伊直虎
「…何だ男じゃないか」というなかれ。確かに男名前を名乗っていたのだが、正真正銘、女だったのである。ちなみに正式名称「井伊次郎法師直虎」…確かにどう見ても女には見えない…ヾ(^^;)。詳しい説明は上記リンク先のwikipediaに譲るとして、彼女が出したという領土安堵状も展示されていたが、確かに女性の物っぽくはなかった…。戦国時代の家督相続に関わった女性は多いです(立花誾千代とか島津亀寿とか)が、彼女のように男名前まで名乗った例はさすがに少ないんじゃないかなぁ。興味深かったです。
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無題
こんにちは。コメントありがとうございます。
大変申し訳ありませんが、井伊家の情報に関しては専門家ではなく、鈴木家の家紋も全く存じません。お力になれず申し訳ありません。
…とこれで終わってはあれなので、ネットで調べてみたのですが「美須麻流乃珠」というサイトによれば、確かに井伊三人衆として鈴木重時なる武将がいますね。
「家紋world」というのは、家紋では有名なサイトなので既にご存じと思いますが、こちらで有名な雑賀鈴木氏の他に三河鈴木氏も紹介していて、重時はこの三河鈴木氏の関係者かも知れません。このサイトに寄れば、三河鈴木氏の家紋は「抱き稲」となっております。
安中(後に与板)藩井伊家の家臣については、次期当主の方が懇親会を主催されていますので、こちらの方で何かご存じかも知れません。こちらの方はあえてホームページのアドレスは記しませんが、ご存じでない場合は「井伊美術館」で検索すると出てきます。
ということでお力になれず重ね重ね申し訳ありません。
大変申し訳ありませんが、井伊家の情報に関しては専門家ではなく、鈴木家の家紋も全く存じません。お力になれず申し訳ありません。
…とこれで終わってはあれなので、ネットで調べてみたのですが「美須麻流乃珠」というサイトによれば、確かに井伊三人衆として鈴木重時なる武将がいますね。
「家紋world」というのは、家紋では有名なサイトなので既にご存じと思いますが、こちらで有名な雑賀鈴木氏の他に三河鈴木氏も紹介していて、重時はこの三河鈴木氏の関係者かも知れません。このサイトに寄れば、三河鈴木氏の家紋は「抱き稲」となっております。
安中(後に与板)藩井伊家の家臣については、次期当主の方が懇親会を主催されていますので、こちらの方で何かご存じかも知れません。こちらの方はあえてホームページのアドレスは記しませんが、ご存じでない場合は「井伊美術館」で検索すると出てきます。
ということでお力になれず重ね重ね申し訳ありません。
母方の先祖さがし
こんばんは。あなたからの連絡をお待ちしておりましたが、やはり
ご存知ではないとのこと、残念です。私の家紋は丸に桔梗で、戦前は
おじい様の実家(浜松市郊外)に蔵があり、中には継図、よろいなど
祖先をたどる証拠があったそうですが、戦災で全てなくなってしまったそうです。母の伝えでは、おじい様はたびたび彦根へ出向いていたそうで、
おば様からは江戸末期には彦根で重臣だったとのことです。家紋の本で調べると鈴木家の家紋は下がり藤等色々ありますが、どうしても彦根の
鈴木家の資料が見つかりません。また旗差物は何色だったのか?
井伊家の家臣であれば朱に白抜きの桔梗か、ヒントをいただき、また
調べていきます。自己満足かもしれませんが、母たち3姉妹は今でも
誇りに思っていますので、私が何とか答えを見つけ出し、伝えていく
所存でいます。
以上です。
ご存知ではないとのこと、残念です。私の家紋は丸に桔梗で、戦前は
おじい様の実家(浜松市郊外)に蔵があり、中には継図、よろいなど
祖先をたどる証拠があったそうですが、戦災で全てなくなってしまったそうです。母の伝えでは、おじい様はたびたび彦根へ出向いていたそうで、
おば様からは江戸末期には彦根で重臣だったとのことです。家紋の本で調べると鈴木家の家紋は下がり藤等色々ありますが、どうしても彦根の
鈴木家の資料が見つかりません。また旗差物は何色だったのか?
井伊家の家臣であれば朱に白抜きの桔梗か、ヒントをいただき、また
調べていきます。自己満足かもしれませんが、母たち3姉妹は今でも
誇りに思っていますので、私が何とか答えを見つけ出し、伝えていく
所存でいます。
以上です。