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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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タイトルの元ネタになった『葵・徳川三代』(NHK大河ドラマ)は関ヶ原合戦前夜から日光東照宮建立に至るまでの徳川家康→秀忠→家光の徳川幕府草創期の将軍3代のお話でした。最初の関ヶ原の合戦にお金をかけすぎたためか?後半(特に大坂の陣)が終わってからのテンポの悪さが難でしたが、これで今まで「真面目で地味な2代目」というイメージしか持たれていなかった徳川秀忠(演じたのは西田敏行)に注目が集まった点で、評価すべきドラマだったと思います。


さて、そのころ拙HPのネタの宝庫ヾ(--;)島津家は…

徳川家康が将軍になろうとする頃、島津家は歴史学者からは「二殿体制」とか「三殿体制」とか言われる3人の殿様がいる状態になっていました。
一人は先代の殿様で現行の殿様の伯父で義父・島津義久。
もう一人が現行の殿様の父で豊臣政権から当主と見なされていた島津義弘。
そして現行の殿様・そしてネット界では「ああ”あの”家久」「悪恒」として名高いヾ(--;)島津忠恒(家久)
しかし、現行の殿様・忠恒の権力基盤はかなり弱いものだったと推測されています。

まず、本来は忠恒の兄・久保が義久の三女の亀寿と結婚して後を嗣ぐ予定になっていたのですが、その久保が朝鮮出兵で若くして急死。その後豊臣政権が忠恒を大坂に呼びだし、上方で人質になっていた亀寿と結婚させ(この時、島津家の意向は聞かれなかった)、忠恒を勝手に跡継ぎに据えてしまったのです。こんな背景がありますから、忠恒・亀寿夫妻の仲が良かろう訳がなく、まず、この点で義父(で伯父)・義久の不興を買っていたと思われます。
また、忠恒自身の性格にも問題がありました。庄内の乱の頃、徳川家康が派遣した山口直友への対応がまずいことに義久が苦言を呈している書状が残っていますし、門外不出の家宝の刀を勝手に京に持ち出して父・義弘に怒られるなど、「若いから」では済まされないような軽率な行動が多い人物だったのは事実のようです。

そんな忠恒(家久)が外の二殿より突出した才能を持っていた分野がありました。…それは「暗殺」(○。○)
まず慶長4年3月に筆頭家老だった伊集院忠棟を茶会に呼び出し自ら(!)殺しています。
次に慶長7年に上洛する際、その伊集院忠棟の長男・忠真を、鷹狩りの鉄砲の誤射と見せかけて殺しています。
その次は飛んで慶長15年、島津義久・亀寿に近かった家老といわれている平田増宗を、家臣に命じてやはり射殺させています。

慶長16年、「三殿」の一人・島津義久が亡くなると、目の上のたんこぶが無くなったとばかりに忠恒(家久)は、不仲だった正室の亀寿を本城である鹿児島城から追い出して国分城に別居させ実質的に離婚、次々と側室を抱え、その後寛永14年に63歳で死ぬまで33人も子供を作ります。「三殿」のもう一人・島津義弘はまだ生きていましたが、何しろ実父ですから、義久ほどの不仲ではなかったと思われますので…まあ義久を扱うよりは楽ちんだったでしょう、忠恒(家久)にとっては。
義久の死後、義久直属の家臣(その中にはあの東郷重位も含まれる)の多くは、鹿児島城下にうつされてしまいます。残ったわずかの家臣が国分城にうつされた亀寿に使え続けますが、寛永7年に亀寿が死ぬとその家臣の多くも鹿児島城下に引き抜かれ、残ったわずかの直臣は国分の郷士として身分を落としてしまったようです…。一方の義弘直属家臣の多くは義弘の死後もそのまま存続され、その後忠恒(家久)の三男が分家するとそのまま「加治木島津家」という分家の家臣団として存続します。ここにも忠恒(家久)の義久に対する気持ちと義弘に対する気持ちの違いが大きく現れているように思います。

では、忠恒(家久)は義久の存在を克服できたかというと、どうもそれがそうではなさそうなのです。
慶長16年、義久が死ぬとその分骨が高野山に治められますが、その時に忠恒(家久)は義久の姿を映した木像を塔頭の蓮金院(現在廃絶)に治めたといいます(「島津世家」)。
慶長18年、忠恒(家久)は東福寺の塔頭・即宗院を再建しますが、実はこの即宗院の再建は生前の義久の遺言による物でした(『東福寺誌』)。
その後、年度は不明ながら、義久の菩提寺として建てられた金剛寺(鹿児島県霧島市、現在廃絶、義久の墓がある)の寺領・100石の内70石を藩の財政不足という理由で勘落しますが、その補填として亀寿が10石を寄付したことを知るや、忠恒(家久)も10石を返還しています(「国分諸古記」)。
義久に関する寺社仏閣に対し、腫れ物にさわるようなこの忠恒(家久)の行動は、おそらくあの忠恒(家久)ですら義久に対する後ろめたい物を払拭できず、義久の祟りを恐れた物ではないかと思います。

また、忠恒(家久)はたびたび連歌会を催しています。戦国時代には大名の教養として尊ばれ大流行していた連歌ですが、江戸時代に入ってからはその流行も下火になっていました。そんな時代遅れの遊びに何故忠恒(家久)が熱心だったかを考えると、義久が和歌が趣味で、たびたび連歌会を催していたことに思い当たらざるを得ないのです。忠恒(家久)は、義久の趣味を真似ることで自分の家督継承の正当性を家臣団に訴えようとしていたのではないでしょうか。

ちなみに、義久・義弘死後の忠恒(家久)の政治ですが、「旧記雑録後編」をさらっと見た感じですが、自ら先頭に立って改革を行ったという印象が薄いです。どちらかというと家老、特に筆頭家老であった伊勢貞昌に丸投げした印象が否めません。忠恒(家久)は権力の奪取には興味はあったようですが、その権力をどうやって生かして藩を盛り上げていくかと言うことには興味が湧かなかったと見えます。

こんな忠恒(家久)の後始末二代目として登場したのがその忠恒(家久)の息子の光久なのですが…彼もまた父親以上のコンプレックスに悩まされることになったのではと思われるのです。

…ちょい長くなったので続く_(。_゜)/

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