拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
久しぶりに中江丑吉関連本の紹介。
これは中江丑吉晩年の”側近”だった加藤惟孝氏の中江関連の論文やコラムを集めた追悼文集です。
なので、今まで紹介した分と重出する物が多い
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これは中江丑吉晩年の”側近”だった加藤惟孝氏の中江関連の論文やコラムを集めた追悼文集です。
なので、今まで紹介した分と重出する物が多い
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と思ってたら、これが初出のがあった⊂(。Д。⊂⌒`つ
書簡2(昭和17年5月2日、北京興亜学院から。今田新太郎宛)<役に立たない補足>
拝啓、4月19日付の御手紙、数日前ありがたく拝読致しました。昨5月1日附に差し上げた電報は到着のことゝ存じます。
(以下長文につき略)
今日は右でとゞめます。そちらの気候は如何でせうか。小生は今度の御病気ではあなたに対し事務員として登場した為、又、ホカのことはよく考へられなかったため、錯覚を起して、今のあなたご自身が大変なのだと云ふことに少しも想い至りませんでした。先生にその話をしたら、さうだあの人こそ大変だ、と云われました。御生活のいろいろのこと想像申し上げてをります。御健康をお祈り致します。手紙が少しでも早くつくやうに宛名に工夫を致しました。 敬白
加 藤 惟 孝
今田新太郎様
p。155~161
・今度の御病気:今田の友人・中江丑吉はこの頃再起不能の肺結核で、加藤他看護者を必要とする状態になっていた。
・今のあなたご自身が大変:激戦地の第36師団の参謀長になっていることか この他にも何かありそう
・手紙が少しでも早く~:この翻刻にはその宛名が載ってないので、どれくらいの工夫がされたのか不詳
書簡5(昭和22年(1947)2月15日、千葉県蓮沼から。小野勝年宛)<相変わらずのていたらくの補足>
拝復。12日附御手紙拝受致しました。
(中略)
私は近く東京で就職生活をする予定でをります。就職は全くの乞飯中心の物を選ぶ次第ですが、今田新太郎さんが数人で一緒に左伝から公羊伝を読んで中江さんの論文を少しでも読み易くしようと云ふので、それをやる考へでこの2,3ヶ月準備をしてきました(今田さんから書物を借りて)。
(以下略)
p.165~168
・小野勝年:恐らくこの人
・左伝:春秋左氏伝
・公羊伝:春秋公羊伝
これは貴重な今田の晩年の消息を伝える文。軍人でなくなった今田は、晩年を友人の中江丑吉の研究の大成に捧げようとしたのだろうか?
他、興味深い箇所をちらちら。
蘆構橋事件が起った時、中江さんは海水浴のため九州小浜海岸に着いて2,3日目であったが、そくざに1ヶ月の予定を切り上げて北京に帰ってしまわれた。長期の戦乱が来たのに避暑することはつつしむべきだというのであった。やはりそのころ少時から親しんだ後輩の今田新太郎大佐宛に、今度の事変は蒋介石を明の太祖たらしめる物だ、と言う意味の手紙を送っていられる。これは有名なエピソードで他の本でも何度も重出したかと。
p.4
おそらく石原莞爾は勿論、河辺虎四郎、高嶋辰彦、堀場一雄も読んだはずのこの手紙、その後行方不明になったらしい(○。○)鶴岡市立図書館の石原莞爾コレクションの中にもないようだし、防衛省所蔵の高嶋辰彦コレクションにもないようだ…
山西にいた今田少将が北支軍参謀長に内々議せられた時、関係者が揃ってある日訪れると、中江さんは相手の口を開かせずに「今田(ちんてん)を参謀長にするというんだろう、あれを妙な政治に引き出してくれるな。あれは戦場で死なせてやってくれ」とズバリといわれた。恐ろしい勘でもあったが、ここでは「2つか3つ」の例である。それは守られるべきである上に、それが侵される場合は気持ちよく危害を受けることの出来る、各人の五分の魂であった。これも他の本で重出済みかと。
p.11~12
<これも重出するかも知れないが補足>
・山西にいた~北支軍参謀長:今田が山西省にいたのは第36師団が山西省にいた昭和16年~18年の間、しかも中江丑吉は昭和17年8月に没してしまうので、昭和16年11月の田辺盛武中将転任時か。にしても、北支軍参謀長は代々中将クラスが任官するので、この当時大佐(上記の文で「少将」としているのは間違い)の今田が就任するとなるとかなり異常な人事であることは確か。参謀副長ならクラス的には妥当。
・「2つか3つの例」:中江丑吉は周囲にいる人に「自覚した大衆(マッセ)は2つか3つどうしても守ることを決めておいて、後は出来るだけ普通にやるんだ、そうしないと弱くなる」と説いていた(p.11 他の中江本でも重出)
また東亜共同体論なる物が唱えられ出した頃、中江さんはそれをアナクロニズムと断定して怒気をもって退けられたこの「東亜共同体論」には「大東亜共栄圏」が入ることはもちろんでしょうが、石原莞爾が唱えていた「東亜連盟論」も含まれていたんでしょうか。もしそうだとしたら、東亜連盟に加入していた今田にとってはかなり手厳しい批判になるように思うのですが。
p.19
おまけ
中江丑吉本人は「自分はマルキシストじゃねーよ」と明言していたそうだ。(p.167)
最後に、この加藤惟孝氏の略歴
明治43年(1910年)12月 千葉県生まれ
昭和10年(1935年)3月 京都大学経済学部卒業
昭和11年(1936年)9月 中国に渡り、中江丑吉に師事するようになる
昭和13年(1938年)3月 北京同学会語学校(後北京興亜学院→北京経済専門学校)教授
昭和21年(1946年)4月 敗戦に伴い帰国
昭和25年(1950年)4月 東京教育大学農学部講師
後助教授を経て
昭和35年(1960年) 東京教育大学教授(経済学専攻)
昭和47年(1972年) 癌の為死去
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