拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
表題の件については、以前桐野作人さんのブログ「膏肓記」でネタになりました(ちなみに恥ずかしながらネタふったの私(爆))
コメントを読んで下さると分かりますが、再度経緯を分かりやすくするために箇条書き
天正12年4月12日 元服 「又七郎忠豊」(「上井覚兼日記」「本藩人物誌」)
文禄元年?12月22日 「又七忠○」(相良家文書)
慶長4年11月26日 「又七忠豊」(薩藩旧記雑録4-)
慶長4年雪月朔日(12月1日) 「中務大輔忠豊」(薩藩旧記雑録4-)
慶長5年2月 「忠豊」(薩藩旧記雑録4-?)
慶長5年9月15日 死去(関ヶ原で戦死) 「中務大輔豊久」(出典多数)
有名な名乗り「豊久」は多く見積もってもわずか7ヶ月しか使っていなかったことになる。
上記のコメントのやりとりで、桐野氏はこう推察していた。
しかし、だんだん疑問が出てきたのである。
コメントを読んで下さると分かりますが、再度経緯を分かりやすくするために箇条書き
天正12年4月12日 元服 「又七郎忠豊」(「上井覚兼日記」「本藩人物誌」)
文禄元年?12月22日 「又七忠○」(相良家文書)
慶長4年11月26日 「又七忠豊」(薩藩旧記雑録4-)
慶長4年雪月朔日(12月1日) 「中務大輔忠豊」(薩藩旧記雑録4-)
慶長5年2月 「忠豊」(薩藩旧記雑録4-?)
慶長5年9月15日 死去(関ヶ原で戦死) 「中務大輔豊久」(出典多数)
有名な名乗り「豊久」は多く見積もってもわずか7ヶ月しか使っていなかったことになる。
上記のコメントのやりとりで、桐野氏はこう推察していた。
私も、コメント読んでもらえば分かるように当初これに賛意を示していた。それと同時に改名のきっかけは何なんでしょうね?
ひとつ関連が考えられるのは、豊久が慶長4年頃か、又七郎をやめて中務大輔を名乗り、同時に侍従に任官しています。これは佐土原島津家が公家成したことを意味します。
「豊久」名乗りは侍従任官=公家成とセットかもしれません。
中務大輔の通称官名だと、父家久と似たような豊久名乗りのほうが据わりがよかったとか、個人的な好みもありそうですが(笑)。
しかし、だんだん疑問が出てきたのである。
疑問を持ったポイントだが、
桐野さんの指摘通り、文書の署名から見る限りでは豊久は慶長4年頃に中務大輔兼侍従に任官している。
ところが、この後もしばらくは「忠豊」を名乗っている。任官+公家成をきっかけに改名するなら、任官後すぐに改名する物ではないだろうか?
つまり、豊久の改名のきっかけは任官+公家成ではなく、別の物ではなかったのではないかと私は考える。
そこで目を付けたのが 改名前「忠豊」改名後「豊久」 という名乗り。
「…べーつに、島津家伝統の通字「忠」を「久」に付け替えただけじゃないの?」
…私もそう思っていたのである…今までは。
さて、この頃の島津家一門。「○久」と名乗っている人は他に誰がいるでしょうか?
私が思いつく限りでは
・島津義久(本宗家前当主、但しこの当時は出家していて「義久」名乗りは滅多に使わない)
・島津以久(義久の従弟、当時種子島領主後の佐土原藩主)
存命者ではこの2人だけだったと思う。あと有名な「歳久」「家久」(2人とも義久弟)がいたが、ご存じの通り既に故人。
他に通字を使っていた人は大勢いたが、みんな「忠○」「久○」だった。
ここからの推測になるが、慶長5年頃には島津家一門では「○久」という名乗りは特別な物になっていたのではないかと思うのである。この推測に基づくと、慶長5年にあったと思われる「忠豊」→「豊久」の改名は、島津家中での豊久の地位の特別化を示すのではないか。
さて、慶長5年。豊久の立場が特別になるような出来事があったのだろうか?
…それがあったのである。慶長5年冬、豊久の一番末の妹が島津信久(久信、この当時「忠仍」)と結婚している。島津信久(久信)…拙ブログを見ている人には既知であろう、島津義久の外孫で、島津忠恒に対抗して島津家後継者に擬せられた人物である。
この時点で島津豊久妹の父・中務大輔家久は既に故人なのはみなさんご存じの通りで、妹の保護者は実質兄・豊久だったと思われる。また、相手の信久(久信)の父・彰久も朝鮮出兵で戦病死しており、保護者は父方の祖父・以久と母方の祖父・義久だったと思われる。そこから考えるに、この結婚は義久、以久、豊久の合意の元で行われたのは明白である。
つまり、この結婚が決まった時点で豊久は島津家後継者の第2候補・信久(久信)の縁者に組み込まれた。そこで義久が豊久の地位の向上を家中にも示すため、改名させたと考えるのが自然ではないかと思うのだが、いかがであろうか。
※この考察には桐野さんのブログ「膏肓記」のこの記事が大変ヒントになりました。ありがとうございました。
桐野さんの指摘通り、文書の署名から見る限りでは豊久は慶長4年頃に中務大輔兼侍従に任官している。
ところが、この後もしばらくは「忠豊」を名乗っている。任官+公家成をきっかけに改名するなら、任官後すぐに改名する物ではないだろうか?
つまり、豊久の改名のきっかけは任官+公家成ではなく、別の物ではなかったのではないかと私は考える。
そこで目を付けたのが 改名前「忠豊」改名後「豊久」 という名乗り。
「…べーつに、島津家伝統の通字「忠」を「久」に付け替えただけじゃないの?」
…私もそう思っていたのである…今までは。
さて、この頃の島津家一門。「○久」と名乗っている人は他に誰がいるでしょうか?
私が思いつく限りでは
・島津義久(本宗家前当主、但しこの当時は出家していて「義久」名乗りは滅多に使わない)
・島津以久(義久の従弟、当時種子島領主後の佐土原藩主)
存命者ではこの2人だけだったと思う。あと有名な「歳久」「家久」(2人とも義久弟)がいたが、ご存じの通り既に故人。
他に通字を使っていた人は大勢いたが、みんな「忠○」「久○」だった。
ここからの推測になるが、慶長5年頃には島津家一門では「○久」という名乗りは特別な物になっていたのではないかと思うのである。この推測に基づくと、慶長5年にあったと思われる「忠豊」→「豊久」の改名は、島津家中での豊久の地位の特別化を示すのではないか。
さて、慶長5年。豊久の立場が特別になるような出来事があったのだろうか?
…それがあったのである。慶長5年冬、豊久の一番末の妹が島津信久(久信、この当時「忠仍」)と結婚している。島津信久(久信)…拙ブログを見ている人には既知であろう、島津義久の外孫で、島津忠恒に対抗して島津家後継者に擬せられた人物である。
この時点で島津豊久妹の父・中務大輔家久は既に故人なのはみなさんご存じの通りで、妹の保護者は実質兄・豊久だったと思われる。また、相手の信久(久信)の父・彰久も朝鮮出兵で戦病死しており、保護者は父方の祖父・以久と母方の祖父・義久だったと思われる。そこから考えるに、この結婚は義久、以久、豊久の合意の元で行われたのは明白である。
つまり、この結婚が決まった時点で豊久は島津家後継者の第2候補・信久(久信)の縁者に組み込まれた。そこで義久が豊久の地位の向上を家中にも示すため、改名させたと考えるのが自然ではないかと思うのだが、いかがであろうか。
※この考察には桐野さんのブログ「膏肓記」のこの記事が大変ヒントになりました。ありがとうございました。
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「忠」と「久」
平八様コメントありがとうございます
ご質問の件ですが、桐野作人さんブログ「膏肓記」のこの記事をもって回答としたいと思います。
http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-985.html
記事中にも明記されていますが、元ネタは黎明館学芸員の林匡氏の論文です。残念ながらこの論文前から読みたいと思いつつ入手できない。
ご質問の件ですが、桐野作人さんブログ「膏肓記」のこの記事をもって回答としたいと思います。
http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-985.html
記事中にも明記されていますが、元ネタは黎明館学芸員の林匡氏の論文です。残念ながらこの論文前から読みたいと思いつつ入手できない。
ご紹介ありがとうござます
数年前の鹿児島国際大学主催の
「鹿児島歴史の旅」講演で、家紋・また八朔等
での登城の際、席順などの細かい決まりが
江戸期に出来た云々があったのを
思い出しました。
通字に関しては無かった記憶が・・
今年は先週の土曜にあり、
五味先生や三木先生(三木先生は毎年です)の
講演を拝聴してきました。
件の論文はこちらの県図書にあるようです。
貸し出しは出来ないのでコピーしようと
思います。
「鹿児島歴史の旅」講演で、家紋・また八朔等
での登城の際、席順などの細かい決まりが
江戸期に出来た云々があったのを
思い出しました。
通字に関しては無かった記憶が・・
今年は先週の土曜にあり、
五味先生や三木先生(三木先生は毎年です)の
講演を拝聴してきました。
件の論文はこちらの県図書にあるようです。
貸し出しは出来ないのでコピーしようと
思います。
追加です
平成22年度の講演で林先生が「正徳三年、藩は
名字・実名字に規制をかける」というタイトルで
なさっておりました(汗
拝聴したので資料もありました・・
お恥ずかしい次第です。
垂水家や加治木家の「脇の惣領」家としての
対立などがあった云々、
また正徳三年三月二十五日付けで
初祖に関わる「頼」「朝」「忠」字及び
当将軍家の名乗り、家久から綱貴へ至る
歴代藩主の名乗りに関わる字も一切
使用禁止等々。
名字・実名字に規制をかける」というタイトルで
なさっておりました(汗
拝聴したので資料もありました・・
お恥ずかしい次第です。
垂水家や加治木家の「脇の惣領」家としての
対立などがあった云々、
また正徳三年三月二十五日付けで
初祖に関わる「頼」「朝」「忠」字及び
当将軍家の名乗り、家久から綱貴へ至る
歴代藩主の名乗りに関わる字も一切
使用禁止等々。
無題
ご指摘の通り、結婚は義久等三者の合意かと思います。義久は、庄内の乱での忠恒の戦いぶりに、愛想を尽かし、孫信久を跡目にしようと考えたと思います。
乱決着の慶長五年三月十五日以降、義久は忠豊に豊久の名を与え、また義兄弟関係となる結婚で、豊久を味方にしようとしたのだと思います。ですから豊久の名の使用期間は半年かと思います。
ご存知かと思いますが『牧園町郷土誌』には、関ヶ原の戦い後、京都から光明仏という僧が薩摩に来て豊久と称して一向宗を広め、気違いものとして斬首されたことが記述されています。
出所は『本城家文書』だそうです。五味克夫先生は『家久君上京日記』は、本城家所蔵のものが底本になっていると言われました。
もしかして、本城家文書の中に豊久直筆・花押の書状があったら、それも関ヶ原の戦い以後のものであったら、大変なことになりますね。
豊久は伊吹山で井伊直政に捕まり、秀家との人質交換で薩摩に帰った。その後家督相続で義兄信久や甥久敏の擁立に関わり、失敗して惨殺された。そのことで妹も信久と離縁させられたというストーリーも生まれてきますね。
乱決着の慶長五年三月十五日以降、義久は忠豊に豊久の名を与え、また義兄弟関係となる結婚で、豊久を味方にしようとしたのだと思います。ですから豊久の名の使用期間は半年かと思います。
ご存知かと思いますが『牧園町郷土誌』には、関ヶ原の戦い後、京都から光明仏という僧が薩摩に来て豊久と称して一向宗を広め、気違いものとして斬首されたことが記述されています。
出所は『本城家文書』だそうです。五味克夫先生は『家久君上京日記』は、本城家所蔵のものが底本になっていると言われました。
もしかして、本城家文書の中に豊久直筆・花押の書状があったら、それも関ヶ原の戦い以後のものであったら、大変なことになりますね。
豊久は伊吹山で井伊直政に捕まり、秀家との人質交換で薩摩に帰った。その後家督相続で義兄信久や甥久敏の擁立に関わり、失敗して惨殺された。そのことで妹も信久と離縁させられたというストーリーも生まれてきますね。
『牧園町郷土誌』
末川様コメントありがとうございます
ご指摘の『牧園町郷土誌』ですが、ご指摘の箇所は記憶がありませんでした。もしかしたらcopyを取った場所にご指摘のところが残っているかも知れませんので、又読み返してみます。
なお、『牧園町郷土誌』には「本城家文書」をベースとした記述がいくつか見られるのですが、残念な事にこの文書の翻刻などは全く所収されていなかったように覚えています。ご存じのように、本城家は島津豊久の弟・忠直の子孫に当たる家でこの辺りに関する史料などもあるかも知れないのですが。
ご指摘の『牧園町郷土誌』ですが、ご指摘の箇所は記憶がありませんでした。もしかしたらcopyを取った場所にご指摘のところが残っているかも知れませんので、又読み返してみます。
なお、『牧園町郷土誌』には「本城家文書」をベースとした記述がいくつか見られるのですが、残念な事にこの文書の翻刻などは全く所収されていなかったように覚えています。ご存じのように、本城家は島津豊久の弟・忠直の子孫に当たる家でこの辺りに関する史料などもあるかも知れないのですが。
『忠』について
ご無沙汰しております。
忠豊改名のお話興味深く拝読しました。実は『忠』は徳川家中でよく使われていたために避けたのかと思っていました。正確にいうと安城松平家になりますが、諱の下に『忠』をつけるのが伝統で、本多・酒井らを始めとする譜代衆は諱の上に『忠』を戴く人物が多かったのです。忠豊はそれを嫌ったのかと単純に考えていました……。知らなければそのまま通り過ぎるところだったので、大変勉強になりました。
忠豊改名のお話興味深く拝読しました。実は『忠』は徳川家中でよく使われていたために避けたのかと思っていました。正確にいうと安城松平家になりますが、諱の下に『忠』をつけるのが伝統で、本多・酒井らを始めとする譜代衆は諱の上に『忠』を戴く人物が多かったのです。忠豊はそれを嫌ったのかと単純に考えていました……。知らなければそのまま通り過ぎるところだったので、大変勉強になりました。