拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前から気になっていた本を取り寄せて借りてみた。
これは「島津家」「鍋島家」「細川家」
こちらは「近衛家」「鷹司家」「三条家」
今は写真の版権の関係もあるのか、すべて絶版、どうしても手元に欲しければ古書買うしかないと言うのが残念ですが。
この6家、関係ないようで実は関係があったりして、ある人の写真が思いもかけない家から出てきたりとか、なかなか興味深い本。
島津ヲタの私ヾ(^^;)としては、やはり8巻の方に興味があったが、なんと以前図書館で借りたに所収されていたものと重複する写真が多くて_| ̄|○でも、お亡くなりになる前(1990年)の島津忠秀氏(1996年没)のご尊影を拝めたのが何よりの収穫。で、どんなお顔かというと
は虫類系…ヾ(--;)
9巻の「近衛家」の方に、元夫人の昭子氏(の若いころ)の写真が載っていますが、見るからに派手というか華やかな感じで…こりゃ性格が合わなかったのかな、等と思ってしまいました。ちなみに晩年の昭子氏のご様相についてはこちら。
あと、9巻には悲劇的な最期を遂げた鷹司平通氏(昭和天皇三女・和子氏の夫)の写真も所収されていました。彼の情報はweb上では乏しいですが
現在の近畿大卒、しかも鉄ヲタということで、とんでもない様相の方例えばこういう感じを想像していたのですが、写真を拝見してイメージ崩壊。けっこうほっそりした人だった。といっても公家然とした感じじゃなくて、親しみやすい感じの人でした。鉄道博物館で小学生に囲まれて機関車の説明をしている瞬間のお顔はとっても幸せそうでした。
平通氏と和子氏の縁組みは元五摂家と皇族と言うことで決まったのかも知れませんが、鷹司家は写真を見るからに摂家然としてない家風だったようで、この点で不幸になることが決まってしまったような気もします。
近衛家、鷹司家、三条家の中では一番三条家が容貌といいヾ(^^;)公家っぽいかな。近衛は前久を初めとして歴史の節目でとんでもない人物を輩出する伝統が(ヲイ)
こちらはテレビでもよく話題となった柳川市の料亭「御花」の先代女将こと立花伯爵家の家付き娘であった立花文子(あやこ)氏の自伝。amazonの紹介では「no image」となっているのが残念ですが、文子氏の全盛期ヾ(^^;)の麗しい肖像画が表紙を飾っています。
料亭御花の苦労談は意外に少なく、学生時代の話とか、家督を父に押しつけられる前(苦笑)の転勤サラリーマンの妻だったころのお話など興味深く読ませてもらいました。白黒ですが写真が思ったより多く所収されていたのが収穫。文子氏の母は田安徳川家の出身なんですね。そこで興味深い話があったのだが
…忠義の娘では三女・常子は「絶世の美女で才女なのにあの時代に28歳まで行き遅れて後妻に」というのは知っていたが、四女・知子も後妻であったか…。
ところで所収の写真を見る限りでは、田安家の女性は美女揃いだったが、この4人とも母親は鏡子になるのかな…そういえば誰も顔は知子に似ていないような…田安達成氏は集合写真を見る限りでははれぼったい瞼が知子実母の山崎寿満子そっくりだしヾ(^^;)この方は知子の子なのかな。
おまけ
達成氏の妻も近年という本を上梓されたようですが、某掲示板で聞いたところによると、どうも姑に当たる知子と折り合いが悪かったようで(苦笑)、戦後になっても朝晩のキモノのお召し替えなど旧態依然の大名華族の生活を変えない知子に達成夫人・元子はぶちぎれられていたとか。…最も、立花文子氏の前掲書に寄れば、文子氏の母・艶子氏の戦後も全く同じ調子だったご様子_(。_゜)/
これは「島津家」「鍋島家」「細川家」
こちらは「近衛家」「鷹司家」「三条家」
今は写真の版権の関係もあるのか、すべて絶版、どうしても手元に欲しければ古書買うしかないと言うのが残念ですが。
この6家、関係ないようで実は関係があったりして、ある人の写真が思いもかけない家から出てきたりとか、なかなか興味深い本。
島津ヲタの私ヾ(^^;)としては、やはり8巻の方に興味があったが、なんと以前図書館で借りたに所収されていたものと重複する写真が多くて_| ̄|○でも、お亡くなりになる前(1990年)の島津忠秀氏(1996年没)のご尊影を拝めたのが何よりの収穫。で、どんなお顔かというと
は虫類系…ヾ(--;)
9巻の「近衛家」の方に、元夫人の昭子氏(の若いころ)の写真が載っていますが、見るからに派手というか華やかな感じで…こりゃ性格が合わなかったのかな、等と思ってしまいました。ちなみに晩年の昭子氏のご様相についてはこちら。
あと、9巻には悲劇的な最期を遂げた鷹司平通氏(昭和天皇三女・和子氏の夫)の写真も所収されていました。彼の情報はweb上では乏しいですが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%B9%B3%E9%80%9A鷹司 平通(たかつかさ としみち、1923年8月26日 - 1966年1月27日)は鉄道研究家。日本交通公社交通博物館調査役。
来歴・人物
東京都出身。公爵鷹司信輔の嗣子。17歳のとき、大政翼賛会の公募に応じて会歌「大政翼賛の歌」を応募し、入選する。大阪理工科大学(現在の近畿大学)を卒業。
1950年5月20日、東京高輪の光輪閣にて孝宮和子内親王(昭和天皇の娘)と結婚。華族制廃止以後のため鷹司家は一般人の扱いであり、そのため天皇家から一般家庭への初の嫁入りとされ、民主化の象徴として話題になった。
幼時より大の鉄道好きとして知られ、交通博物館に勤務する傍ら鉄道の研究を行い、特に『鉄道物語』(1964年)は名著として知られる。鉄道友の会の世話役も務めた。(以下略)
現在の近畿大卒、しかも鉄ヲタということで、とんでもない様相の方例えばこういう感じを想像していたのですが、写真を拝見してイメージ崩壊。けっこうほっそりした人だった。といっても公家然とした感じじゃなくて、親しみやすい感じの人でした。鉄道博物館で小学生に囲まれて機関車の説明をしている瞬間のお顔はとっても幸せそうでした。
平通氏と和子氏の縁組みは元五摂家と皇族と言うことで決まったのかも知れませんが、鷹司家は写真を見るからに摂家然としてない家風だったようで、この点で不幸になることが決まってしまったような気もします。
近衛家、鷹司家、三条家の中では一番三条家が容貌といいヾ(^^;)公家っぽいかな。近衛は前久を初めとして歴史の節目でとんでもない人物を輩出する伝統が(ヲイ)
こちらはテレビでもよく話題となった柳川市の料亭「御花」の先代女将こと立花伯爵家の家付き娘であった立花文子(あやこ)氏の自伝。amazonの紹介では「no image」となっているのが残念ですが、文子氏の全盛期ヾ(^^;)の麗しい肖像画が表紙を飾っています。
料亭御花の苦労談は意外に少なく、学生時代の話とか、家督を父に押しつけられる前(苦笑)の転勤サラリーマンの妻だったころのお話など興味深く読ませてもらいました。白黒ですが写真が思ったより多く所収されていたのが収穫。文子氏の母は田安徳川家の出身なんですね。そこで興味深い話があったのだが
p.39母は最後の将軍であった徳川慶喜公の長女鏡子様と旧徳川御三卿の一つ、田安徳川家の御当主の徳川達孝伯爵の三女として明治二十四年に生まれました。高松宮妃殿下(喜久子姫)は母とは従兄弟に当たられます。
実家は三田にありましたので、その祖父母のことを私は「三田のお祖父様」「三田のお祖母様」とお呼びしていましたが、私が覚えているお祖母様とは後添えで入られた知子夫人の方です。こちらは島津忠義家の四女でいらっしゃいます。(以下略)
…忠義の娘では三女・常子は「絶世の美女で才女なのにあの時代に28歳まで行き遅れて後妻に」というのは知っていたが、四女・知子も後妻であったか…。
ところで所収の写真を見る限りでは、田安家の女性は美女揃いだったが、この4人とも母親は鏡子になるのかな…そういえば誰も顔は知子に似ていないような…田安達成氏は集合写真を見る限りでははれぼったい瞼が知子実母の山崎寿満子そっくりだしヾ(^^;)この方は知子の子なのかな。
おまけ
達成氏の妻も近年という本を上梓されたようですが、某掲示板で聞いたところによると、どうも姑に当たる知子と折り合いが悪かったようで(苦笑)、戦後になっても朝晩のキモノのお召し替えなど旧態依然の大名華族の生活を変えない知子に達成夫人・元子はぶちぎれられていたとか。…最も、立花文子氏の前掲書に寄れば、文子氏の母・艶子氏の戦後も全く同じ調子だったご様子_(。_゜)/
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