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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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「おまえそれで今まで良く会社勤めしてきたな」
「おまえごときにこの会社継ぐ資格なんか無いわ」
…上司が部下を人格攻撃するいわゆる「パワーハラスメント」の典型的な言葉ですが、
これらは上司が私の夫に言った事実の発言でもあります。
問題はこの上司=夫の父(つまり今の言葉で言うところの「毒親」)であることで、問題がややこしく複雑になっている原因なのですが…

※「毒親」についてはこちら
「パワーハラスメント」「パワハラ」についてはこちら



これは実は今回の前置き_(。_゜)/で
こういうひどい目にあって、初めて理解できたことがあります。

幕末の日本をお騒がせした大事件に「お由羅騒動」(別名「高崎崩れ」)といわれる事件があります。
一般的には
父(薩摩藩主):島津斉興 vs 子(薩摩藩世子):島津斉彬
の親子対立に藩内の対立が絡まって、このような大事件になったものと理解されているかと思います。
この親子対立については藩主の権力に固執する斉興に対し、人並み以上に聡明且つやる気満々の斉彬に対して、いつまで経っても他藩なみに跡目を継がせないため、結果、巨大な親子喧嘩となったとして知られがちです。
しかし、この対立のものすごさは単に親子喧嘩と片づけていいのか理解に苦しむ部分がありました。どれくらいひどい対立状況だったかはこちらのブログでその一端が伺えるかと思います。

しかし、今回先述のようなパワハラを目の当たりにしたことで、この対立の根底にある物が少し理解できたように思います。
おそらく島津斉興は典型的な「毒親」だったのでしょう。
勿論斉興が斉彬に対して「おまえは駄目人間だ」「おまえなんかに鹿児島藩渡してなるものか」…と明言したという史料は当然残ってませんが(実際言っていたとしても恥ずかしくて残せる物ではないだろう事は容易に推測できる)、斉興と側室・お由羅の方の間に生まれた忠教(後の島津久光)の種子島氏養子縁組を一方的に破棄し、島津家に戻した文政8年(1825年)3月時点で、斉興の心の中は「島津家の跡取りは忠教一本」に固まったと考えられ、その中で、徳川幕府にも認められた世子・斉彬をいかに排斥するかと言うことに斉興の頭は一色になったと思われます。

但し、江戸時代も後期も大詰めで海外からごちゃごちゃいろいろお越しに為られてはいますがヾ(^^;)基本的には平和そのもののこの時期ですから
(1)斉彬を暗殺!
(2)斉彬を陰謀にはめて排斥!
…というのはかなり難しい。特に、正室(鳥取藩池田氏出身)出生で江戸生まれ江戸育ち、一橋家出身の正室を迎えて徳川家は勿論幕閣にも覚えのめでたい斉彬を廃嫡するのはそう簡単ではなかったと思われます。
そこで斉興がやらかした手段というのが、親子関係を楯に取ったパワハラではなかったか。
儒教全盛のこの時代、親に逆らうのは今以上に難しい物だったことは容易に想像できます。
戦後の学会では原口虎雄氏の『幕末の薩摩』(中公新書)のように「斉興:善 斉彬:悪」という考えのほうが主流のようですが(大河『篤姫』の原作・宮尾登美子氏の小説『天璋院篤姫』もそれに近い)、実際パワハラにあっている者にすれば、誰に言っても解決できないそのフラストレーションたるや相当なものがあったはずです。鹿児島藩崩壊すれすれの密貿易の密告をして、フラストレーションの親玉たる父・斉興を追い出そうとする気持ちは非常に分かります。だって私も舅をこの世のどこかにいるという「仕事人」という方に(以下自粛)

さて
「パワハラ上司」「毒親」に為られるこの世のゴミのような皆様にはある共通点があるのだそうです。
それは、「自己愛・自己中心主義」「毒親の親もまた毒親」ということ。
島津斉興にも…いました。自己中が激しい「毒親」が。
それは実の両親ではありません。なぜなら、実父・島津斉宣は文化8年の「近思録崩れ」で強制隠居・実権を失い、以後は江戸の芝の鹿児島藩下屋敷で世捨て人のような隠居生活を送らされる羽目になります。実母・鈴木氏は藩主の生母として鹿児島城に下り「御国御前」と言われてはいたものの実態は「敬して遠ざける」そのものだったようで、島津家の家族として認められ「御内証様」の称号をもらうのは何と60歳になってからでした。そしてこの両親は当然斉興とは早くに別れて暮らしています。実際に斉興の養育に幼いときから関わったのは祖父の島津重豪だったかと推測されます。斉興は世子として江戸在住ですし、重豪も隠居として江戸在住だったからです。この重豪は「蘭癖大名」として知られ、国元の財政状況を無視して浪費をし、娘・寧姫(広大院)が前代未聞の「外様大名出身の御台所」となった権威を笠に着て「高輪下馬将軍」と言われて様々な大名から賄賂を取っていたという伝説もある曰く付きの殿様です。その逸話はさておき、「薩藩旧記雑録」などに残る史料からも、その傲慢自己中ぶりは手に取るように伺えます。

さて、この重豪が曾孫の斉彬をかわいがっていたというのはシーボルトの日記などからも判明するのですが、重豪と斉興の間がどういうものだったかは伺える史料を寡聞にして見かけません。しかし、重豪と斉興の父・斉宣との中は「近思録崩れ」で分かるように険悪な物でしたから、斉宣実子である斉興に対しても重豪の風当たりは冷たい物だったのは容易に推測できるのではないでしょうか。もしかしたら、始終斉興実父・斉宣の悪口を重豪は斉興に吹きかけ、斉興を精神的虐待していたかもしれません。斉興にとって重豪はまさしく「煙たい毒親」そのものであったに違いありません。
そして、皮肉なことにその重豪が溺愛したのが斉興の長男・斉彬だったわけです。重豪が亡くなったあと、その恨みが斉彬に移っていったのもまた自然な経緯であったでしょう。

ところで。
大河『篤姫』関連で幕末研究家としてあちこちで名前が出てくるようになった芳則正さん、『島津重豪』(吉川弘文館人物叢書)という、島津重豪に関する研究書を出してられるのですが、そこでページ数は失念しましたが重豪のことを「名君」と書いてらっしゃるんですよね。でも、重豪こそ島津家に禍根を残した問題のバカ殿のような気がしてならないんですが…。まあ、そのバカ殿がいなかったら、幕末の四賢候のひとり・斉彬の誕生もなかったわけですけど…。
にしても毒親の存在が幕末の日本を生んだというのは余りいい気分ではありません。

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