拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
『建国大学の研究』で、
東大教授だった平泉を建国大学学長として引っこ抜こうとした辻政信に対し、
「今平泉先生が国外に行ったら(残った若手将校の教育は)どうするの?」
と止めに入ったのが今田らしい、と言う話は聞いていた。
ところが、久しぶりにGoogleで「今田新太郎」で検索してみると、何とその平泉自身が今田の想い出を語った記録があった。最近UPされたんだろうな…
ではちょっと紹介してみる。
東大教授だった平泉を建国大学学長として引っこ抜こうとした辻政信に対し、
「今平泉先生が国外に行ったら(残った若手将校の教育は)どうするの?」
と止めに入ったのが今田らしい、と言う話は聞いていた。
ところが、久しぶりにGoogleで「今田新太郎」で検索してみると、何とその平泉自身が今田の想い出を語った記録があった。最近UPされたんだろうな…
ではちょっと紹介してみる。
昭和9年、満州国へいくときに釜山で汽車に乗った。広軌だから汽車は大きいでしょう。汽車に乗ったが夜にならないので寝るには早いので腰掛けておった。向かいに腰掛けておったのは陸軍大尉で、その人と話して非常に気持ちがあった。私はたいていの人は敵になるか、友達になるか一目で分かる。今田新太郎などと言う若い人などは汽車のプラットホームで会った。若いのに非常に爽快な人で、ちょうど鷹がにらんでおるようにこちらをにらんでおる。ほかにだれも人はいなかった。そこで私はこう見て、初めて会ったのでだれもわからんが、今田さんだろうと思って、「今田大尉ですか」「そうです、今田大尉です」それで会って仲良しになった。これはいつも絣の着物で家に来ましたが、先祖は大和郡山藩の槍奉行、山崎闇斎先生の学問を受け継いだ人で著書もある。お母さんが立派でしたね。この人など一目で仲良くなって、よく家に来られたですわい、辺幅を飾らない、いかにも陸軍の将校らしい、袴をぎゅっと短くはいて絣の着物で筒袖で、こういう人が非常に好きなんです。男らしい男がね。先に『昭和史の軍人たち』(秦郁彦)「阿南惟幾」などを読んでいたので、平泉澄→阿南、東条英機というつながりの方が印象に残っていたのですが、どうも今田とのつながりが先で、しかも平泉の家に都度都度訪問するほどですから結構なつきあいだったように思われます。
「東京大学史紀要 第18号(2000(平成12)年3月)」p.64~65
http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol18_3interview-1.pdf
ただ、上掲の「東京大学史紀要」の平泉澄談話速記録はこの前に5話ほど続いており、それを読むと平泉と軍とのなれそめはそれよりずっと前、有馬良橘(海軍大将)が明治神宮の宮司をしていた頃にさかのぼるようだ。
他に気になる点
・「今田新太郎などと言う若い人」…と書いているが、実は平泉と1歳しか違わない(○。○)
・今田のお母ちゃんは平泉が知ってるほど有名人だったんだろうか…その可能性は否定できないが
・初対面で面識のない軍人をよく今田と見抜いたな平泉。もしかして満州事変関連で顔写真が新聞に掲載されたりしたんだろうか?うーむ。
・田村真作の『文春』記事もそうだが、今田の着物姿は妙にみんなの印象に残るのか、わざわざ文章にしている人が多いです…でも今田のこのコスプレヾ(--;)、昭和初期の将校さんの平服、というよりは明治初頭の書生さんの姿そのものですよね
・しかし、今田本人のことはもちろんその両親のことまで正確に覚えている平泉。記憶力に脱帽。
・ここにも今田にはまってしまった人が一人…今田に妙な下心があるのはシュークリーム真崎だけで勘弁して下さいヾ(^^;)
今田に関係がないが、印象に残った箇所など
全6回連載という長文なので基本的には箇条書き
・大正12年3月 東大国史学講師となる 受講生には坂本太郎など(http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol13_4interview-1.pdf p.155) え~坂本太郎先生は私もその著書には非常にお世話になった…えーっ、そうだったの…
・大正7年に平泉は卒業するときに大正天皇から恩師の時計を賜ったが、インタビュアー(現東大名誉教授の伊藤隆氏など)が触ろうとすると「触らないで下さい、指紋がつくから」と厳しく制止した。(http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol13_4interview-1.pdf p.158) 私も遺物を触ろうとしたら教授に「指紋がつく!手の油がつく!」と制止された記憶がある。
・恩師の時計を賜ったのは他にも一杯いるのだが、戦後になってそれを明らかにしているのは平泉一人、何かその手の番組があるといつも出るのは平泉だけ、これを授与されたときに一度朝日新聞の取材も受けたことがある。ああ、昔の朝日の記者は良かったなあ、今と比べて。(http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol13_4interview-1.pdf p.158) あはは。平泉だからそう言うと思った。
・大学は大正7年に変わってしまった。原因はロシア革命だ。これに感化された学生が「新人会」を作って日本の新しい方向を扇動したのだ。これ以後恩賜の時計も天皇の行幸を迎えての卒業式も途絶えてしまった…論文だってそれまでは日本紙に筆字で文語だったのに洋紙にペンで口語体、楽な方へ流されていったんだ(http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol13_4interview-1.pdf p.160-161) 大正7年辺りをきっかけに学問の傾向が変わったのは衛藤瀋吉も述べている。後この理由を説明するのに平泉は制止したために一部未収録になっているのだが、何をしゃべったのだろうか。気になる。
・卒業したときに、やっぱりトップだったのであちこちの大学や高校から就職の声がかかったのだが、黒板勝美に相談に行くと「全部断れ!」…なんで、そのまま東大に残ることになった。これのお陰で最終的には東大教授にまでなれたのだから黒板先生には感謝(http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol14_3interview-1.pdf p.88) 何と平泉の実質的な恩師は黒板勝美だったのか。黒板勝美の本にもお世話になったような…えーっ、そうなのか…。ちなみに黒板勝美の甥の妻があの永井路子だったり。
・大学院時代、黒板先生のお世話で日光東照宮の調査に出向いたのだが、この時に東照宮建設の過程を明らかにしたのは俺だ俺 なのに戦後の対談で下っ端の助手にしか過ぎなかった高柳光寿が「日光東照宮の建設の通説をひっくり返したのは私なんですよー」と自分の手柄にしやがって…(http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol14_3interview-1.pdf p.89) 高柳光寿の専門は中世史(戦国時代) なので、このブログ見ている人ならうっすら名前ぐらいは知ってるかも?
・やっぱり大学院時代に8円ぽっち(現在の約30000~50000円相当?)で対馬に行って宗氏の資料を調べてきて「宗氏の先祖は通説では平重盛となっているが、実は惟宗氏」と言う事を証明した(http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol14_3interview-1.pdf p.92~93) 実はこの説『平家後抄』と言う本(1978年初版)ではまだ紹介されてない。平泉の功績は無視されていたのか?
・大正から昭和に掛けて東大に大量にアメリカ人留学生が来るが、平泉に言わせるとその連中は全員アメリカのスパイだったとのこと(http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol14_3interview-1.pdf p.94)
・史料編纂所と国史学科は仲悪かったらしい 西洋史学科とは仲良し(http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol14_3interview-1.pdf p.95)
・手元に秀吉の書状持ってるんだが、その内容というのが朝鮮出兵時の日本軍への禁制である。でもこの書状があることから分かるように実際はそんな事はないし、今回の戦争(=第二次世界大戦)でも米軍が日本軍の悪業を言いふらすので日本人は肩身の狭い思いをしているが、アメリカがやったことに比べたらたいしたことない(http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol15_3interview-1.pdf p.61~62) だがしかし色々あったからこういうお触れを出したとも言えるわけだが平泉よヾ(--;)アメリカが自分のこと棚に上げていろいろ勝手なこと言ってるというのには同意
・戦時中は陸海軍を事実上指導していたが、謝礼より持って行った資料代の方が高く、みんなが思っているほど儲かっては居なかった。それでも続けたのは国の勝利のため(http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol15_3interview-1.pdf p.64)
・海軍が壊滅したのは平賀総長が悪い 真珠湾攻撃で航空戦が大事なことは日本が実証したのにその教訓を生かしたのは米軍で、平賀は戦艦に固執した(http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol15_3interview-1.pdf p.65) 「平賀総長」とは東大総長・平賀譲のこと。戦艦大和の設計者らしい。
・意外にも昭和4年から昭和6年までヨーロッパ諸国とアメリカを回る大遊学をしていた(http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol15_3interview-1.pdf p.68~78)
…結構長くなってきたので、この辺でいったん切ります。
また気が向いたら続き入力するかなヾ(--;)
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