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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前の話はこちら

初代鹿児島藩主・アレな家久(忠恒)の後を嗣いだのは、その息子の光久です。
母親は島津亀寿の後に正室となった島津忠清女(西ノ丸殿)、但し、光久が5歳の時にその島津亀寿が光久を養子としています。なので、系図上では光久は島津義久の孫と言うことになるわけです。又、実は実母の西ノ丸殿自体が島津義久の曾孫(島津忠清は島津義久長女・御平の息子)なので、実際に光久は義久の縁者と言うことになります。
父方で島津義弘→家久(忠恒)、母方で島津義久の血を引く光久は、義久の婿養子(しかもそれは島津家の内意を得ないで豊臣政権が勝手に勧めた物である上、その後実質的に離婚した)父・家久(忠恒)に比べれば血統上では正当性があったといえます。

が、光久もまたその生まれが生涯のコンプレックスになったと思われます。
問題は実母・西ノ丸殿の母(光久の外祖母)が有名なキリシタンであったことでした。通称「竪野カタリナ」と言われるこの女性は、元々キリシタン大名・小西行長の家臣であった皆吉続能なる武士の娘だったといわれています。主君の影響を強く受けた熱心なキリシタンで、慶長14年に島津義久・島津常久(島津歳久の孫、島津忠清の甥)の招きにより薩摩に移っても全くキリシタン信仰を捨てる気はなかったようです。イエズス会宣教師が本国に送った手紙によると薩摩の殿(=島津家久(忠恒))の度重なる説得にも関わらずおおっぴらに信者を集めることをやめなかった(結城了悟「鹿児島のキリシタン」)というのですから、キリシタン業界(をい)では超有名人だったと思われます。
しかし、寛永10年、藩内の些細な騒動から遂に徳川幕府まで彼女の信仰がばれることとなります。一番まずかったのは彼女が大坂の陣で活躍した明石全登(元宇喜多秀家家臣でキリシタン)の息子を長年に渡りかくまっていたことがばれたことと言われています。明石全登は大坂の陣終了後も生死が確認できず、徳川幕府にとってその動向は大坂の陣が終わって10年以上立った寛永になっても恐れられていたと言われています。
この事件は下手をすると光久の廃嫡、最悪のケースでは鹿児島藩改易も考えられる物でしたが、徳川幕府に太いパイプを持つ伊勢貞昌と島津久慶(島津常久の息子で、家久(忠恒)の娘婿)の二家老の奔走で、関係者の流刑でなんとか納まったようです。が、この時に竪野カタリナは勿論、その娘2人、孫娘までもキリシタンであることが分かり、更に連座は島津久茂(家老・島津久元の息子、島津忠長の孫)、家老であった喜入久政にまで及ぶなどカタリナの影響力が鹿児島藩の権力中枢に食い込んでいたことが分かります。これもそれもカタリナの孫が次の鹿児島藩主だったからなのでしょうが、この事件以後、光久は徳川幕府に色眼鏡を懸けてみられることになったと思われます。
寛永16年、家久(忠恒)の死去により光久は藩主となりますが、その時、光久は家老・伊勢貞昌と共に幕府に呼び出しを受け、「何事も伊勢(貞昌)の意向により政を行うよう」厳命されます(「西藩野史」など)。光久が襲封時24歳と若かったからと言うのが表向きの名目ですが、実のところは徳川幕府とツーカーの仲である伊勢貞昌によって、光久を監視しようと言う意図があった物でしょう。光久自身は8歳の時から江戸暮らし、しかも実母・西ノ丸殿はその翌年に江戸で死去しており、鹿児島在住であった祖母・カタリナの影響力がどこまで及んでいたか不明です。おそらくキリシタンが何かも余りよく分かっていなかったのではないでしょうか。なので、このように幕府に見られたのは気分の良い物ではなかったと思われます。

光久は79歳で亡くなるまで38人もの子供を設けた艶福家ですが、そのうち22人については公式史料(「寛政重修諸家譜」「島津氏正統系図」など)では生母の出身が未詳となっています。これも上記のキリシタン疑惑を考えると、納得がいきます。キリシタンは一夫一妻を教えとしますので、節操のない女性関係を見せることは、手っ取り早くキリシタン疑惑を解消する手段なのです。…にしてもやりすぎのような気がしますが(^^;)この辺がコンプレックスの成せるわざなんですかね。この派手な女性関係の一番の被害者は最初の正妻であった曹源院殿(伊勢貞昌の孫娘)でしょう(詳しくは拙ブログのこの記事)。ところで、この節操のない女性関係は後に意外なところでネタに使われたりしたようです。

また、光久の実母・西ノ丸殿はその後島津家の供養名簿からも外れた形跡があり(「島津家列朝制度」)、当の光久自身も養母・島津亀寿への供養は熱心に行った(「薩藩旧記雑録 後編」)ものの、実母に関する供養は管見では見あたらず、寂しい限りです。これも実母の供養を熱心にすると、問題の祖母・竪野カタリナの扱いが浮上するため、実母を表立って扱えなかったのが一因にあるように考えられます。
しかし、竪野カタリナが亡くなったとき、光久はその世話をしていた種子島家に銀3000貫という大金を香典として送っています。自分の足を引っ張った祖母に対する思いには複雑な物があったのでしょう。


島津家の3代目 に予定されていた のが光久の長男・綱久です。
生母は先述の曹源院殿。光久は父・家久が死ぬやいなや、まだ25歳の若さだった曹源院殿を遠ざけてしまったようで、おそらくその息子である綱久も寂しい幼少期を過ごしたのではないかと思います。最も、父・家久に廃嫡するぞとばかりの行動をとられていたせいか、光久はその辺は割り切っていたようで、綱久を軽んじるような行動をとった形跡は管見では見あたりません。
しかし、母を大事にしてもらえない姿を見て成長していった綱久は、成長してこういう行動に出ます。

綱久は正室に伊予松山藩・松平定頼の姫を迎えます。松平定頼の母は島津家久(忠恒)の養女(忠恒の姉・島津御屋地の娘)なので、親戚と結婚したことになります。綱久はこの正室以外全く見向きもしませんでした。3代目予定者なんだが、どこぞの2代目ヾ(^^;)そっくりです。
綱久とこの正室の間には3男2女が産まれます。男子一人は夭折してしまいましたが、二女はそれぞれ譜代の有力大名(小浜藩酒井忠隆、下野壬生藩鳥居忠英)の正室となったのは、母親の実家が伊予松山藩という譜代有力大名であった権威によった物でしょう。ちなみに島津氏で実子を譜代大名に嫁がせたのはこの綱久が初めてになります。これは子沢山ではあった物の子女のほとんどが藩内有力家臣の養子・正室となった先代2人(家久(忠恒)、光久)とは大きく異なる点です。

で、この綱久が光久の後を無事嗣いでいたら、その後の島津家の政策もかなり変わっていたのではと思われるのですが…
延宝元年に父・光久に先立って死んでしまいます。41歳でした。
そのため、結局この綱久の遺児が島津家の3代目になります。以前「土芥寇讎記」で紹介した島津綱貴がその人です。
島津家の世子・綱久と譜代の名門・久松松平家出身の母を持つ綱貴の登場で、ようやく島津家の当主は生まれのコンプレックスから解放されたのでした。

綱貴
「我こそは本当は4代目になるはずだったけど、いろいろあって繰り上がり3代目になったんだが、1代目はああいう人で、2代目は(ぴ~)という血縁があったりして…まあ、表だっては言えない問題がいろいろあったんだが、私は産まれながらの3代目だからね!」
家臣
「お殿様ややこしくてその台詞じゃ平伏できませんよ…」
 
※このやりとりは架空です。
 

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