拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
建国大学という名前を知っている人はなかなかの満州国マニアヾ(--;)
『建国大学の研究』によると
この大学は石原莞爾の肝いりで設立された大学なのだが、
莞爾が板垣征四郎(当時関東軍参謀長)に大学設立への助力を依頼する
↓
板垣が辻政信に大学の計画を立てるよう命令する
↓
辻が平泉澄に相談に乗って貰う
…と、伝言ゲームヾ(--;)みたいにやっている内に、「日本の帝大では出来ない未来のアジアを担う人材を作る」という莞爾の理想からどんどん脱線して、「日本の帝大では出来ない屈指の皇道教育を行う」ちう別物の大学になってしまったという…
まあ、「物事は安易に人に頼まないようにしましょう」という典型的な失敗例なわけですが(をい)
『建国大学の研究』によると、今田が少し設立時に絡んでいるらしい。あの平泉澄が当時の回想で語っている。
内容については「つづきはこちら」をクリック。
『建国大学の研究』によると
この大学は石原莞爾の肝いりで設立された大学なのだが、
莞爾が板垣征四郎(当時関東軍参謀長)に大学設立への助力を依頼する
↓
板垣が辻政信に大学の計画を立てるよう命令する
↓
辻が平泉澄に相談に乗って貰う
…と、伝言ゲームヾ(--;)みたいにやっている内に、「日本の帝大では出来ない未来のアジアを担う人材を作る」という莞爾の理想からどんどん脱線して、「日本の帝大では出来ない屈指の皇道教育を行う」ちう別物の大学になってしまったという…
まあ、「物事は安易に人に頼まないようにしましょう」という典型的な失敗例なわけですが(をい)
『建国大学の研究』によると、今田が少し設立時に絡んでいるらしい。あの平泉澄が当時の回想で語っている。
内容については「つづきはこちら」をクリック。
平泉自身も当時のことを次のように述べている。「昭和12年の2月17日のことです。辻政信大尉が(新宿)曙町の自宅へ訪ねてこられ、実は板垣征四郎中将が参謀長として、大学を作ることを考えられた。それによって満州建国の精神的な指導理念を明らかにし、立派な英才を養育したい。それがなければ、とてもこの国を見事に育てることは出来ないだろう。と言う事で、満州から帰ってきた。ところが、参謀本部の今田新太郎部員が、平泉を東京から動かしては困るというのです。(後略)」後、今田に直接関係ないが興味のあるところ 箇条書きにて
p.52
(※引用元は『建国大学年表』p.7)
・建国大学の前期課程は、午前中は教室で一般教科を学んだが、午後は訓練教育に重点が置かれた。訓練には軍事訓練、武道訓練、農事訓練、精神訓話があった。(前言p.7)
なお著者の山根氏は「何で農事訓練をこんな重要視したのか分からない」としているが、石原莞爾の伝記を何冊か読んだ人なら、農事訓練こそ莞爾のキモだったのはぴんと来るだろう。満州事変時に東宮鉄男の「屯田兵計画」に直ぐに賛意を表し、仙台の連隊長時代には農業訓練を重視し、晩年は「日蓮主義の村作り運動」に血道を上げた莞爾は農事マニアであった。武道訓練についても山根氏は苦言を呈しているが、これが実は今田の趣味だったらしいという考察がされているのを何かの論文で見たことがある。又紹介できるかな。
ちなみに農事訓練は現地民、とりわけ漢民族出身者には非常に評判が悪かったそうです(p.192)(爆)莞爾涙目 莞爾の思ってる五族協和ってその点でも無理があったのでわ
・片倉衷の回想によると(『回想の満州国』)、石原莞爾がこの大学を作ろうと思った理由の一つに、大同学院(満州事変直後、笠木良明が満州国参事官の養成所として作った学校)が、莞爾が考えていた「建国精神と五族協和を分かっている人材」を育成できてない、という不満があったという。(p.52) そりゃ「建国精神」と「五族協和」は笠木と対立していた満州国青年同盟(後に協和会に発展解消)の旗印ですからな。最も大同学院自体が笠木良明が追放されてしまってからは笠木の理想とする「アジアの大同」すらきちっと反映できてない学校になっちゃったようなんで
・武道の担当教授は判明したところでは以下の通り
(1)万田勝:武道専門学校出身で、柔道専攻。東亜連盟会員。(p.124)
(2)冨木謙治:早稲田大学政治経済学科卒。秋田県角館中学教師を務める。柔道、合気道に習熟し、満州建国後、渡満して首都警察庁中央警察学校武道教師と成る。1939年に建国大助教授となる。(p.139)
(3)吉川武徳:国士舘専門学校(現国士舘大学)卒。のち満州に渡り、熱河省公署属官、喀刺沁中旗参事官、寧城県副県長、大同学院教官。1940年に武道担当として建国大助教授となる。(p.146)
万田の方は牛島辰熊と関係がありそう。後考を期す。吉川は経歴から見ると大雄峰会と関係がありそうな気がする。
・その他気になる教授陣
(1)岡野鑑記:東京大学経済学部卒。1926年横浜高等商業学校教授。それ以前から日満財政経済研究所プロジェクトに参加し石原莞爾と知己であったことから、関東軍参謀部経済顧問と成る。1940年頃には建国大教授となっていたが、1944年に横浜工商が横浜工業経理専門学校に改組された際、校長に招聘されたため退職。(p.152)
(2)角田慶福:陸軍士官学校出身、少佐で予備役。1940年8月に軍事教練担当として建国大教授となる。山根氏によると、予備役将官が大学の教授・助教授に任命されるのは日本内地の大学や高専では例がないという。(p.146)
(3)松平紹光:元陸軍軍人(士官学校第33期)、あの2.26事件に関わり少佐で予備役となる。その後、建国大学設立に初期から参加し、助教授(担当は軍事教練)に就任。が、1940年に教授昇格後わずか2ヶ月にして大学を辞めた。理由は不詳。
松平紹光は名前が立派なので華族関係者かと思ったが、検索した限りではそうではないらしい。
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